美術ランダム
2014年
/ポーラ美術館コレクション
/白髪一雄記念室/ジェフ・ベック/川本太郎 酒膳/さが行動展
/がんばれ高校生/多久ミュージカルカンパニー/川本達也作品展
/ブリキのおもちゃ博物館/チームラボと佐賀を巡る/文化サークルフェスティバル
/太田剛速小石原焼き展/アンディ・ウォーホル展/ハイレッドセンター/禅・仙
2013年
植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ/
木村伊兵衛展/六本木クロッシング2013 /有司男VS乃り子・二人展/
博多座 三味線/塚本猪一郎展/佐賀県展/山崎正之展/
動物の謝肉祭/佐賀市民芸術祭前夜祭/ビー玉転がし/
佐賀市民芸術際参加/モースコレクション展/釜山の画廊/
ターナー展/陣内敦展/モローとルオー/ミケランジェロ/山田直行展/
川本太郎作陶展
/アントニオ・ロペス1-4/磁場作品搬出/
磁場の打ち上げ/アンドリューさん佐賀へようこそ/
磁場展初日/磁場展の飾り付け/仁徳天皇陵古墳/
/緑光会展/オリエント美術館/岡山県立美術館/国吉康雄/
竹久夢二郷土美術館/オルビリオンとクリスティーナの世界/美協の搬出
山口亮一画伯のデッサン/美協day/ 美協の飾りつけ/種臣と梧竹
/川副田園の郷ギャラリー/早瀬美佐子さんの水彩画個展/
草茫々通信6号「片島紀男の仕事」/中之島図書館
/美の饗宴/古川清右遺作展/二人のダイジロウ熱く語る/
上滝泰嗣個展/舟一朝展と農業祭り/佐賀水彩連盟展/新年描画
2012年
ふすま絵/アトリエM展/
ァンタスティックな野郎たち展/塚本猪一郎展/イルミネーション/
カフェ・ブラッサンス/店舗にイルミネーション/山下清展/
中尾蔦一展/
60年代アー/ト東京都現代美術館へ/特撮博物館/
夢は円谷英二監督/奈良美智展/陣内敦 個展/山下清展/
中村暖くんの「絵画で日本を一つに展展覧会/吉田進一米寿展/
草茫々通信 5号/磁場展終わる/緑光展/
ダビンチ ビー玉/高橋浩寿会10周年/磁場の看板/
岡田三郎助―まぼろしの名画/新郷土表紙展/河合春佳展/第95回美協展/
松涛美術館/初音ミクのコンサート/宮崎大治郎個展/コスプレ衆/
京都国際マンガミュージアム/ 松原由佳 Sickマジック展/
 水彩画4人山崎正之のアート展/ワンピース(ONE PIECE)展/
原田泰治の世界展/ 栗山奉文個展/川本太郎・パン皿展/東島毅展/
さが行動展/ 田中忍展/渡辺浩二の彫刻展/享保雛/豊島アート/
バンクーバースケッチ/亀冶郎さん/靉嘔 展/ポロック展/真子達夫回顧展/
野村昭嘉+眞子達夫/めでたい展(シルクロ/黄美展/漁港/
2011年
たけしのアート☆ビー/石川県立美術館の裏口/
21世紀美術館/子供より自由なピーター/新潟県立近代美術館/
真崎太仁子個展/M展/ファンタスティックな野郎たち展
/津軽三味線の三人/佐賀県展/塚本猪一郎個展
/渡辺俊美ライブ/キム・ソンス 木彫り人形展/
/菊水堂絵画教室展/モネからウォーホルまで
/フェルメールからのラブレター/展グローバル韓日作家交流展/
瑛九T/瑛九U/草茫々通信3号/安野光雅の世界展/野見山暁治展/
原美術館/陣内敦展/涼み展/フォトサロン、日洋展、磁場/
山口亮一のゆたかな絵画の世界/二科会佐賀支部展/舟一朝 3.11展1/
美協傍観/池田学画集T/江口孝徳さんの水田/肥前通仙亭/
横尾尚写真展/フェルメールとフランドル絵画・岡本太郎記念館/
フレンチ・ウインドウ/レンブラント/狩野一信/
絵画3人展/中島潔 清水寺襖絵展/下村康二退職記念展/
ハチロク展
/佐賀彫刻集団展/金子剛と黄美七人展/
山崎正之アート展/動物のいるはな/し文化村/シュッレアリスム展/
140年前の江戸を撮った男/)川本達也作品展/フォト575/
川本太郎さんの急須展/ゲンダイオンガクって面白い/
田千恵子著「佐多稲子の中の佐賀」「佐多稲子『樹影
2010年

ファンタスティックな野郎たち展/モネとジヴェルーニの画家たち/ゴッホ展
松原由佳Autume201//松本清張記念館と黒田征太郎さん//
じゃじゃ馬馴らし/塚本猪一郎作品展/釜山ビエンナーレ/
日韓文化芸術交流展交流/
ミヤザキケンスケ作品展/
小川泰彦 展/五人展/宮崎大治郎個展/
菊水堂絵画教室展/佐賀田園の郷ギャラリー
/佐賀県展/韓国てんびょう/フランダースの絵画../
/近代美術館フィルムセンター.
./長谷川和子染色展/
野見山暁治 展
/多布施クリニック作品展/ミュシャ展/
草茫々通信/二紀佐賀支部展/磁場展/白景玄展/マン・レイ展/
オルセー美術館展/マン・レイ展/有本利夫展/
ヘンリームアー展
/大昆虫展/大串亮平 日本画展 /
やっちゃんの一書展/緑光展/探検美術館
/忌野清志郎が描いた500枚の絵画〜/雨の磁場怪/オランウータン/
日洋展佐賀/邦楽の夕べ/針生一郎さんが死去/
 
凌先生のミニ金魚/磁場のパーティー/
ピカソの絵画101億円/巨匠たちの絵画盗難/荒川修作さん死去/
服部大次郎・水彩画展/山崎正之のアート展
六本木クロッシlシング2010/旅で出会った風景と人物展
栗山泰文絵画展/行動展/徳永・勢山 二人展
さがのよかとこ発見/解体新書初版本/大隈武夫展と北高卒業制作展
近代との遭遇/小杉 奘太 隆治 父子展
池田学くん/服部大次郎の佐賀の伝説展/
大塚清吾のシルクロードふたたび//
黄美展/
2009年
M展/ファンタスティックな野郎たち/白水会展
塚本猪一郎個展/ポピンレースとクリスマス風景写真展/
武藤辰平 フランスの風/日韓展3日目/日韓展前夜/
坂本善三7人展/P・マッカートニー&ザ・フーのライブ/
三陶展/反逆児たちの群像/
佐賀県展/阿修羅展/舟一朝 石積みの風景
/津軽三味線 高橋浩寿&浩寿/酔いの打ち上げ/
磁場ワークショップ/磁場で夕涼み/真子さんのパイプ/
ガンダム/大人のための”ふるさとは地球・・”展/
金子剛古希展/吉田進一近作展/ひとり陶器市/二科展佐賀支部/
ジョージ・シーガル/トロンプルイユ展/
マイクロポップ/コロンコロンコテンコテン/美協展/
辻井伸行さん/レイ・キネイン写真展/
川本太郎花などのためのうつわ展/林田龍信作品展/
吉冨久美子さんの「ピアノミニリサイタル
松原由佳さんの丸三角展/中西夏之展/芳年浮世絵展/瀬戸口朗子個展/
傘寿記念 染色 小川泰彦展/松原由佳・スプリング展
佐賀錦展/山田直行ふるさとスケッチ展/
坂本善三 画布200号 大作でつづる善三の世界/菊水堂絵画教室展/
平方和善絵画展/アンドリュー・ワイエス逝く
/「黄美展」
2008年
ピカソ展/
太郎とワイエス展/安藤忠雄建築展・住吉の長屋
/日韓芸術人交流展/高畠輝明・輝子・親子展
塚本猪一郎 作品展/江口彰個展・三次元の日の丸/
武藤辰平資料展/真子達夫遺作展/
山田直行・水彩画展/街角の写真とポピンレース展/
柳町郵便局「中尾和紀個展」/小川泰彦個展/四人展/中尾和紀展/
アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶/
磁場展搬入/
国立近代美術館/フェルメール/探険美術館/
青春のロシア・アヴァンギャルド/代官山/二科展/宮崎大治郎個展/
冒険王・横尾忠則/本田光男 個展/石積みドローイング/
服部大次郎個展設営そしてオープニング/ゴールドメダリスト/
37年前の200号/美しき戒名/DRAGON for A・C・クラーク
ぺた展/上滝泰嗣洋画展/野中瑛碩80歳作品展/黄美展
2007年
北高芸術コース20周年記念展/
九州派再訪-2/松原由佳SICK展/韓国美術のリアリズム/
一ノ瀬泰造写真展/日韓文化芸術人交流展/横尾尚 写真展/
真崎太仁子個展/江口彰展/聞きしに勝る大原美術館/石積みの個展/
高橋浩寿/高橋孝コンサート/もっと、探検!!美術館/
人間国宝/
ボックスアート/大竹伸朗展/磁場展飾り付け/
)園田克成写真展/矢ケ部明彦個展/団塊展/アミーゴ展/
憂鬱な小説家・開高健/第90回・佐賀美術協会展/
山口亮一画伯「家族写真名作展/作品が静に語る時
/
AIS展/宮崎大治郎個展/石本秀雄展/彫刻集団・佐賀/
ハチロクアンデパンダン展古賀悦子・ボツワナのおもいで展/
舟一朝・「三角布プロジェクト」
2006年
障害者の性/古賀亜十夫(あそお)遺作展/
塚本猪一郎・カレンダー制作20年記念展/北島治樹個展/M展/
ファンタスティックな野郎たち」展/一騎打ち ポロック、クリムト/
ポロック、クリムト/現代中国の美術展/マドンナたちのフィリッピン/
小池絵美子個展/ジュリアン・シュナーベル/ボックスアート
高畠輝子・英展/
ポンコツ倶楽部の模型展/
TPN写真展/緑光展/探検!!美術館
塚本猪一郎/
光山照行誕生會北川春重絵画展/中尾和紀ジャ個展
雪舟から源平まで/吉田進一個展/吉野ヶ里誕生展/萩原俊樹回顧展/
服部大次郎 三瀬りんご園スケッチ展
2005年
/唐津の宮崎大治郎展
モンドリアン/勤労者美術展/森和幸個展/磁場展日記//吉武研司個展/
/中学校美術部合同グループ展/東光展、 理科室の住人展/深草廣平回顧展/
/
舟一朝吉野ヶ里プロジェクデヴィッド・ホクニー/荒川修作/ト中尾和紀個展/
佐賀支部・二紀展/
舟さん、有明海のメッセージ/山田直行個展/
クリスト その2/
クリスト「The gates」/佐賀大学卒業制作展/ 
MoMAの改築/
大串亮平日本画展 /牛津赤レンガ館の「日韓交流展」/
麦踏み/MoMAの改築/土師一也回顧展/
二母元型/岡本太郎さん/
阿蘇・九重の風景/田代利夫水彩展/
2004年
ジャポニズム/杉光定個展/瀬戸口朗子個展/
塚本i猪一郎個展 /東光会展とM展/肥前刀展/潮騒展 /日韓芸術人文化交流展/
松原由佳個展 /西村信行 詩誌「葉序」12号 /野見山暁治展、ワイエス展/
干潟海岸プロジェクU」/
牛津のレンガ館/舟さんの干潟海岸プロジェクト/
水田和夫個展/ポール・デルヴォー展/江口彰展/04県展
/
兵頭健吾遺作展「美術館はタイムマシーン」/AIS展 /香月泰男展/田中一村展/
宮尾正隆展
/薬師寺太一個展/ 瀬戸口朗子個展/ デビッド・ホクニー/
ジャスパー・ジョーンズ/
2003年
長友心平個展/チェズの手紙/林田龍信..中尾和紀展/
江口彰 個展/セミの作品 花火が見たい広島巌 個展/坂本善三美術館/
美術館はふしぎの王国/岡鹿之助/おなご先生に拍手/オープンスカイ、八谷和彦 展
/亀の平面/
子供博審査評/マニュアルの疑問/吉田西緡画集/
2002年
絵をかく腰つき/五木寛之氏の講演 恨(はん)/草間弥生/
テロから一年/舟さんの個展/ニューヨークの次郎長

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2023年
佐賀大学美術館開館10周年記念 響きあうアート
9月 12日(木)響きあうアート(佐賀大学美術館館)

美術学部の先生と他学部の先生とのとのコラボ。
ビジュアル的には普通の現代美術。ただ古い。かつての方法を踏襲しているにすぎん。。
新しさはない。物理、心理学、農業(山)、哲学等の先生とのコラボというのだが、
どこがコラボか何もない。自分らで決着をつけた言葉を再現し用途したのだろうが、何もない。
困ったものだ。観念、概念的というのでもない。新たに作り出そうとしていないところに
何も出ず、響きあうなど遥か向こう。
生徒さんたちがやった方がまだよかった。
本来、現代美術においてはすでに農業、環境、物理、哲学などなどと融合、対立、崩壊を
繰り返している。自然にやればいいのだ。。
2014年
4月21日(月)ポーラ美術館コレクション
午後、午後、ポーラ美術館コレクション展
(佐賀新聞130週年記念佐賀新聞社主催/佐賀県立美術館)の開場式に行く。
いつもになく、たくさんの人でセレモニーが行われる通路はふさがっている。
佐賀新聞社中尾清一郎社長の挨拶から始まる。
社長の美術、絵画への造詣の深さはしられるところだが、
少年時代に複製画を買うところからはじまり今回この展覧会を開くに通じる夢の実現てもあるようだ。
ポーラ美術館は2002年に箱根に開館しているが、コレクションのよさで人気の美術館になっている。

先に行われた国立西洋美術館とポーラのモネ合同展でもポーラのコレクションが多いのである、
といわれるぐらい日本でもトップクラスのコレクションを保有するようだ。
壁面にも工夫があってブルー、グリーン、ピンクの三つに分けられているが違和感はない。。

最近の展覧会で壁面のカラー化は普通になってきた。
どんな壁面や状況であろうとちゃんと在りえればイイ作品といえるだろう。

まだ見たことのないポーラ印象派のオンパレードである。
ムンクの作品も1点だがあったのはうれしい。

地元でこれだけの充実した内容の印象派展は過去にあっただろうか?
なかった。
現代につながるブラ
ク、ピカソまでが今佐賀という地に存在しているというのも
改めてす
ごいことである。

4月5日(土)白髪一雄記念室
大坂から阪神電鉄で尼崎へ。
尼崎駅を出て通りに出ると茶色のビルのてっぺんに”あましんアルカイックホール”の
看板がひときは目立ち、
探し歩くまでもなかった。
ここの総合文化センターには白髪一雄記念室がある。
具体美術で活動した尼崎出身の前衛アーティストである。
1924年尼崎市生まれ〜2008年逝去。
天井からつるしたロープを支えに床に広げたキャンバスに素足で絵を描く人といえば知る人
も多かろう。
小さなギャラリーではあるが、白髪氏の作品、デッサン、スケッチブック、書籍、写真など4000点の
コレクションを中心に
随時作品が入れ替えられているという。
数は少ないが1960年〜1980年代の実験的絵画やオブジェが展示してある。
他にお客はなく、済まないように伸び伸びなる。
受付のお姉さんが制作風景のビデオを流してくれた。
映像でしか見たことないが、絵の具の足混ぜ滑りはポロックもビックリだろう。
プロ用の大型絵の具チューブをハサミで切り開き惜しげもなくキャンバスの上に落とし、
足を滑らし描いていく。
絵の具を出したり作家の足を拭いたりとあうんの呼吸の助手さんは多分奥さんであろう。
そして5時閉室、お姉さんにワルイのでビデオの途中でギャラリーを出る。


4月5日(土)ジェフ・ベック
エレベーターで階下に下りると人だかりがあり館の事務所ロビーにも人がたくさんいる。
ジェフベックのコンサートの開館を待つ人たちである。
外は寒いが行列に並んでいる人たちもいる。
30,40,50,60代の男性ばかりである。30代40代が主流のようだ。
女性は男性50人に対し2人の割合か?
5時30分会場。
早くも販売コーナーのグッズ売り場は大行列。
オタク風マニアックな男性がうようよ。
席は二階後方の端。ステージを遠く見下ろす。
ステージに設置してある演奏機材を黒山になって観客が撮影する。
スマートフォンでの演奏中の写真撮影も”OK”である。
ただし「お願いです。ここで撮った写真をフェイスブックなどで紹介してください。」と
いう粋な場内アナウンスがある。
最早、世界的にはこれが主流のようだが。
かといって、演奏中に一斉にスマートフォンの放列となることもなく、マナーたるは
日本も国際水準である。


白いシャツに黒のチョッキのジェフベックが登場。
野郎どもの興奮のWooUoo!が会場に響くが、ジェフのギターはそれを打ち消すかの
ように鋭く炸裂する
。再び、男たちの鳴きそうなWoooooWoooがギターと重なる。大音量に場内の
床も空間も波動する。
激しく繊細に、速く的確に旋律が刻まれ、一音一音が激音となって、観客のハートをつかむ。

時に切なくミステリアスにギターが泣いている。
ベースは女性、ギター男性、ドラム男性の4人の構成で、ジャズ風ロックともいえるジェフベックの世界を創り出す。スゴイ連中である。
ギターだけでこれほどまでに観客を魅了してしまうのである。
ジェフベックはやはりジェフベック以外の何者でもない。
派手なパフォーマンスもなければMCもない「Thank you」が演奏後に聞き取れるぐらい。演奏に徹するのである。

観客も身を乗り出して聴き入り場面よくWooooを上げる。
終わりのころにやっと観客も立ち上がりはしたけど、これがジェフベックの世界のようだ。
今年は1月から大物がアーテイストが日本に続々上陸している。
ほとんどが70を迎えたおじ(い)さんたちだが、元気である。
ポールやクラプトンは最後とも言わ
れているが・・。

ジェフも今年70になるという。立ち姿もギターもカッコイイ。
まだまだ進化しているようだ。

3月29日(土)皿屋 川本太郎 酒膳

激しい雨。
夕方、<皿屋 川本太郎「酒膳」展>のギャラリーいばへ行く。
クロサワ映画のめし屋の酒膳のような白い徳利やちゃわんが並ぶ。
「おやじ、銭はないけど、何か食わしてくれ」
「わかってるよ、芋の子しかないけど、さっさと食ったら出てってくれ」
「ついでに一本付けてくれ」
芋の子をつまみに一杯やれば、桑畑三十郎といったところか。
浪人や町人のたまり場のめし屋の風景が見えてくるような酒膳器である。
使ってこその皿や飯ちゃわんであろうが、飾ってみても、他の品々とわだかまりなく、
仲よしになるようだ。
気取りといったものすらないように自然にあろうとする食器たちである。
食器から風景が見えてくるという自然さがイイ。

その夜、いばにて太郎さんの個展を祝っての宴が開かれた。
外は土砂降り、内は乾杯、桜はなきじゃくら。
雨ん中を下駄突っかけてお姉さんお兄さんが駆けつけ三杯。
太郎さんの地産池消的旬の山の味があるかとおもえば、
朝から仕込んだというS山嬢のてんこ盛りのごちそうあり、おいしかったです。
それに、「食べて食べてよ」のいば社長の水炊きまで、ごちそうさんでした。


3月27日(木)さが行動展
午後、県美術館で「さが行動展」と「グループきしま展」を見る。
行動展は下平さん、廣島さんのはじめ、全員が200号150号の力作を披露。

元気一杯の表現は春の輝きに負けていません。

受付の杉光定さんが「家におれないようないい天気でしょう」と。
そのとおりです。


3月23日(日)がんばれ高校生桜も咲いて春の陽気。
午後、エスプラッツホールで「街かど総文化祭」演奏会があった。
佐賀県の高校生の文化祭である。
津軽三味線、ピアノ、合唱などがあった。
個人レッスンを受けている人もいるようで、すばらしく上手である。

アーティストとして成長が期待される。
なのにお客が少ないのがかわいそうなくらいである。
各学校もスポーツとなると親も必死で学校も動員をかけるようだが、
文化にももっと目を向けるよう校長にお願いしたいものである。

3月16日(日)多久ミュージカルカンパニー
午後、多久市中央公民館での県民文化フォーラムにいく。
そのオープニングが素敵で感動した。
多久ミュージカルカンパニーの子どもたちの歌とダンスである。
色とりどりのTシャツを着た小中学生が50人ぐらいはいたのだろうか。
佐賀にもこういったグループがいくつかあるようで、練習しているところは見たことあるが、
ステージで見るのは初めて。
元気がある!上手い!物怖じしない。
最前列に座っていたので、息遣いや表情までもが細かく見て取れた。
多久の伝説「林姫哀歌」の一部であろうが、表情豊かに演じる子どもたちに見とれた。
逆に見られているようでもあった。
緊張した様子もなく全員が自分の気持ちを出しているように自然に見えた。
指導者の人たちも一緒に歌われてイイ雰囲気であった。
本番は4月19日(土)と4月20日(日)多久市中央公民館で開催される。
それから、佐賀市に戻り、佐賀美協の会議にでる。
その後、懇親会。最後まで呑んでたみなさん、お疲れさん。

3月11日(火)川本達也作品展

3・11東日本大震災から3年が経つ。南無阿弥陀仏・・。

川本達也作品展(川副佐賀田園の郷ギャラリー 2014年3月2日〜5月3日まで)
大作6点をメインに9点が飾ってある。
今まで制作された作品のほんの一部分であろう。
モチーフというか、川本さんの作品にはフィルム、アゲハチョウ、ビー玉、能面、しわくちゃの紙、
アンモナイト、ガラスの破片、架空の都市などが繰り返し登場する。
その中でもビー玉が多く使われている。
ビーダマの輝き、そしてビーダマの内と外、透けて見える向こう側の世界であったりと
根本に球体の概念があるようだ。
時間と空間ということになるのだろう。
しかし、画面は直線や矩形で平面的に構成されることが多い。
モチーフはひとまず具象的に描写されるが、平面上に放り込まれ(配置され)限りなく
平面に近い物体(立体)となって、平面に同化しようとするのである。
矛盾するようだが、それでも背後には球体の思想が隠されている。
それぞれの題材(モチーフ)を見ても当然のごとく過去、現在、未来という時空間的宇宙観が
キーワードとなっている。
また、題名にしても「無常」「幽玄」「遥かなる営み」「現実と夢と」「夢幻」「生きとしいけるものの讃歌」
「生きとしいけるものの哀」
「クォ・ヴァテス(汝は何処へ行くのか?)」など仏教的な無常観にもみえるが、それにとどまらず、
森羅万象、円環、球体の宇宙であろう。
ご実家がお寺だったといこともあろうが、作品は原色を主体にしたポップな見え方である。
元来仏教美術作品にしても今日以上にカラフルでポップなものも少なくない。
ミクロとマクロ、分裂と融合の反復の構造は目には見えぬが、業として宿命として
身体が持っている生命観である。
それは、感情のない空間か、平面であるのかもしれないし、平面に具象、立体の説明はなく
平面の前後に生じる宇宙DNAとでもいうものが、感じ読み取るもののようで、
平面+空間=無となるようだ。
ここ10年はクォ・ヴァディスシリーズをやってこられた。
キュービックな中のクリスタル都市であったり、都市の連続であったり、分裂であったり、
繰り返される時代の一瞬には違いなく、
汝はなにをしてきたのか?、なにをしようとしているのか?汝は何処へ行くのか?
と自問自答されているのか、ボクら自身も問われている。

3月8日(土)京都のブリキのおもちゃ博物館
京都も寒い。
どうも、花粉のようだ、鼻水くしゃみが、ひどい。
そこで、れいのクスリを飲む。
鼻水も止まり目のかゆいのも消えた。
効きすぎるクスリである。
四条大宮にあるブリキのおもちゃ博物館へいく。
博物館とはいうが、小さな部屋になつかしいブリキのおもちゃが、所狭しと並べてある。
入場料300円。店主のおじさんが、いわくつきのおもちゃの説明をしてくれる。
ルーブル美術館にあるのと同じ世界に12点しかない日本製のロボットのおもちゃが、
ここにはあり、一点300万円という。
昭和天皇が子供のころ遊んだとい自動車のおもちゃも飾ってあった。
ブリキのおもちゃじゃ有名なところらしく、テレビなどで紹介されてる。
3月5日(水)”チームラボと佐賀を巡る”(佐賀県立美術館など4会場にて)
県外いる娘から何で知ったか、上記の展覧会「面白そう、見たい」と連絡が入った、ので出向いた。
CG等を駆使した映像が美術館の部屋一杯にほとばしり、おもしろくはあった。
かといって真新しさはない。今までにもいくらでも見てきた。
というよりは、ADやCM的感覚では規模は小さいにしても、日常に結構登場している。
大掛かりなところでは、東京駅や、佐賀城本丸の外壁にも映し出すとか、
地域のイベントには引っ張りだこだろう。
ある意味誰でもできる代物、Toolでもあろう。
スパートフォンで撮ったものを個人で楽しめると言う日も遠くはない。
アートと言えばアートなんだろうけど、まだToolの感がある。
絵画と同じようなことをしていてもドキュメントとして終わる。
だけに、表現者がどの地平に向かって立つかがその境目であろう。
最近、誰もが見たソチ冬季五輪のオープニングセレモニーのときの映像が最先端、
最大規模のCGアートではあろう。

五輪のTOPスポンサーであるパナソニックは大小の最先端AV機器を大量納入したとある。
過去にはナムジュンパイクの大量連結モニター映像もあれば、ウォーホルなどの反復、
複製の表現もあったが、映像表現は電光石火の勢い。
機材の進歩に人がついていけなかったり、の関係のようだ。
都会の美術館などでも絵画展があってるそばで、必ずといっていいほど映像表現の展覧会を
同時進行させている。
娯楽的であるか、ハートに沈魂の傷を負ってしまうかである。
どこまでも止まらない映像世界にはちがいなく、今日あったものが明日には過去のもとなる、
何が出てくるか判らない可能性とスピードはミレニアム世代には魅力なのであろう。
早くおもちゃか、ペットみたいになってしまえばイイのであって、
そこからアートという概念さえ変わり得る
哲学をDNAとする細胞化が起こるのか、否かは誰にも判るまい。

3月2日(日)文化サークルフェスティバル

佐賀新聞文化サークルフェスティバル(発表会)。
絵画をはじめ諸々の教室の作品がエスプラッツ3Fのホールからロビーまで所狭しとあふれている。
展示担当責任者の中国人のシンさんが、こちらをたてればあちらがたたずと汗だくで
105キロの巨体で走り回っている。がんばれ!
ボクらの教室も直接には佐賀新聞サークルとは関係ないけど、同じフロアーのよしみで
誘われたと言うよりも、ならばと押し入ったようなもので、その展示をみなさんとしました。
ロビーの控えめな可動壁面ではあるけれど、なかなかのものだ。
ここはスポットもないけど壁が輝いたね。写真撮るの忘れた。


2月27日(木)太田剛速小石原焼き展
小石原焼き「大田剛速展」(村岡屋ギャラリー彩)
大田さんに会うのは15年ぶりかな?
かつてオーストラリアで現地のアーティストと交流したころ行動を共にしていた。
遅かったけど結婚もして子どももいるということで、海外でも個展をしたりと活躍しているようだ。
会場にはきれいな奥さんもいらした。
一同に作品を見るのは初めて。
いろんな生活器を作るものだ。
展覧会用の大きな作品もある。たくさんの受賞である。
民芸であろうとするも洗練された品のよさがある。
ボクが知るもう一人の小石原焼きの陶工といえば、
木場岳に窯を構える川本太郎さんであるが、大田さんと太郎さんは小石原で
修行していたころの同年の友達でもある。
同じ道でもお二人の性格、志はもちろん違う。対照的でさえある。
どの道大変なのであります。
子どもを預け、小石原から奥さんと毎日、車で通っているとのことで、

宴会はまたの機会にといことになる
2月20日(木)アンディ・ウォーホル展
”アンディ・ウォーホル展(森美術館)”
いまや日常どこでも目にするウォーホルの作品。
その概念、思想までも溶け込んだ現代。
そしてアートは未来へと向かっている。
ハイレッドセンターも同時期に”芸術とは?”といろいろやった。
牛ちゃんも彌生さんもしかり。
ウォーホルはベンヤミン的に複製を日常に反復し続けた。
デュシャンのレディ・メイドが新たな思想として確立したようなものだ。
ウォーホル美術館から持ち込まれた膨大な作品と資料は観客を魅了する。
現代がこの瞬間にもすがすがしく息づいている。
通りすがりに見るもののようだが、2時間は優に超える空間である。
2月19日 ハイレッドセンター
寒い。まだ雪が残っている。
渋谷bunkamuraから坂道を上ること7分。
渋谷区立松涛美術館がある。
”ハイレッドセンターの軌跡”
入場料300円。60歳以上無料。実に文化やってる。
イイ展覧会が多い。
高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の頭文字でハイレッドセンターになるわけだが、
オリンピックに沸く東京を舞台に、過激な路上ハプニングや反芸術的なプロジェクトを展開した。
当時は牛ちゃん(篠原有司男)のネオダダがあり、大坂の”具体
”、福岡では九州派などなどの若き芸術家たちが独自の前衛活動を展開していた。
その時代の記録である。
周辺の写真、映像、音楽の作家たちも巻き込んだ芸術運動の記録である。
作品だけでなく、徹底した記録と、保存を当時より遂行し、その結果が、
ここでのハイレッドセンター展であるという用意周到な先を見越した計画がある。
天才とまで言われた高松次郎(故人)氏の策略であると考えるが。
その後ほとんどのグループが海外脱出を図るのに対しこの3人は国内にとどまったと
いうところにも謎めいたヒントがありそう。
物体としての作品はそれぞれに美術としても優れたものであり、その葛藤に現れるものが
日本の現状という反芸術的名路上ハプニングであるが、アメリカの動向を抜きにしては
なかった活動でもあったろう。
その時代の観客も多いがそれ以上に若い人たちが、うれしそうに大量な写真などの
記録に見入っている姿は希望であるが、同時に高松次郎さんの戦略にも
見えて来るのが切なくも天才である。
2月8日(火)禅・仙
羽田空港で「禅・仙香vのポスターが目に留まる。
羽田空港に美術館があるとは知らなかった。
ターミナル3階の一番端っこ。
ターミナルを見下ろすディスカバリーミュージアム。
入場無料。
客はゼロに近くぱらぱら。
大小の作品が10点ばかり。
これはこれでよい。
ソファー席がたくさんある。そばには喫煙ルームもある。
子どものようにたのしそうにいろんなものを描いてある。
気負いもなく筆が走る。
洒脱・飄逸というのだろうか、ご苦労も少なくはなかろうが、
自由人ってイイね。


2013年
12月22日(日)植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ
今日もホテルの窓から富士山」が見える。
恵比寿へ行く。
恵比寿ガーデンの恵比寿ビールレストランで遅いランチ。
恵比寿の黒ビールを呑んでからそばの写真美術館にいく。
「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ 写真で遊ぶ」。
鳥取砂丘を舞台に家族らをモデルにした演出写真を撮る植田正治(1913-2000)と
家族や友人の日常生活やスポーツ競技のスナップショットを撮影する
ジャック・アンリ・ラルティーグ (1894-1986)のコラボ。
お客が多いのには驚く。
絵画展のように照明を落としてあったが、見にくくはなかった。
ふざけたようにさえ見える上田作品はおもしろいのだが、そこまでで先が見えない。
佐賀の山口亮一さんの家族を撮った写真や寺山修司の映画「田園に死す」にも通じる。
ジャック・アンリ・ラルティーグの犬を連れたマダムの写真は、「ハウルの動く城」の
魔女にうり二つ・・。レーシングカーはレンピッカをおもいだす。知らぬ間に、
影響しあったりマネたり、盗んだり、見るとミルクである。
写真とはいえ絵画でも見るように観客もボクもじっくりであった。
いつの世にもすごい人もおればおかしな人もいるもんだ。
12月21日(土)木村伊兵衛展
乃木坂で電車を降りて新国立美術館の中庭を歩く。
団体展や印象派展や現代アート展などが開催中だが、パス。
ミッドタウン・ウエストの1Fのフジフイルムスクエアでで「木村伊兵衛・ふたつの旅 琉球、秋田」
を見る。
戦前戦後人と暮らしのスナップである。
フジフイルムスクエアはカメラ店であり、アンティックカメラの展示もあり、壁面を
フォトギャラリーにしてあるが、いつもイイ展覧会がなされている。(入場無料)。
また、ちょうど店内スペースでは、ボーイスカウト、ガールスカウトの合唱のリハーサルが
行われていた。
お店とは思えない文化的なカメラ店である。
木村伊兵衛さんがあのアンリ・カルティエ・ブレッソンに影響を受け交流もあったことを
はじめて知った。

12月21日(土)六本木クロッシング2013
ぶらぶら路地裏を歩き森美術館へ向かう。途中イタリアンレストがあり、アラブ系の
ウエイトレスさんにビールとカレードリア注文。ドリアなどはじめてだけど、美味しかった。
あっちのテーブル、こっちの席でと若い女性客が食事後のおしゃべりに興じている。
なるほど、そんな場所なのである。
森タワービルに着いたころには空も暗くイルミネーションが人々の目をたのしませていた。
56階の森美術館へと行列。スヌーピー展も開催中とあって大混雑。
「六本木クロッシング2013」はすぐに入場できた。
正面に床から天井まで椅子と古着を積み上げた小林史子の作品が立ちはだかる。
美術手帳でかつて見ていた赤瀬川原平の櫻画報シリーズの反芸術的な戯画(漫画)には、
しげしげと見入ってしまった。
中村宏さん、赤瀬川原平さん、中平卓馬さん、菅木志雄さん、柳幸典さんら戦前戦後の
アーティストと今を爆発させる1970年〜1980年世代のアーティストが今を問う展開となっている。
12月20日(金)有司男VS乃り子・二人展
寒い。東京も雨。300円の傘を買う。
渋谷のスクランブル交差点を渡り、パルコに入る。
7階でラーメンランチを食べてから、3階ミュージアムで始まったばかりの
有司男VS乃り子・二人展を見る。
有司男ことギュウちゃんの最近作の花魁シリーズ、段ボールバイク、タイルバイク、
ボクシングペインティングなどと奥さん・乃り子さんの日記のようなキューティーシリーズ
が仲良く並ぶ。
ギュウちゃんといえば、ボクが中学生のころに見たテレビで、もうすでにボクシングやってた。
しかし番組としては奇人変人的あつかいであった。
以来ギュウちゃんも頭から離れることはない。
その後、(今はなき)第1回”東京展”(都美術館)で「無用の介」(当時人気の漫画)
の超大作を見た。
ギュウちゃんはニューヨークへ渡る。
ボクがニューヨークへいったころ、ギューちゃんは貧乏旅行者に部屋を貸している
と聞いたのだったが・・。
ギュウちゃんの本も絵のようにおもしろい。
石膏デッサンにナイフ突き刺し芸大を飛び出していく「前衛への道」や
「ニューヨークの次郎長」はハチャメチャに痛快。
彌生さんに続いてギューチャンもフィーバーしないかな。
81歳、贅肉も腹も出てないボクシングアーティストである。
ぶれることない型破りなアーティストである。
いや、これぞほんとのアートである。
たくましく、力強く、爆発して、親しみがあって包容力がある。
幸せのアートである。
この夫婦の40年間のおかしくも切ない格闘の歩みをドキュメントした映画
「キューティー&ボクサー」が各国の映画祭で受賞し、東京でも本日より公開と言う。
時間の都合で見られなかった。
その記念の展覧会のようであるが、雨とはいえ観客がボクの他にいないのが
不思議だ(たまたまだろうが・・)。
そういえば、数年前、福山雅治とボクシングペインティングやってる何かの
CMがテレビ流れていたな。ブルーのボクシングペインティングきれい過ぎたけど。

12月10日(火) 博多座 三味線
電車で博多へ。博多座で邦楽系のアマチュアの演目を見る。ほぼ満席。
いずこも女性が多い。吟剣詩舞、日舞が多い中、三味線のグループが突出して、
観客に変化と力強さとりりしさを聴かし観せていた。夜、西中洲の路地裏にあるフレンチへ。
小さな店ならではの気どらない最高のごちそうであった。
11月28日(木)塚本猪一郎展Gふじやま、シルクロ
クリニックの絵画もたのしいうちに時間となりました。
塚本猪一郎展(ギャラリーふじやま12月1日まで)に寄る。
0号から10号ぐらいまでの作品が並ぶ。
それでいて1点1点が大小を感じさせない面構えをしている。
人格をもっているとでもいうようなもの。
ボク流にいえば作品の持つ時間が厚みを増したような。
剥離、風化し消えていくのか、どこからともなく現れ出ものなのか。
時間の置きかたに由来するもののようだが、作者の制作過程の違いがあるのではなかろうか。
画面内部への時間の誘いが、ここに来て画表面に停滞し奥じゃなくて、見る側、前面へ
と向けられている。
コラージュの変わりにマスキングでホワイトを乗せエッジを強くしている。
褐色の絵の具でグラッシュしたりふき取ったりを繰り返す。
その上に野太い黒い点や線が這う。この黒で調整するというのではなく、黒は黒としてそこに
在ったもののように留まる。
あみ出したいろんな黒が黒子ではおさまらず主演者にもなる。
すべてが本来の同一平面のタブローにおさまった訳だが、こうも勢いよく見えるものなのか。
風は雲に、雲は不定形に。めまぐるしく千変万化する時の移ろいを断ち切るかのように
2013年、キャンバスの表面より入る。
11月23日(土)佐賀県展
祝日、勤労感謝の日。
秋晴れの祝日とあってか、お客さんも多い。
意外に県展がイイ。
洋画部門は常連さんも多いが、若い人たちのフレッシュな作品も目立つ。
しかし、入賞作品は常連さんたちが占めたようだ。
どれもが一席、あるいは入賞をを意識しての競い合いに見えて、久々におもしろかった。
それだけに審査はむずかしかったろう。
一席はたぶん最初から決めていたと思われるが、審査員の堀晃氏は、偏らないバラエティー
に飛んだ選考をしたと思う。
横尾勝博さんの「布と遊ぼう」はパッチワークでもありながら絵画の領域を広げたと思う。
若い人では八頭司昴の「「cell culture -shrine-」も新しい表現スタイルである。
審査員が求めたものは堅実な中での新しさであろう。
一席の古川みどりさんの「空を飛ぶ夢」は無造作に走る線と色彩のたのしさが、クールに
洗練された普遍な今を感じさせる。審査員好みと言える。
堀氏も言うように審査員が変われば、別の結果が出るかもしれない。
それぐらいイイ作品が多かった。
よかったと言えば、一席の「空を飛ぶ夢」がF60号というS100とかに比べれば小さい作品
であったこと。昨今やたら面積的に大きくする傾向があっただけに・・。
もう一つ苦笑したのが、佐伯勝己さんの「(ファ)ミリーU」。アトリエに座る60代後半の男の姿。
真っ直ぐ見ているようでどこかはにかむよなうつろな眼差しには、共感を持って笑えた。

書道は絵のようなふにゃふにゃした書が多い。本気で遊ばないと・・。
日本画も本気とは思えない。
写真もテレビ映画で見る以上におもしろみに欠ける。
工芸は振り子の触れ方で職人でも芸術家にもなれる。そこでの違いも本人次第で不可欠
ではない。焼き物は人間国保がずらり、今年なくなられた酒井田柿右衛門の「蓋物」、
井上萬二さんの「白磁花形花器」があり、
かつての反県展(県展をよくする会)の旗手であった中島宏さんも一般として出品して
いらっしゃる辺りは皮肉にも時代にもおもえる遠い昔。かつての戦友、今は生ける国宝。

デザインは相変わらずグラフィックが多い。どれも直、ポスターとして使えるものばかり。
と言うか、洋画でも日本画でも書でも工芸でも写真であろうとそのままポスターとして使える。
だけにデザインの現状はきびしかろう。
一席、網美喜子さんの「冷蔵風呂」は本気で遊んでいた。
高校生であろうと成人であろうとかまわない。
白クマが冷凍室に入って黄色いアイスを食べている。
ありそうな場面ではあるが、かわいい。
先生と相談しながら描いたとコメントしているが、どうでもよい。
先生を立てているのだろう。
逆遠近法、平面、抑えの効いた青と赤が背景でグレーの冷蔵庫に黄色いアイスを持つ
白いクマちゃんと来れば緑も登場させたいところだが、グリーンの冷蔵庫はないだろうから、
自然とグレーになるのだけれど、グレーが効いてる。漫画のようで理にかなったモンドリアン
の処理。
オリジナルの持つ平面なテクスチャーと5原色の色面積の配分とトーンの均等化をやってる。
印刷物にするより実物がイイ、素敵。
先はどうなるかわからないが、やりそうな人だとおもう。
グラフィックデザインの基本であるように見えて、古くなく新しい。
その新しさは、何かといううと、作者自身が新しいのである。
一生懸命、必死で生きてることを微塵も見せずに遊んでいるよ
うに見える。
目立つばかりがアートじゃない。ひたすら人知れずこつこつと、という時間をどこかでは
通過するだけでなく、
一生持ち続ける強さが肝心。
遊びこそが大変でアートの根源であります。

11月19日(火)山崎正之展(アートエル)
山崎正之のアート展「吉野ヶ里町の”アートえる”11月21日(木)〜11月26日(火)」。
 準備中にお邪魔した。
 大掛かりな展示で、昨日から3日間をかけて飾りつけをするとのこと。
 画廊の空間全体を意識しての展示であり、インスタレーションとなっている。
 電気屋ならではの山崎さん。
 破棄された蛍光管、(家電製品を保護する)発泡スチロールそして愛犬のドッグフードの
大量な空き缶などが作品となって新たな姿(見え方)を見せる。
 それぞれの作品にはLED電球が配線され、室内を暗くしたり、夜だけのナイト展示もある。
 宇宙を漂流する人工衛星や宇宙船の残骸のようでもあれば、
発掘現場に現れたある時空間の遺物であったりする。
 これまでのテーマは”大詫間漏斗(じょうご)村”に見られるような局部的な場所の持つ力、
強さみたいなものを大地と人の情念としてドロリと醸し見せた。
マネの”オリンビア”やボッティチェッリの”春”のコピーを使いその上からマスキングテープ
で覆うというマネとボッティチェッリへのオマージュシリーズもあった。全体をテープで覆い、
朝の光のように透けて見えるのも斬新だった。
 矩形を意識したタブローに入念に着色がほどこされていたのが、カラーコピー紙、
マスキングテープだけと次第に変化はするものの絵画としての領域内での
インスタレーションであった。
 それが今回は絵画の概念を超えて宇宙へと飛んだようだ。矩形らしい平面は一つもな
く自在に形が膨張し無機質なオブジェが増殖する。
 家電品だけでなく自分の中の概念も捨て去ろうとするかのようだ。
 ミクロであったものが実はマクロであり、さらにマクロはミクロであるという終りのない構図
というか時空間である。
 人間が存在し生きているということは相対的なこの構図である。
タルコフスキーの映画”惑星ソラリス”(1972年)もそう語っている。壮大なドラマである。
 ”終わり行くもの 終わりなきもの”と山崎さんが語るよう、
局部的な位置を宇宙空間から見ようとする時、ミクロとマクロが混沌と交錯していく。
 あの世とこの世が背中合わせの現実
とでも言うのか。
 遊びをせんとや生れけむ。
11月16日(土)動物の謝肉祭

今もどってきて演奏会スケッチに色を付けた。

動物の謝肉祭に合わせての15枚のイラストが計算以上にきれいに映し出された。

ピアニストは世界的に活躍されている田村緑さんと仲川賢一さん。二台のピアノを左右
から交差させあうんの呼吸で弾かれる。

お二人は演奏tの始まりと終りに、ボクまでも紹介してくださって、驚かされた。

楽屋でお会いした。

ことのほかお二人はよろこんでくださっていた。

前日佐賀に来られたらしく、その絵を見て「テンションがガーンと上がりましたよ」と。

「またいっしょにやりたいですよね」とまで向こうから言っもらい、

コレがアートだよねと意気投合。

音楽と朗読の中学生、そしたボクのイラストが一つになったのを実感できた。

とりあえず今はここまで・・、再び仕事へ。

11月15日(金)佐賀市民芸術祭前夜祭
佐賀市民芸術祭の前夜祭。
問題も残るが、始まったからには、楽しく行こう。
場内は若い人もいるが、高齢者が多い。
何があるか知らずに来ている人もいた。それはさておき。
照明技術を駆使したライトアートがポップミュージックに乗せてステージ客席と幻想的な
ライトショーを展開した。
市長らの挨拶に続きトリは実行委員長・園田寛さんが
「・・経済よりも重要なのが文化、芸術。誘致といっても文化、芸術が充実した町でなければ、
企業も来てくれない。佐賀の文化、芸術を盛り上げましょう。」と挨拶。
オープニングは佐賀モダンジャズオーケストラと青木カレンさんの歌で幕を開けた。
迫力ある演奏にレベルの高さを感じる。
プロ奏者が数人いらっしゃることがたのもしい。
創設40年という佐賀モダンジャズオーケストラにしても文化会館大ホールでの演奏は
夢の初めてのステージであったようだ。
アンコールは老若男女がスタンディングでスイングしてのりに乗った刺激的なひと時であった。
11月14日(木)ビー玉転がし
今日もいい天気。
建築足場のカバーの黄と緑(この2種類しかない)10本とブリキのバケツ3個を購入。
本日の作業は午後2時から。
足場カバーの赤色が存在しないのは残念。
すでにJ内さんが骨格にデコレーションをしていた。
J内さんの学校の女生徒さんたちが、学校のイベントに作ったものらしいが、魚や動物、
植物のかわいいキャラである。
保育の先生になるための熱意ある作品である。
これもまた破棄寸前の再利用であり助け合いである。
ありがとうございます。
足場用の黄と緑のカバーも付け、材木と塩ビパイプが化粧され遊園地のようになった。
ビー玉を転がしても引っかかることなく、完成。
これまた写真がない。だれか撮ってない?
イベントホールでは7チームのうち3チームが展示準備を終えていた。
ここではそれぞれにワークショップがなされるが、”磁場”はロビーに場所を変えたので、
B玉コースターやぐら一つを設置し、各自の作品展示とした。
T本さんとボクは直接、展示壁面に描いた。
土曜と日曜の二日間だけど、興味ない人も見に来てください。
1月14日
11月13日(水)佐賀市民芸術際参加
寒さがどこかへ行って、イイ天気である。パーフェクトな青空。午前、M光さん、M尾さんと
ホームセンターで合流。材木、塩ビパイプを購入して、佐賀市文化会館に運ぶ。
文化会館ロビーにて第1回佐賀市民芸術祭の”グループ磁場”の「ニュートンの
B玉コースター」を制作。午後、W林さん、T本さんが加わり作業本番。電動ノコとインパクト
の音が響き、のこ屑が舞い散る。なにもないただのフロアー(ロビー)に、植物画増殖する
ように立体的な形あるものが刻々と出現していく。おもしろい光景であり、
作る側の快感でもある。
アートとはこんなものでは、ないのか、と意外な感触が起ちあがって来る。おじさんたち、
ひんぱんに休憩、たばこタイムをとる。設計図は一様あったけど、現場でのそれぞれの
考えが有効になることが最高である。揉め事もなくたんたんと各自のアイディアが
沈潜しながらも反映されている。夕方までにはその全貌が屋台骨が完成した。
県展の飾りつけを終えて駆けつけたK本さんは「まさか完成しているとは思わなかった」と・・。
なぜか記録写真を撮るのも忘れていた。公共施設の中で、自由に制作するというのも
そうあることではない。このようなことをさらにいろんな場所で出来たらと思う。
行政とアートサイドとの温度差は埋まるものではないが、
機会あれば望んでやりたいぐらいである。
11月3日(日)モースコレクション展(江戸、東京美術館)
気持ちい天気である。
電車の窓から超巨大な江戸東京博物館が見え、お隣の蔵前国技館は影が薄くなったようだ。
両国駅から江戸東京博物館の道沿いにずらりとテントが張ってあり、
そこで人々が持ち込み食材でバーベキューをやっているのであるが、その狙いが
何なのかわからない。
まぁ、博物館に入れば、そんなこと直ぐにわすれてしまうけど。
こちらもたくさんの人が展示物に見入ったり、体験コーナーで遊んだりとにぎやか。
エドワード・シルベスター・モースという東大の教授もし、大森貝塚の発見者でもある彼が、
明治の日本の庶民の暮らしや心根に魅せられ、多彩な品々を「記録」としてアメリカに
持ち帰っていた。
「日本がなくしたものを、モースがとっておいてくれた」というかたちでのモースコレクションの
展開。
この人も絵がうまい。写真も撮っているけど、メモのように日記のように目に触れた
さまざまなものを描いてある。
日本人をやさしいまなざしで見つめ日本人の生活文化を驚きを持って讃えている。
大人たちが子供を大切にして子ども天国のような笑いの耐えない生き生きとした
庶民の暮らしであったようだ。
開拓のアメリカ人である肉しか食さないようなモースには、すべてが驚きであったのだろう。
マルコポーロがジパングと言ったのに
近いのだろう。いまひとつ実際の明治のよさを見せ付けられ目からうろこであった。
美術展よりおもしろいかも・・。

11月2日(土)ターナー展(東京都美術館)
上野も人が多い。
美術館や文化施設が集まっているところだけに、それぞれの目的地に向かって人が流れる。
都美術館の「ターナー展」を見ることにする。
ロンドンのテート美術館のコレクションである。
となるとかつて現場で目にしているはずなのだが、印象派の作家たちのようには記憶にない。
みなさん、1点1点じっくり見られている。
列を乱さず真剣である。
水彩画、油絵、デッサンなどなど。
光あふれる大自然を原色を抑えた褐色の色合いでまてめられてる。
実際に目に見える色彩とはかなりちがっているが、
光や大気のトーンに表現は自信を持って遂行されている。
そのための褐色という感じもする。
小さいものから巨大なものまで丹念に楽々と描いてあるようだ。
とにかくうまい。
スケッチブックの一枚一枚にもきっちっとびっしり描いてある。
寝ても覚めても絵を描いていた人なのだろう。
天才であり絵馬鹿でもあろう。
外へ出ると雨が降ってた。
ぬれながら小走りに駅まで。
10月3日釜山の画廊
ヘイウンデイのデパートの前でペクゥさん夫婦と合流、車に乗る。
画廊を見て回ろうという。
ヘイウンデイはウォーターフロントの近代都市である。
道路は広く緑も多く近代ビルがゆとりを持って立ち並ぶ。
お金持ちが多いのだろう。
モンマルトル、ピカソ、ルノワール、美廣画廊、ソウルアートの五軒を訪問した。
うち二軒が休みであったがが、ウインドウ越に除く。
どの画廊がよかったかといわれても困る。
大小さまざまであるが、いずれも個性的で画廊のスタイルが見える。
壁が白く、ワイヤーは使わない。壁穴は展覧会のたびにふさいで白く塗っているようである。
貸し画廊、企画画廊とあるけれど、僕らの交流展では見ないような現代感覚の作品が
画廊空間にマッチしているのもかっこいい。
日本ではあまりお目にかからないアメリカ風なギャラリーばかりであった。
釜山にはギャラリーが40店あるらしい。
画廊の存在さえ知らず考えていなかったようだ。
何度も訪れていて、画廊を見るのははじめてで目からうろこであった。
機会があればやってみたくもなった。

9月12日 陣内敦展
「陣内敦洋画展(村岡や屋ギャラリー9/10〜9/15)」
磁場のメンバーの陣内さんであるが、個展では展示にも工夫がありさらにおもしろい。
過去の作品もあり3つのパターンに分けられるようだが、さまざまな色彩といろんな素材を
使うところは陣内さんらしく共通している。
日々の自然や環境が題材となっている。
そのイメージを単純化した色と形であらわそうとする。
まずは素材のおもしろさなのであろう。
子供のころの図工の時間の延長のように作品がうまれる。

9月7日(土)モローとルオー(パナソニックミュージアム)
新橋から汐留の海の方に歩く、新しい超高層ビルが林立する文化区域のようで、
駅周辺のような人の混雑はなく、電通ビルの「四季劇場」があれば汐留のパナソニックビル4F
に汐留ミュージアムがあるなど、空間に幅がある近未来の街となるのだろう。
汐留ミュージアムでは本日より「モローとルオー」展がはじまる。
ルオー美術館として開館し10周年の記念展である。
ルオーに師であるモローを持ってきたところが興味であるが、モローのすごさ偉大さが浮き
彫りになっている。
モローはアートスクールのルオーの才能を見抜き未来をルオーに託していたのであり、
モロー亡き後はルオーがモロー美術館の館長として美術館を守るのであった。
ルオーと言えば、太く黒い線で囲むステンドグラスのような絵であるが、モローの
アートスクールに通っていたころのルオーはモロー譲りのデッサンを効かした写実的な
絵を描いており、これだけでも必見。
モローはルオーが食べていけるようにと、コンクールのパリ賞、ローマ賞をとり、認められる
ことを望むのだが、最高で二等賞、一位になることはなく、審査にも疑問を持って断念。
生活は苦しかったらしい。
「モローとルオー」では美術館の壁が新たに赤、青、緑、白に作り変えてある。普通では
考えられないが、作品と壁が一体化しているように違和感もなく、思い切ったことをやる
美術館である。
アカデミックな考えに対し、下描きをせず直接着色し、薄暗い画面の中にもあらゆる
色彩が使われ、光をも印象派とも異なり物質的に顔料そのもので表そうとする方式を
モローは、ルオーやマチスに託すのであった。
神話を題材にしているものの「パルクと死の天使」や一連の「習作」に見られるのは
抽象表現主的な筆致である。ルオーであり、ポロックである。
ルオーの絵がルオーになっていく苦渋の過程も少なからず見えている。
モローの願いはルオーに留まらず抽象表現主義となっても今日に受け継がれたようである。
そうであれ何よりもモローの作品は神秘的、魅惑的を超えて現代的なのである。
ルオーの描くキリストはモローだろうが、ピエロはルオー?
二つを相持つのが人間でもある。

9月6日(金)ミケランジェロ<西洋美術館
夏の酷暑は過ぎたようだ。
芸術の秋となるのだろうか。
どこもかしこもお客を誘い込もうとのキャッチコピーを付けての展覧会ばかりである。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
西洋美術館の「ミケランジェロ・天才の軌跡」に行く。
今日が初日とは知らなかったが、別に客も多くはない。
ほとんどがシスティーナ礼拝堂天井壁画の下絵デッサン(とは言ってもはがきぐらいの
サイズ)や手紙などばかりである。
レリーフの「階段の聖母」はイイとして、それ以外は見るにはちょとひどい。「やられた」と
いう感じである。
9月3日(火)山田直行展(川副町田園の郷ギャラリー)。
雨の日が続き夏を忘れそう。
雨が明ければ秋になっているかもしれない。
布地屋に寄り広い店内を見学。
ご婦人たちがあれやこれやと店員さんと相談しながら布地を選んでいる。
何かを作る人たちなのであろう。
選んだ生地で服が作れたらたのしいだろうな。
それは無理だけど、服にとらわれなかったらいろんな表現が出来そうである。
昼食にチェーンのラーメン屋にはいるが、脂ぎって気持ちワルい。
ここまでひどいとはね。
本日の目的、川副田園の郷ギャラリーの「山田直行展」に回る。
今日は正面からではなく西側のギャラリー専用入り口から入る。
川副支所の職員さんにも会わずに済むので、これがお互いにもイイ。
3階まで階段を上がる。
今回も、他にお客はいなく、good healing である。
「ダクマンチョ(テナガエビ)」「YOSHI(芦)」「白き山(マッターホルーン)」が並ぶ。
原色を思いのほかにぶちかましていた月下シリーズ、花鳥風月シリーズ後の
色彩を最小に制限したダクマンチョから現在の「白き山」までの作品8点と小品の水彩「花」
2点が飾られている。
磁場のメンバーでもある直行さんだけに、その十数年間の心の移ろい、機微はわかっている
つもりである。
それだけにイイところだけが見え、それぞれの道程を共有するところである。
直行さんは静かに裡(うち)を見つめているようだ。
筑後川の畔の黒津村に生まれ、そこを在所としてきた。
エビやウナギを獲り畑仕事をして学校に行き、家に戻りアトリエに入ったり、近所の田畑を
歩いたりと・・、描くことも生活の部分であり、生活も描くことの部分であったり、抗うと崩れそうな
バランスを何とかもたしているのであろう。
かつて、若いころ直行さんのアトリエに行くと草鞋が柱にぶら下げてあった。「旅人のように
一歩一歩行きたい」と。
自分の生まれた,立っている風土、環境、自然を誰もがよりどころとするものであるが、
そこもまた、むずかしい。
見えすぎて、違和感だけが見えてしまうというパラドックスにすべをなくすこともある。
真っ直ぐに立つマッターホルンどこまでも広がる裾野。
筑後川の大きさと川の両岸に広がる田んぼ。
田んぼのクリークには人の侵入を拒むように芦がぎっしりと群生する。
芦は雨にも風にも嵐にも倒れることはなく、枯れても真っ直ぐに立ち続ける。考える葦である。
水彩画では自然な風景を思いっきり緑で表現する直行さんだが、こと公に発表する大作には
緑は影を潜める。そこで画面を支配するのは枯れ色というか褐色と黒である。地塗りも褐色を
ほどこすようだが、精神、内面にある色が褐色なのであろうが、従来の泥色ではなく洗練され
た褐色なのである。
アントニオ・ロペスの褐色も故郷トメリョソの風土からくるものであるといわれるが、
直行さんにとっても無意識下の自然なことで、そこに至っては一歩も譲るまい。
直行さんもアントニオ・ロペスをいち早く絶賛していた。
沈潜の次には地割れか、崩落か爆発が来るのだろう。
そんな先が感じられる展覧会になっていた。
(※今回はこの辺まで・・。)。
8月22日(木 川本太郎作陶展
川本太郎(菓子器)作陶展(松原川の畔 ギャラリーシルクロ 9月1日まで)に行く。
ボクにしてはあまり見たことのないような太郎さんの菓子器である。
白だけにさわやか、すがすがしい。
陳列棚も太郎さんが作ったのであろう。空間に合っている。
先日山へ行った時には、個展をやるそぶりも雰囲気もなかった。
マイペースのごとく世の諸々に動じない人である。
二人の女性が「お客さんがあったら、奈良漬を出さんといかんから、大きいのが欲しいけど、
どちらにしようかと、品定めをされていた。
こちらもやっとS子さんが好きなものを選んだ。
太郎さんといえば象牙のような白だが、ブルーをかけた小鉢もかわいい。
ミニ花瓶に庭の草をさす。一段としなやかな花瓶になる。それらをアンドリュー
からもらった染め布の上に置いた。
8月21日(水)アントニオ・ロペス1
急に思い立って電車・黒いかもめで長崎へ。
夕方までに帰る必要があるので、電車となる。
途中の駅で電車が停まり、その景色の光のコントラストが夏らしくスケッチ。駅名がわからない。
1時間20分で長崎。思ったより速い。
タクシーで長崎美術館へ。街と港が一望できる美しい一角にある。
この美術館は初めてである。
アントニオ・ロペス。4月に渋谷のBunkamuraミュージアムで見ているが、人が多く時間もなく、
ゆっくりと見られなかった。
長崎美術館では8月25日で終了というから、今日しかない。
アントミオ・ロペス2
長崎美術館は広く高く、観客も程よく、作品を顔面接写、独占でじっくりと見られる。
感想は一回目と変わらないが、作品のほとんどを忘れてしまっている。いい加減と言うか、
全体から感じるものを見ていたと、言えば少しは救いである。
佐賀の「行動」のS光さんとばったり。
学芸員の男性の方が中学生の美術部らしき一団に解説をし、質問をしたりと判りやすく
作品の背後にあるものを暗示さしていたが、中学生たちは、どれだけわかったろうか。
絵を続けていけば、いずれこの日の疑問も解けるだろうが。

アントニオ・ロペス3
監視員の女性たちもよそに比べておおらか、「ホントに描いてあるのか」とついつい
作品をさわる人がいても、飛んできて注意はしない。展示自体が「触ってもイイですよ」
と言わんばかりである。
アントニオ・ロペスさんにしても、そんなこと気にしていないはず。
おりこうさんに額縁に収まっている絵ではない。時間と人が関わることで日々クオリティー
が増殖するというような、正しく新しい概念であり現代の絵画なのである。
息がかかったり、くしゃみが飛んだり手垢がつこうと、その程度でくたびれる絵画でもない
のである。
学芸委員さんも中学生に言ってた「接近してよーく画面を見てください。
何か気づくとはないですか・・」と。
作業現場の諸々の痕跡が無造作に落し物のように残っているのである。
印象派から現代美術の今日までが正しくそうで、きちんと整い正装した絵画から離別、
あるいは脱出してきたのである。
それをロペスは写実絵画の中ににじみ出るテーストとして昇華しており、ポロックに
一番近いと思うのである。

アントニオ。ロペス4
彼の作品には印象派から現代までが見える。時代時代の概念がちりばめられている。
ロペスさんが通った道かもしれないが、同時代的に体感し生きたという証のようで迷うこと
さえなかったような行進である。

ボクはもちろん現代人が見出せなかったあらゆる回答がなされている。
虎の巻、回答集としても映る。
それを総括したような作品が木彫に着色の「眠る女」。

ロペスさんは彫刻家でもある。
世界にはどうでもいい写実絵画や抽象絵画も少なくないが、抽象絵画、具象絵画と分ける
ことの無意味さも露わになる。

時間30分を費やしたが、もどらねばならない。おもしろそうなスペイン現代絵画の常設展
も2,3分で通過、また改めて・・。

電車・白いかもめに飛び乗り駅弁・坂本竜馬をいただく。
8月18日(日)磁場最終日
磁場展も最終日。
今回はメンバー10人の作品もさらに充実し、長友くんのともしびプロジェクトの参加や
美術館企画のコレクション展、ドール展なども開催されており、お客が多かった。
6日間で1200人以上が入ったと言うから驚き。
アートグループ磁場にとっては画期的な数字である。
文化程度云々以上にお客を呼び込むことはむずかしいのであり、ただ絵を飾って
「見てください」というのも時代に合わなくなってきている。
8月18日(日)磁場作品搬出
4時の片付けもお客が途切れず30分遅らせる。
磁場展のwebでの作品紹介も忙しく会期中に出来なかったが、追って全記録を
「2013磁場展」として公開する。
片付けもみんなの協力の下無事終了。わざわざ手伝いに来ていただいた松尾さには
感謝です。ありがとうございました。
8月18日(日)磁場の打ち上げ
夜、ギャラリーイバにて打ち上げ会。
直行さんと陣ちゃんが参加できなかったが、8人が集合。紅一点の金銀姫さんがチジミ、
薫製カモを調理してくださった。
熱く語り合うのが磁場。野望、作戦、計画が大きく膨らみ、夢は夢、中には実現可能な
計画もあり、たのしみ。
「ともしびプロジェクト」の評価は高く、東京にもどった長友君に全員が電話で感想、
展望の報告。おやじ共ははじける、EyYaa WOOOAH。
呑んでも呑んでもどこからともなく酒が出てくる。ここは居酒屋か?
3週連続で登場するのがアントニオ・ロペス。
アントニオ・ロペス(の作品)を肴に見た人、近日見た人、まだの人が
「今日あるべき方向性・・」に一喜一憂するのである。
これほどに語り明かす一人の作家は後にも先にもなかろう。
「印象派から今日までの現代美術が持つ要素をすべて内包している」ところに因るようだ。
毎度場所を提供してもらい準備買出しと奔走してくださる磁場の
事務局長・西村さんに心をこめて感謝です。
8月15日(木)アンドリューさん佐賀へようこそ
朝、11時17分、アンドリューご一行様が佐賀駅の改札を出てきた。
大きな旅行バッグをそれぞれが背負っている。

よく駅などで見かけるたくましい外国人の旅姿である。
娘のグレースは小柄な体の背と腹に大小のバッグを負っている。

ホテルに荷物を預け、佐賀県立美術館へアートグループ磁場展を見に行く。
会場に入り、彼らは「ワオーWaoooo」驚きの声を上げ破顔するのであった。

ボクの段ボール作品の
「Welcome to Saga Andrew Deb and Grace」が功奏したようだ。
急きょ作品に切り抜き文字を加えたことは、ことのほかサプライズになり、彼らが
その作品の前に立つこと作品もさらに前進したのではないか。
また、グレースは長友心平君に18歳で亡くなった愛犬マスタードの絵を描いてもらい、
その中にグレース自身も挿入してもらい大喜びであった。
ちょうど現れたMasamitsuは英語なんて何のそのお得意のボディーラングエッジで
ハグハグハグ。

8月13日(火)磁場展初日
まだ、作品のキャプションがついていない。
朝、早起きして全作品の題名をプリントしてハリパネに貼り付け、
美術館へ。当番の武藤さん陣内さんと心平君が来ていた。
お客はゼロ。サガテレビの取材がある。
殺風景な入り口あたりを目立つようににぎやかにして客を呼び込まないといけない。
ところが、心平君が入り口に大きなポスターを描いていたので助かった。
会場に来た子供たちを見ていると「ともしびプロジェクト」のともしびを夢中に
描いているのにはアドロキ。
隣の部屋でも美術館主催の親子お絵描き会があってった。
絵を飾って、ただ見せるだけではいけないような気もする。
触って触れて描いてみるぐらいはあっていいのかも。
また、美術館という芸術作品がある空間で絵が描けるというのも特別なことに思える。
本日の入場者、100人を超えた。
8月12日(月)磁場展の飾り付け
磁場展の飾りつけ日がとうとう来た。
朝10時にメンバー10人が県立美術館に作品を持ち込む。
大掛かりな作品もあり、助っ人の女性が多いのが磁場の特徴。
助っ人の女性といってもそれぞれの連れ合いではあるが、改めて頼りがいがある。
月曜日・休館ではあるが冷房は入れてある。しかし、パンツからTシャツまでが雨の
ような汗となる。
今回は東北大震災支援”ともしびプロジェクト”の長友心平君がゲスト。
と言うことはメンバー11人である。
設営飾りつけに、今回、最も時間がかかった。
S新聞社のFさんは設営の一部始終を付き合い取材されてた。
何とか午後4時にはおわる。それでも心平くんは閉館までやったらしい。
夜、焼き鳥屋(S)で汗流し、都合のつかない二人を除いて大いに盛り上がり、
磁場のよさを痛感する。
36歳心平くんの参加がボルテージを上げたのかもしれない。
心平くんは鹿児島出身、現在は東京を拠点に東北地方をはじめ各地で
”ともしびプロジェクト”を展開している。
市民参加型の東北大震災支援アートである。
人々に支援のともしびを描いてもらうというプロジェクトで2万人を目指している。
現在、900組が参加、1メートル幅の紙で10メートルがともしびで埋められているが、
いつ終わるか判らないミッションのようだ。
これもまた、新しい概念の現代アートである。
考えさせられること多し。
7月29日(月)百舌鳥の仁徳天皇陵古墳
月曜日。美術館などはお休みの日。
大坂から40分。堺市の百舌鳥(もず)にいく。
百舌鳥駅の前が仁徳天皇陵古墳。
日本史の教科書などでよく見た俯瞰写真の前方後円墳であるが、そばからは
全体像はとても見えない。広大な森である。
三重の堀に囲まれた古墳であると言うことでも中へは入れない。
外郭から森の中をイメージするしかない。外周は徒歩で1時間もかかる。のでそれは止めた。
ボランティアのおじさん(ボクと同じくらい)がいろいろと説明をしてくれ判りやすかった。
おじさんは発掘当時の吉野ヶ里にも来ており、「すばらしいすごかった」を連発。
「邪馬台国は吉野ヶ里だ」と当時は思っていたと。
考古学に興味があり筑後川沿いを見て歩いたとも・・。
仁徳天皇陵古墳の前で意外にも吉野ヶ里で話が盛り上がってしまった。
そうやってぐるっとつながっているということでもあろう。
それにしても見学者が少ない。
昼、二人ずれの若い女性とボクしかいない。
広い駐車場に立派な案内所もあるのに・・たまたまなのか、客が来ない。
道路を挟んで反対側にこれまたうつくしく広大な大仙公園がある。
地元の大人や子供がくつろいでいる。
子供たちは池で鮒釣り、大人はベンチで昼寝や将棋。
汗びっしょりになり、おばさん一人でやってる茶店でかき氷をいただく。
うーん、涼しいね。
月23日(火)緑光会展
朝、県立美術館へいく。
「緑光展」を見る。
油彩によるいろんな作品が並びたのしい。
また、親子スケッチ大会の入賞作120点も飾ってある。
会長・金子剛さんの「家族」杉原紘捷さんの「佇む」田代利夫さんの「呼子」岡本猛さんの
「バタフライ」などをはじめ、どの作品も人の温かみにあふれている。
会場で、ある女性に声をかけられた。
かつて短い期間だったけどボクに絵を習っていたと言われる。
顔も名前も思い出せないが、直ぐに判った。たしかに30数年前、そんなことがあった。
絵のことで僕が言った言葉を見事におぼえていらして、まちがいなし。
「父は石本秀雄(緑光展の創設者)先生に習っていたようです」と帽子をかぶりステッキ
を突いた男性を紹介された。そこへ金子先生が現れ、「失礼ですけどお名前は・・」
と「百崎です」。
「ああああ〜もっも百崎先生でしたか・・」と金子先生・・空白の部分が埋まって
いくのであった。
佐賀北高野球部の百崎監督のお父さんとお姉さんでもあったのです。
その女性・お姉さんはボストン在住で、「向こうでもまた絵をはじめました」
と言われるだけに、熱心に作品を見、いろんな質問をされていた。

7月15日(月)オリエント美術館
雨が降ったり止んだり。
土砂降りの雨。
岡山のオリエント美術館にいく。
「古代ガラス、大英博物館の名宝」
石英を低温で溶かすにはナトロンと植物灰を混ぜる方法がある。
今から4500年前、北メソポタミアではじめてガラスが発見、製造、実用化されている。
そのころの器が展示されているが、その時間が風格となってデザイン的にも今日を
凌いでいる。コバルトブルーが多いのも特徴。
陶器はよく見るが、ガラスは珍しい。
量も多すぎず、じっくり学習と鑑賞ができ、意外にたのしめた。
ただ、祝日というのにお客はパラパラ。
美術館スタッフや各部屋に座っている見張り役の女性の方が多いくらい。
7月15日(月)岡山県立美術館
直ぐ隣の岡山県立美術館では、漆器展と常設展を巡る。
こちらはさらにもっと観客が少ない。
いないに等しいくらい。見張り役の女性の方々が、たいくつそう。客が来ると姿勢を正す。
日当いくらだろう。
岸田劉生、国吉康雄、東島毅らの作品を見られたのはよかった。
岡山出身の国吉だが、17歳でアメリカに渡っており、郷愁もアメリカ色に染まる。
時期的にも国吉のスイカの絵がないのは残念。
7月15日(月)国吉康雄
ついでに、後楽園にかかる橋のたもとの路地にある国吉康雄の生誕地にも足を伸ばす。
ごちゃごちゃした民家の軒先に記念碑が立ってるが、相変わらず、哀れな姿である。
どうにか整備できないのかね・・。

7月15日(月)竹久夢二郷土美術館
雨も上がり、ここまで来たならと、大きな橋を渡り、後楽園とは逆の左に折れてしばら
く行くと竹久夢二郷土美術館がある。

かわいらしい建物ではあるが、人の気配がない。おそるおそるドアを開けると受付に
女性が一人座っている。チケットを買うと「ご自由に見てください」と言うことであった。
客はいないので、ゆっくり足を休めくつろいでいた。しっかりあちこちで
監視カメラが見張っている。
夢二さんはお金儲けにたけた人のようだが、順風万帆とはいかなかったようで苦労が伺える。

絵に関して言えば、切なく愛くるしい少女の顔と同じくらい、手首と指の関節がない、
あるいは無視したような描き方が、デッサン的でも浮世絵的でもないなめらかな手
の表情になっている点に注目。
一時期のブームは過ぎたのか、お客も一人二人、そして誰もいなくなる。
佐賀でだったら、大隈重信記念館へ行って、徴古館で鍋島家を見て、県立美術館へいき、
そして山口亮一旧宅を訪れるといったところだろうが、地元にいれば、ここまでし
ないな・・

関心ないというか灯台下暗しというか、人事じゃない。文化レベルが上がるにこした
ことないがまずは途絶えたり不毛とならぬよう、地道にも今の継続が大切なんだろうね。

6月30日(日)美協の搬出
搬出係りでもあった。
曇り空が午後から快晴となりよかった。
夕方、美術館は一般鑑賞者と搬出に来た出品者とでごった返していた。
事務局の片隅では、表彰式に出席していなかった受賞者の高校生らに廣島巌理事
長が
賞状を読み上げ表彰していた。
観客は大治郎先生とボク。パチパチパチ。

「昨日山口旧宅でお話聞きましたという」方、3人が美協展を見に来られていた。
「お話のあの山口さんがこの美協をつくられたんですか!」と驚いた顔をされていた。
美協96回、戦時中は中止の百周年である。
4時30分搬出開始。入選、落選、会友、会員各々が一斉に預り証を提示し作品を運び出す。

佐賀の5,6軒の画材屋さんは搬入搬出依頼者の作品をまとめてトラックへ運び出す。
外では駐車場大混雑し、スタッフが誘導する。
人と作品が渾然と往来する激動の終焉である。

やがて人も作品も去り美協スタッフとバイトの学生さんだけとなる。
毎年のことで慣れてはいようが、96回も続いているのである。
ご苦労さん。お疲れさん。
6月26日(土)山口亮一画伯のデッサン

午後、山口亮一旧宅で、山口亮一画伯のデッサンに関して、フォトジャーナリストの
大塚清吾さんとトークショーをする。
およそ50人のお客さんで座敷はいっぱいであった。

ぶっつけ本番、休憩を入れて2時間。
久米桂一郎、岡田三郎助らと佐賀美術協会を創設された山口亮一さんである。
今ではもう知る人たちも少なくなり、語り継がれることもあまりない。1880年生まれ
で東京美術学校を主席で卒業され、佐賀に帰り師範学校の教師となり佐賀美協を
柱に長きに渡り佐賀の美術発展に広く貢献されたかたである。久留米の青木繁や
坂本繁二郎
より二歳年長であるが、以後美術教師として佐賀で生きられた。
以前はボクも山口さんにいついてなにもしらなかったが、20代のころ中央画廊
というのがあって、そこで見た植物のデッサンに触発されある啓示をいだいたのであるが、
その作者が山口亮一さんであった。
どこにでもある庭の草花をささっと鉛筆で描いてあるのだが、モノを見る目の鋭さと
深さに感じ入った。

山口翁とのかすかなる接点ではあろう。
そのデッサンもどこかにあるのだろうが、以後ボクは見ていない。
権威とか名声には無縁のように飄々と、外ではまじめな教師として、家ではおかしな
おもしろいお父さんとして存在されていたようだが、(中央と地方、同級生らの名声な
ど)
心のうちは興味あるところで謎である。

山口先生の教え子の方々の回想記にもそこが出てこない。今ではみなさんが、
80代から90代である。今のうちにそこいらを聞いておかなくちゃ・・。
大塚さんとは呑み屋で一杯やってるようなそんなテンポの会話じゃなかったろうか。
話し出したら終わりもなく、時間だけが過ぎていく。

後ろの方でスタッフの女性の方が「5分前」のボードを上げる。
結論めいたものもなく、突然のように終わった。
しかし、皆さんユルユルの笑顔で談笑されてた。

田からわざわざ来られた焼き物のI社とF社のかつての社長さんは繰り返し
「記憶の風景を描いてください・・」と・・。
皮肉にもうれしい限りであります。
 ※ 途中、絵を描くようにいわれ、ホワイトボードに前列のおじさん二人とリクエストで
はなたれ小僧を描く。

6月24日(月)オルビリオンとクリスティーナの世界
ぽっかりと空いた月曜日。
酔い覚ましに近くのシネコンへいきトム・クルーズ主演の「オブリビオンを見る。
近未来のSFモノ。半壊した地球。生き残った人間は新たな星へと脱出。
地球に残りを監視、警備するトム・クルーズと攻撃型飛行ロボット。
現代、過去、未来が交錯、コンピューターの反乱、どんでん返しとお決まりの
パターンであるからして筋は大して重要ではない。
VSFXの視覚効果をたのしめばよく、筋などつけたし。
劇中、アンドリュー・ワイエスの絵が登場するのには、驚いたしなるほどとおもえた。
一まずこの映画のテーマは人間が忘れ去った(オブリビオン)緑の自然と
小ブナ釣りし故郷であるようだ。
ワイエスの代表作「クリスティーナの世界」がたびたび登場する。
原作はどうなのか判らないが、監督なりが、クリスティーナの世界を
よほどに好きなのであろう。
草原をはうように横たわる女性が、丘の上の家を見ている「クリスティーナの世界
であるが、実は我が家へ帰ろうと小児麻痺で歩行できないクリスティーナの
必死の姿なのである。
ワイエスは毎年夏にクリスティーナの家にやってきて、二階をアトリエとして借りていた。
よく窓からはいつくばって丘を登ってくるクリスティーナを見ていたのであろう。
絵の方がいかに美しく、生きるメッセージがこめられている、のからしても、映画や
芝居の物語(メッセージ)は饒舌絶後?である。

6月23日(日)美協day
美協の総会、受賞者表彰式が、アバンセであり、、そして夜は美協100周年記念の
パーティーがホテルニューオータニで盛大に行われた。
はじめに、「醸成の一世紀−佐賀美術協会と美協展」と題して県立美術館の
野中耕介学芸員が風土、歴史、これからの美協について講演、解説。資料や
写真のスライドも映し出され、美協100にふさわしい意義ある演出であった。
ゲストの皆様、美協のみなさん、お疲れ様そして、ありがとうございました。
6月19日(水)美協の飾りつけに行く。
当番日ではなかったが、K・Sさんの希望で交代した。
みんなで支える美協である。
バイトは佐賀大学の美術専攻の1年生・展示作業ははじめてのおよそ10人。
男子は3年生の前田くんだけ。
最近の学生さんもよく気が利いていて、着々と完了へ向かう。
前日の展示がかなり進んでいたので、早めに完了、楽勝ではあった。
作業日であるから、皆さんの作品は見てるようで、まだちゃんと向き合っては見ていない。
一観客として改めて・・、いつものことである。
100周年とあって、初代理事長・山口亮一先生の時代に展示壁面用として使われていた
茶色の暗幕やガリ版、賞状、山口亮一先生の娘さん(西幾多?)さんの
手紙なども展示されている。
明日20日(木)より佐賀美術協会創立100周年「第96回美協展」が始まる。
佐賀県立美術館も30周年ということである。
美協100周年のパーティーが23日(日)にホテルニューオータニである。
美協の歴史はこれから佐賀の歴史でもある。
6月19日(水)ライバル 種臣と梧竹昨日、「美協」搬入時のこと。
美術館の別室にて開催中の「ライバル 種臣と梧竹」
と「佐賀二科展」を見る。
「佐賀二科展」
みなさん自分のスタイルを徐々にだが変化、前進されているようで
、見ごたえがある。
「ライバル 種臣と梧竹」<佐賀県立美術館6月23日(日)>
佐賀に生まれた近代の二大書家、副島種臣と中林梧竹の書の特集。
二人の書を対にして展示してあり、お二人の違いや共通性などが見て取れる
仕掛けのようだ。
二人ともどこかでは、象形文字風の書き順に捉われない自由奔放な書を描かれれば、
単純明快な墨絵は逆に書のようでもある。
弘法様にも通じる大胆かつ繊細さが見て取れる。
繊細の中にもおおらかなのが梧竹さん。
繊細ながらも豪快なのが種臣さん。
豪快、おおらかな遊び心が現代にも響く。
6月3日(月)川副田園の郷ギャラリー
梅雨の晴れ間、川副の田んぼにいく。
途中ひさしぶりに弁当屋でしゃけ弁(390円)とお茶(120円)を買う。
まだ、刈られていない大麦の田んぼも残っている。
田植えの水田もこれからというところのようだ。
漁港ではすっかり舟が姿を消し桟橋や支柱だけがカタカタカリゴリと風に揺れている。
田んぼにも漁港にも鳥の姿が不気味なくらいにない。
食糧生産の場でありながら不自然な景色である。
犬井道の川副支所3階の「かわそえ佐賀田園の郷ギャラリー」に寄る。
「金子剛作品展」が開催中。
「凧あげ」の大作を中心に植物画、風景画、版画など金子ワールドである。
常設では川副出身の画家・(故)田原輝さん、吉田進一さん、深川善次さん、
大隈武夫さんの見ごたえある大作が飾ってある。
元々町役場の部屋を利用しているので、展示状態がいいとは言えないが、
作品にはじっくり向き合える。
誰もいない。だれも来ない。時間もゆっくり流れるような。
田原輝さんの50号ぐらいの作品「海老網を繕う(1939年作)」は好きだ。
漁具が散乱する漁師小屋で窓明かりを逆光に男が網を繕っている。
小屋の窓からは有明海が見える。止まったような場面であるが、
海の揺らぎ、海からの風が今なを小屋に届いている。
ゆっくりと時が流れるように・・。
戦前の有明海とその暮らしが垣間見える。
抗わず叫ばず、その日を暮らすつつましさか、そこに何らしかの”たくましさ”が
品よく浮上する。
田原さんは終始、仏像を描き続けられているが、それ以外にも幅広くモデルと
取り組んでおられ、現場で描くということも多かったようである。
昔浪人のころ、吉田進一先生に連れられて東京の田原輝さんの
ご自宅を尋ねたことがある。暗幕で窓を覆い電灯の下で仏像の大作を描かれていた。
東京教育大を退官された直後だったようで「吉田君、教員してるうちは絵は描けんな・・」
とおおらかに言われたのが今も耳に新しい。
田原輝さんの画集を見ながら改めて川副の風土に思いをめぐらし、
3階の窓から川副犬井道の町を眺めた。
品のよさというのは本人もわからないもので、もって生まれたものでもある。
誰も来ない。誰もいない。ギャラリーのソファーで時の過ぎ行くままに。

5月24日(金)早瀬美佐子さんの水彩画個展
早瀬美佐子さんの水彩画個展(村岡屋G)を見る。
早瀬さんと言えば「蓮」を描かれる画家である。
水田に立ち水面に映る冬枯れの蓮はいちだんと素敵である。
耐え忍び春を待つ人の世と一夏の終わりの余韻とが交錯する。
個展には花をたくさん描いてあった。
透明水彩系はではなくすべてが油絵的なガッシュであり、力強い。
ご本人も作品も年齢を感じさせない元気である。
5月20日(日)草茫々通信6号「片島紀男の仕事」
元NHKディレクターの(故)片島さん。
当時NHK佐賀にもいらして、お名前はたびたび聞き及ぶ。
東京でもたくさんの社会派のドキュメンタリー番組を創られた。
親交や関わりのあったあった人たちが思い出や仕事ぶりを寄稿されており、
片島紀男(さん)という男の生き方が見えてくる。
今回は1書き手も増えてるけど、136ページと、冊子というよりは本である。
「(前略・・)原稿はどれも、片島さんに会いたい、と語っていた。会ってなにから
話そうか。とりあえずはビールだ、と。(・・後略)」と”あとがき”に草茫々主人
(八田千恵子さん)のつぶやきがある。
労作である。お疲れさんである。それにはやっぱりビールだ。

5月13日(月)中之島図書館
大阪駅の方に向かって歩くと淀屋橋の中之島に出る。
ここは川も広くセーヌのようだ。
ウォーターフロントがまだまだ進行中。
川に面して大阪市役所とレトロな大阪府立中之島図書館がある。
ルネッサンス神殿をおもわせる大阪府立中之島図書館は気に入った。
明治37年に15代住友吉左衛門友住純氏の寄付によって作られたもの。
設計は辰野金吾ではなく、住友家の建築技師長であった野口孫市氏。
全貌を見ようと向き合う市役所裏入り口の階段踊り場に寝転がっていたところ、
警備員・2人が現れたので退散。
市役所も優れた建物であるが、現実は中之島図書館の展望台というところか。
図書館にも許可をもらって見学入館。バロック風の吹き抜けドームにバロック調の階段。
昔ながらの図書館といった風でほとんどが男性のおじさんの閲覧者が寡黙に勉強している、
にも見えるが、暇つぶしも多いのではなかろうか。


5月12日(日)美の饗宴 大阪国立国際美術館
大阪駅前のホテルからぶらぶら歩いて20分。
超高層ビルが並ぶウォーターフロントの中之島の国立国際美術館がある。
こんな近くにあるとは知らなかった。

イ美術館じゃないか。
関西コレクションズ・「美の饗演」
セザンヌからマチス、ピカソ、ウォーホル、バスキアまで、すべてが網羅されている
わけじゃないが(自分が)通ってきた時代が手に取るように判る。
他では見ていない作品だけに見ごたえ十分。

美術館には美術館なりの特色、個性があるもので、この美術館のよさはぎすぎすして
いないところである。
指定の鉛筆を借りてメモを取っている風に、また観客のじゃまにならないように作品など
をスケッチしていても、観客も美術館スタッフも避けて通ってくれる。ボクとしてはこれ
ではいけないのである、もっと素早く描かなければならないのである。

ある東京の美術館では観客の邪魔になるよしと促されたことがある。
監視員といっても専門職。ただ座っていればイイというのとは違う。
美術館ならびに作品についての勉強はある程度なされているよう
。いつなんどき観客が「?}を質問するかわからない。
専門的には学芸委員の出番となろうが、臨機応変に対処できるたいせいではあろう。
しかし現実的には作品保護の観点から観客に対しばじかりピリピリしている
館内見張り人が少なくない。
地中美術館のように作品の説明員と監視員の二役をこなすところもあるが・・。

彼女らは最早、美術館の顔といっても過言でない。
美術館の考え方、姿勢、方向性の現われにもなる。
写真撮影OKの美術館も増えたは来たけどまだまだ。
イイ感じの国立国際美術館と言えども作品も館内撮影も禁止というのもどこかおかしい。

他の階では「ピカソの版画と陶芸」「塩見充子とフルクサス」「具体美術」なども充実した田。
見やすく、描きやすく、いい雰囲気が全体に作ってあり、新たに見つけた
イイ美術館にはちがいない。

4月15日(火)古川清右(せいすけ)遺作展
古川清右 遺作展」呉服元町のカフェ・ブラッサンスにて4月16日まで開催。
先日作品を拝見した。
古川清右さんは佐賀高校出身で、武蔵美大を卒業され、東京にアトリエを構え、
施設の壁画などの活動をされていた。
2011年、76歳で亡くなられている。
宮木英幸さん・佐高の美術部の先輩や同窓生の企画である。
小品ではあるが、壁画をされていたというだけにほとんどがフレスコ画である。
フレスコ特有の肌合いとやわらかな色彩が魅力である。
そのフレスコ画を剥ぎ取り新たにキャンバスに貼り付けられているという。
どうし
てなのだろう?保存上のことか?わからない。
油彩の風景画もあり、どれもが心象の表れのようである
風景画や静物画など極一部であるが、わが道を堅実にゆるやかに歩まれた
のではな
いかと思う。絵画であることは言うまでもなく、どこかに怒りとかさびしさが
にじみでるものである。絵画の宿命でもあり、作者を代弁す時間の蓄積装置でもある。

4月6日(土)二人のダイジロウ熱く語る
県立美術館開館30周年記念 全収蔵品展」いろんな仕掛けで来年3月まで随時公開される。
その第一弾、シーズン1が昨日より始まった。
たくさんのコーナーが設けられており、それぞれに美術館のコレクションが飾られている。
その中のシーズン1で「みんな県展で大きくなった 」の展示コーナーがあり、
今日はそのトークショー・”二人のだいじろう熱く語る”である。
朝からの雨で、(お客さん)どうなるものかと県立美術館に行く。
宮崎大治郎さんと服部大次郎さんの作品が並ぶ前椅子が並べてあり、野中耕介・
学芸員の司会でトークショーがはじまった。
いつの間にか20にんくらいのお客さんがいらしたが、二人の共通の友人らが来て
くれていたようです。ありがとうございました。
とりとめなく話すこと一時間。おもしろくたのしかった。
今後もトークショーやミニコンサートも予定されており、
美術館企画のユニークな展覧会になるのではないでしょうか。
お茶の会のご婦人方の抹茶コーナーもあり、そこで抹茶をいただく。
そこへ青木繁の作品の話が好きなおじさんがいらして、鑑定についていろいろと・・。
県民がアート話をする場所としても広がればイイですよね。


2月16日(土)上滝泰嗣個展(村岡屋ギャラリー 2月12日〜17日)
200号の大作を正面に、周囲には東欧の風景画が並ぶ。
チェコの古い町並みなどが鮮やかな色彩で絵になっている。
行ったことないけど美しいところだな。
ボクもがんばらなくてはね。
1月31日(木)舟一朝展と農業祭り
朝、舟一朝さんの個展を見にシルクロへ。
韓国のあちこちの街角に例のオレンジ色の三角の布を展示した報告写真展。
同じ風景でもそこに人がいるか、いないかで印象も違う。
極私的な風景論である。
また、作者にとっては、飾って、眺め、写真撮るまでのスリル感がたまらないのかも知れない。

昼、佐賀空港東の空き地で行われているさが農業祭りにいく。
ものすごい人出である。
以前は、平日などがらんとしていたのだが、上昇振りには驚き。
農業県ならではの確かに祭りである。
何もなかった草原に突然大テントが現れ、車人が行列して集まる。
1月28日(金)佐賀水彩連盟展
昨年の夏ごろに頼まれていた。
本日、それが終わった。
夕方、約束の時間に県立美術館へ行く。
水彩連盟佐賀市支部展(白水会展・1月29日〜2月3日)の飾りつけは、完了し、
みなさん待っておられた。
出品者、37人の大作が一堂に並んでいた。
水彩画らしく軽快で明るい雰囲気。
出品者のほとんどが女性である。
緻密に丹念にじっくり取り組んだライトな水彩画からヘビーなアクリル画まで見せてくださる。
材料の違いはあるが、洋画(油絵)とそん色ない。
みなさんと作品一点一点を見ていきながらながら感じたことをしゃべる1時間30分。
これでよかったのか?お世話になりました。
1月1日(火)新年描画
昨年、2012年の正月。田んぼの雪の草原で脱出できなくなった。車に積んでいた
ダンボールをタイヤにかませ道を作って脱出。非常にあせった。
昨日、12月31日も田んぼにいた。車を動かそうとしたところ、スリップ。
車を停めていた落ち葉の下はぬかるみだった。後輪が空転して雪マークの警告!
枯れ木や丸太を敷いて、なんとか脱出成功。ところが雪マークとパンクマークが消えない。
電子機器の誤作動とはおもうが、困った。本日警告マークは消え正常にもどった。
そして2013年を迎えた。
が、西暦1年とはどんな時代だったの?と考えると眠れない。
弥生の前日?キリストの生誕日?と昨日のことのように実にさわやかに言うが、
その時代なんて全く知らない。未来なのか過去なのか、その他なのかと。
あっという間の2000年でした。と言ってもさしつかえないのでしょうが、
私わずか数十年しか生きていません。
いくらパソコン、ケイタイがあっても日本は海に囲まれ、田んぼがあってと
2000年前と大して変わりゃしないのでありました。
今年はそこいらを(アートとして)遊べばもつかなとも。
酔いを覚まして夕方、田んぼはこりごりで戸ヶ里の漁港に行った。
すう席の漁船が海から戻って来るだけの静かな漁港。
陸に上げた漁船を修理する漁船屋さんがいた。犬と散歩のいつもの老人。
一瞬、雲がどいてヘビメタ潟に後光が射した。
新しいものを創りたいと、やってはいるが、今年もこれだ。
まずは平穏な自然に感謝。

   2012年
6月8日(金)襖絵
舟一朝さんの”ふすま絵”をGアートエルで見てきた。
ギャラリーにふすま四枚がおいてある。
見慣れぬ景色である。
鳥の子紙に日本画の顔彩、岩絵の具で描いてあるよう。
梅の幹から一本の枝がふすま4枚を横切り、三枚目と四枚目の中間に
白い梅がぽっこりと開いているというシンプルな構図。
いろんんなことをやる舟さんだが、日本がもなかなかのものである。
12月11日(火)アトリエM展
イイ天気である。
お寺で法要を済ませ、美術館にまわった。
山田直行さんの教室「アトリエM展」を見る。
隣室で書道展も行われていたが、入り口を共有して両方が見られるようにしてあったのは
goodである。
直行先生は大作から小品までの多彩な直行ワールドを展開。
出品者それぞれが自分の世界を披露されている。
増本ナオタカさんは鬼の金棒のような花瓶を画廊中央に林立させ、
オブジェを見るようなたのしさがあった。
一点出品の高畠輝子さんの朽ちた大木を描いた日本画は美しく力強く、
凛とした風格がある。
輝子さんのお父さん・輝明さんは、透明水彩風景画に加え、雪景色の雪を白抜きではなく、
胡粉?で盛り上げ、質感を出そうとの工夫がある。
松原由佳さんは、今回もたくさんの大作を並べている。
60年代美術を彷彿とさせるようなエネルギッシュな具象のアンフォルメル。
薄暗い階段に並べてあるトルコキキョウバラの大作三点はほとばしる生命観を感じた。
福島邦子さんの孔雀を図案化したような原色画、その娘・さな恵さんはもう中学一年生、
昨年までとは変わって、新たにしっかりと楠の大木をとらえて描いてある。今年、
その楠の絵で美協に初入選されている。
若い人が育ち、若いメンバーも増えている。
橋口実依さん、森田薫さん、永田かおりさん、中西真依子さん、山田絢貴さんが出品。
ベテランから若手まで、絵をたのしむ雰囲気がイイ。
12月日(月)ファンタスティックな野郎たち展
夜は久光ギャラリーにて2012 vol.7「ファンタスティックな野郎たち展」
の搬入飾りつけ。
総勢十数名で展示、キャプションは明日朝。
花、景色、静物の具象からポップな現代アートまでが勢ぞろい。
顔ぶれ多彩な17人。いろいろ表現があっておもしろい。
車じゃなかった、川本さん西村さんと焼き鳥屋さんへ。
いろんな話したなぁ。人生って、よかばんた。

11月17日(土)塚本猪一郎展
塚本猪一郎展(ギャラリーシルクロ,12月2日まで)を見る。
自由奔放な作品がところ狭しと遊んでいるような塚本ワールド。
無地のキャンバスに黒い線でドローイング。
面の部分は色紙であったり、(増毛にもイイような)黒い繊維を付着させる。
抜けるぐらいにすかっとする。
思考や手動の彼方にいこうとするのかな。
うん??

「マレーナ」監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 、製作年 2000。
前にも見ていたがおもしろかった。金が掛かってる

10月24日(水)イルミネーション
午後、例の4人と新人の今泉さんで佐星醤油の飾り付けをする。
メインストリート唐人町の土橋三叉路に立つレトロな洋館風な建物である。
前の二軒とは量、面積ともはるかに大きいが、三件目となると大分要領を得てくる。
壁、塀、庭木にネット、つらら、ストレート、ベル、リボン、ハート、星を取り付け、そして最後に「佐星」だけに二階の窓から星を7つ飾った。
配線ができた部分を点灯さしてみるとかなりきれい。
夜、四人で汗ながし。
10月19日(金)カフェ・ブラッサンス
10月21日(日)佐賀ん街にカフェ ブラッサンスがオープンする。
今年佐賀新聞社を退職された園田寛さんの新な空間である。
店内は朝の光りのようなホワイトの空間にピアノ、絵画、テーブル、カウンターそして、本棚には詩集、画集、音楽評論などの蔵書がたくさん。
フランス文学の人だけにコーヒー、料理と音楽もフランス風。
11月3日、4日、には吉富久美子さんらによるエリック・サティー ミニ演奏会が行われる。
その練習が本日あってました。
10月17日(水)店舗にイルミネーション
イルミネーションが届いたというので、唐人町の佐星醤油へいく。
吉村氏と局長と雅光さんと私。もの好きというか、ヒマなオジサマたち。
段ボールが箱が山積み。
イルミネーションを取り出すだけでもたいへん。
2mのツリー、鐘などの大物立体からピカピカ蛍までものすごい量である。
そこで、ここはひとまずおいといて、量の少ないNさんのお店の飾りつけをテスト。
川に下りたりイルミネーションを引っ張りはりめぐらしたりと一人では無理。コンクリーに釘が
打てづ一苦労。
なんとか、川端の塀に取り付けるが、全体の配線接続は後ほど。
あと2店舗は来週に設営します。お待ち下さい。
完成のピカピカがたのしみ。
10月10日(水)山下清展
午前、11時に県立美術館の山下清展に入場。会場は観覧者が鈴なり、長蛇の列で
一点一点に見入っている。
初日でも少なかったのに、宣伝、口コミなどで広がっていったようだ。
偽りのない欲のない清さんの作品はこの時代にも改めて受け入れられる。
トンボ、蝶、キンセンカ、ユリ、モクレン、さるすべり、菊、キリンソウ、雪だるま作り、剣道
、柔道、寝起きの布団風景、餅つき、花火、身体検査、巡回活動写真(映画)と映写機、
ラジオ体操、水に溺れた人、線路を歩く清、駅のベンチで寝る、リュックに物をしまう清、
アザラシをしとめ引き上げるアラスカの漁師などに目が向けられている。
ストックホルムのボクが描いたのとほぼ同じ場所から描いたガメラスタンの夜景もある。
単なる思い出や記憶とはちょっと異なる。これが本当の絵日記というものかもしれない。
当時、”マジックインキ”というそれこそマジックのような太いぺんが世の中に登場した。
それをお坊ちゃまの同級生が誇らしげに持っていた。
鉛筆しか知らない人種には、すらすらと真っ黒な線が引けるペンは驚きであった。
マジックの命名もよく、購買心をそそったようだが、高価であった。
清さんがそのマジックを手に取り線を走らせた瞬間が判るようだ。
清さんのマジックな宝物になったようだ。

10月10日(水)中尾蔦一展
博物館にまわり、中尾蔦一展と 売茶翁展を見る。
観客はボク一人。怖いくらいに静まり返っっている。
鹿島に中尾蔦一という日本画家(明治34年〜昭和12年)がいるなんて知らなかった。
奥さんや子供を描いた日本画と掛け軸などの15点。
東京美術学校で学び画壇デビュー。故郷鹿島に返り教鞭に着く。
先人の確かな才能と技量が伺え、自分にも少なからずつながっている。
おもしろいのが、(故)高田渡さんとの関係だある。
蔦一さんの妻・香さんが渡さんのお父さんの妹であるということ。
そんで、渡さんが少年時代、鹿島に住んでいたという経緯が、少し判った。
渡さんの実父・高田豊は岐阜県の資産家、詩人、活動家であったが、破産し、東京都深川の援護施設で父子生活をする。
豊さんの妹が蔦一さんの奥さん・香さんであり、作品を通して蔦一さんの香さんにたいする愛情がにじみ出た作品となっている。
観客が他に誰もいないのでそんな因果を思いながらゆっくりと作品を見た。

10月日3(水)60年代アート
現代美術はこんなにおもしろい!(岡山県立美術館9/27〜11/4)
ネットで調べ、岡山駅のポスターで見たので行ってみた。
この展覧会の「自由になれる」か「おもしろい」かは疑問だが。
60年代アートを中心に現代の若手まで35人。
60年代のアートは、どこか深刻でデカダンス。自由かどうかはギモンだが、暗いトンネルを抜ける
ようななつかしさがある。
子供の「影」を描いた(故)高松次郎さんの作品が特にその時代を象徴しているように思う。
てんてんばらばらの表現の時代で海外に渡って行った作家も多く、しかし、高松さんは日本に
留まり世界を意識したハイクオリティな表現で時代をリードしていくんであるが、
時代のズレが埋まらない苦難の道ではなかったのか。
同じく中西夏之さんがいらっしゃるが、60年代の美術とは一線を画したような道を進んでおられ、
広い観点からすればNO1であろう。
ここには、中西さんの作品はなかった。ほんの一部にすぎない。
滝口修三、吉原治良、河原温、草間弥生、三木富雄、白髪一雄、菊畑 茂久、馬大竹伸朗、
福田美蘭、束芋など。
中学生が団体で来ていた。各グループに分かれそれぞれの作品の前に座り、学芸員や
(ボランティアの解説者とおぼしきお姉さん)とトークをやってた。的を得てないことを云う
お姉さんもいたが、皆たのしそうではあった。
かつて、ストックホルムの現代美術館で小学生の団体がおもしろがってたのをうらやましく
感じたもので、「現代美術がおもしろい」とかい言ってる場合じゃない。
日本の子供たちは十分に現代感覚を持っている。乗せて褒めてほっとけば、写生や
デッサンと同時に自由なアートをやれるんじゃないかと思う。
そのためにも子供たちに一度ならず現代アートを見て欲しい。
この展覧会に賭ける美術館側の思いは、街や駅のポスター、展示キャプションのポイント
を押さえた解説やアシスタント学芸員の数の多さに如実に表れてはいるが、中学生たちが
帰ったらガランとなってしまうのであった。
東京の近代美術館や高松市美術館に行けばもっとたくさん見られるのであるが、あえて
開催しようとするところは、美術館としての生命線、存亡を意識したフレッシュで
アクチュアリティなければとの顕れであろう。
蛇足として、展覧会を見る度に思うことがある。
他人の作品を見るばかりで、そこに自分の作品がないということを、それが問題のようだ。

9月17日(月)東京都現代美術館へ
地下鉄で清澄白河まで行き。下町の雰囲気が残る
深川を歩く。
ポツンポツンと商店があるだけの旧商店街である。
しかし、通りにはかかしが立ち並び訪れる人々を歓迎している。
田んぼもないのにかかしとは・・?
子供たちが思い思いに作ったかかしであり、「○○賞」とか付けてありコンクールのようだ。
町と美術館が組んで東京都現代美術館までの道筋に飾ったもののようだ。
手作りで頑張っているところが判るしうれしい。
それより楽しい通りが佐賀の唐人町にもあったのだが、それをお上は取り止め、
別の場所に訳の判らぬコンテナなどを置いてよろこんでいる。金の使い方を知らぬ
文化程度の低さだけが露呈している。よそから来る人の視点に立ってない、
ただ自分たちの・・内輪的に無駄遣いしているだにしか見えない。
下町を見ながらの深川、木場どちらからでもいいが、歩き、バスに乗っても木場公園の
現代美術館に出るようになっている。

9月17日(月)特撮博物館
さて、東京現代美術館では夏休みから続く「”特撮博物館” 2012年7月10日(火) 〜
10月8日(月)」が開催中。
連休とあってものすごい人出である。時間差入場だが、すし詰めというか、
見られる状況にはない。観客かき分け、どんどん部屋を素通り。
それにしても鼻血の熱気だ。
デジタル世代は手作りの特撮に興味津津なのだ。
特撮にぎこちなさは付き物で、そこも味の内。ねばっこい迫力はまた見たくなるもの。
そこがCG作品とは違う。
「2001年宇宙の旅」の映像のみの迫力も合成特撮である。特撮の不自然さは技術陣の
苦労の汗にも見えるのに、CGでの不自然さは、判って居ない、
不自然というミスで片付けられ味気なし。

9月17日(月)夢は円谷英二監督
ボクら世代には円谷英二大監督がいた。ボクラの神様だった。
確かボクも特撮をしている。
アルバムを調べるとあった。高校1年の夏(退屈していたのだろう)の記がある。
庭で模型の戦車、飛行機を使い、炎上する町のシーンを撮っている。
白黒を意識して道路には石膏を流し、空き缶を工場やビルに見たて、池や堀もある。
火炎はどうしようもなくカンナくず燃やしている。
他人が見ても何なのか判らないモノクロの難しさがあるようだ。
一度、映画のミニチュア工房に行き、就職面接を受けたことがある。
「絵の道とは、程遠い世界だから、このまま絵の勉強をした方がイイよ」とやさしく断られたこ
もあったな。
今も映画の特撮やスタントには重きを置き作る側に似たきびしい境地で見るところがあり、
映画人のつもりでいる。
特撮博物館のメインは東宝・円谷英二にはじまりその流れを組む技術者の展開になっている。
東宝の特撮倉庫とミニチュアセットの再現は圧巻。
出来れば当時の撮影所を覗いてみたかったが、現に映画界の低迷で処分破棄されたり
と記録保存が危ぶまれているらしい。
今回の「特撮博物館」はそんな博物館建設の夢もあるのだろう。
特撮ファンとして望むところである。
9月16日(日)奈良美智展
誘われて、みなとみらいの横浜美術館へ行く。
奈良美智展(2012.7.14〜9.23)
少女の顔が万人に受けるのは当然だろうが、
絵画的には、饒舌にならず、”ズバリ一言”で現代を切り取っているかに見えるところが奈良
美智たらんとするところであろう。
少女の多様な表情のイラストに見えるところも子供、若い世代に共感を呼ぶのだろうが、
しっかりと従来に絵画に裏打ちされている。それをわざわざ見えるようにしないだけで、
またそこを作者が打ち砕こうとするところが新たな絵画の概念であろう。
美術や絵画を広く自由化、いや一人一人の身近に取り戻そうとするかのようである。
櫃田 伸也、村上隆、大竹伸郎、D・ホクニー、A・ウォーホル、ピカソ、J・ジョーンズが
見え隠れしながらも表現は少女の一人にしぼられていく。ひたすら自由な自分の
表現を探求した人であろう。
どこにでもいそうなちょっと喜怒哀楽の強い個性的な春少女。
遊び相手がいなくとも一人で何役もこなすエンジェルのようなピエロのような女の子である。

3か月の間、長蛇の時間差入場をするという盛況ぶり、子供大人が真剣にしかも顔を
ほころばしお喋りして鑑賞するというのもあまり見ない現象である。
第一室の何体もの少女の大ブロンズ像は圧巻で、事前認識を覆させられる。
摩耗し傷があったりセメントが飛び散った工事現場のような床が作品を足元から
相乗効果をあげている。係の者に訪ねると「元々は絨毯の床でしたが、
この展覧会の為にすべて剥がされました・・」と。
展示壁面を展覧会の度に作りかえるというのは、日本でもあたりまえになったけど、
絨毯を剥がしたとは、太っ腹である。
作者と企画側との妥協なき展示方法も見せている。
常設展がこれまたすごいコレクションである。
まず、日本画壇の創始者岡田三郎助の人物がが二点。小品ながら研ぎ澄まされた写実である。
岸田劉生、F・ベーコン、ピカソなど古今東西の名品を展示することで、
今日の奈良美智の流れ、位置づけを暗に見えるようにもしてある。
写真撮影OK。それぞれが好きな奈良美智さんの少女の前では多くが記念撮影をするが、
支障はない。混雑する中でも自然なマナーも向上している。
夏休み、あるいは芸術の秋と「いかにお客を呼び込むか」美術館としては頭悩ます
最大の課題となるのであろう。
客寄せパンダ、看板倒れ、コピーに偽り内容不十分というのも少なくない。
まだまだ過渡期である。今やっと「物から心へ」が現実として始まっているようだ。
9月13日(金)陣内敦 個展

陣内敦個展(ギャラリー久光 ギャラリーIBAH)
大作の他にも図工の時間の延長のように楽しく見える小さな作品もたくさんあ並んでいる。
従来、陣内さんはハードエッジの平面に抽象的イメージの色彩を重層さすと言った考え、
スタイルを踏襲している。
厳密にいえばハードな平面にハードを回避する情感を投入しようとする。

ハードと情感の融合を目指しているかに見える。とすれば西洋のハードエッジとは異なり
ハードスタイルの日本絵画である。
絵具の代りに使用されるパラフィン(蝋)は、和紙、布、岩絵の具らの肌合い見せ、
そのもののコラージュにも見える。
作者の狙いではあろうが、物体としての重層(コラージュ)が前へと押し出さ、基底材として
のハードの意味合いが薄れているようにおもえる。
ここで思い出すのがJ・ジョーンズのエンコスティック(蜜蝋)による
「アメリカンフラッグシリーズ」である。
キャンバスに新聞紙を張り、エンコスティックを塗り重ね、どこまでも下層が透けて見せる。
美しさ以上に見る側は心理的に平面であるアメリカンフラッグの前後に広がる空間を感じて
しっまっているのである。
本来、キャンバスなど基底材自体が糸目、布、ファンデーション重層性の延長線上にあり
、そこを遮断しようとすれば、状館をみえなくするハードにハードという
方向性が向いていると思える。
極日常的な雲、庭、海、風といった自然の感覚を大げさにではなく、
自然に表してみたいという作者の自然さは顕著である。
パラフィンの隙間からキャンバス、板、鉄、紙などのテクスチャー(ハード
面)
が覗いた方がより浸透性も増すのではにかと、陣内さんと話したのであった。

9月13日(金)山下清展
朝、「山下清展」の会場式(県立美術館 9月13日から10月21日)にいく。
山下清展が美術館であるというのは珍しいのではないか。
デパートなどの特設会場で催されることが多かった。時の流れを感じる。
過去、2,3回は見ているようだが、はっきりした記憶がない。
改めて、予感めいて今回はたのしみにしていた。
この時代にどう見えるか。強いインパクトがありそう。山下清が美術の流れの中でどう
位置づけられ、どう自分とかかわっているかということなど。
絵を描きはじめた小学から中学生のころは蝶やトンボや草花をわら半紙いっぱい
に大きく描いている。日常の身辺の出来事を絵日記にしたり貼り絵にしたりと、
ボクラの子供のころと似たり寄ったりであるが、それが、高校生の年代まで、
いやそのもっと先まで続けられている。
あまり大人にはなりたくなかったようだ。ミチクサ食ったり遠回りしたりの日々であったのだろう。
20代のころの「鉄条網」「高射砲」は荒々しく激しく厚塗りの油絵のような迫力だが、
速いテンポで貼り絵がなされている様は、版木に向かう棟方 志功の祈るような
無心な気迫に満ち満ちているようだ。

その時代以外は日常のありふれた出来事を「ふしぎだな・・」
という子供のような好奇心で描いてある。
特別な物じゃなく、ただ高い物、広い場所、働く人たち、小さきものたちと清さん流の
心のときめきなのであろう。
あまりに普通で気負いもなにもない心のときめき。
現代アートの入り口であり出口である。
稚拙、素朴、障害者との捉え方はここには必要ない。
観察に鋭く、記憶力よく、頭よく、字も上手く、文章も上手いが、やはり絵が一番。
好きな事なら何が何でもやる。  
後十年長く生きておられたなら、国際展などで評価されることもあったろうにと思う。
しかし、30代でライフ誌に取り上げられ、そこがテレビドラマの喜劇にもなる通り
逆輸入の文化に翻弄される周りの人々のおかしさでもあるのだが、
一躍有名画家となった清さんは、それからしても立場上好きに自由に描けなくなった
のではないかと察するに余りある。
先のことはだれでもわからない。優しさ、愛情、胸のときめきが普通に展開されている。
迷った人の悩める人の現代人の返るところでもある。
ゴッフォの自画像を見た影響から西洋絵画風に立体的に描いた貼り絵の自画像にしても
桂作ではあるが、清さんにはなじめなかったのではないかと思う。いろんな情報は収集しても
「ふしぎだな・・」と思うときめきや感覚がないものは、たのしくなかったにちがいない。
それでも頼まれれば「いやと言えない」人でもあったようだ。有名無名と云うことも清さん
には関係なかったし、おごる諸々の輩も久しからずとはいかず。
汽車のトンネルを描いた鉛筆画とマジックインキ画があった。
その貼り絵はなかったが、トンネルの前に立つ清さんの後ろ姿の写真が、
あったのには嬉しくなった。
ボクはそのトンネルの貼り絵を小学三年生の時にまねて貼り絵にした。
父の土産の菓子箱の蓋にその絵が載っていた。
トンネルと線路と左に海。それだけでもう十分に惹きつけられた。
しかし、途中からその丹念さには真似が出来ず、手抜きをしたが、女性の大宮艶子先生は
Aに三重丸を下さった。
清さんは有田でもトンネルの絵を皿に描いたらしいが、その作品は行くえ不明とのこと。
千葉のトンネルとは推測するが、一番好きな場所ではなかったのかと想いを新たにした。
線路がツーッと走りトンネルの暗い穴の向こうにまた明るい小さな穴が見える。
なつかしいような何かイイ。よくわからないけどうれしくなる。子供心にあったものは、
疑いもなく大人になって消えず衰えず、やはり不思議なのだ。不思議ほのぼの、
テレビなどの映像で見ても、はっと引き込まれる。
昔、それを見たく、内緒で電車の運転席に乗せてもらいトンネルを走ったことがある。
しかし、ボクの中ではその絵はまだ完成を見ないでいる。
清さんもだれよりも描くことが好きだった。
※上が清さんのトンネルの鉛筆画。下は大次郎が菓子箱の絵を見てマネた貼り絵。
8月18日(火)中村暖くんの「絵画で日本を一つに展展覧会」
中村暖くんの「絵画で日本を一つに展展覧会」を見た。
彼は休みなどを利用して80号のキャンバスを担いで、東日本大震災の被災地を巡り、
被災地の人たちといっしょに日の丸を描いてきたという「日の丸」の作品や現地の砂や泥、
空の写真、瓦礫の破片に描いた花、赤い糸でつながる糸画などのインスタレーション。
その活動に賛同した日本画家の千住博さんも滝のリトグラフ1点を出品している。
初めての展覧会と思うが、17歳のコンセプトがしっかりした展覧会になっている。
なんだかたのしい。ということは、うまくいってる。
協賛,後援、学校などの様々な許可を取得することはたいへんだったろうが、
そのプロセスもアートだ、としてクリアーしたようだ。
「日の丸」それこそ何十、何百層のレイヤーになっていることだろうが、
ジャスパー・ジョーンズの「AMERICAN FLAG」を想起する。
新聞紙の上にミツバチの蝋・エンコスティックが何層にも塗りこめられるが、
新聞紙が透けて見える。
AMERICAN FLAGも環境であり人とのつながりなどがあるのかもしれない。
こんな身近な日々の環境が現代アートの主流の思想だ。
キャンバスから飛び出した勇気ある17歳のアクションはうれしくもあり、
今後に期待。
世代も違う一見異なるように見える開催中の3つの世界が佐賀と云う土壌を出さずとも、
ボクの中では円冠となっていく。

個ではなにもなく、一つの鍋で煮込む時、文化という味が生まれる。

8月27日(月)吉田進一米寿展

吉田進一先生の米寿展の飾りつけにいく。
助っ人が20人。それにバイトの佐大美術の学生さん・4人。
すごい人数である。
午前中、進一先生も作品の配列などの確認のため、車椅子で見学された。
作品よりも豪華な額が重く、ボクらの絵とは重さがけた外れである。
作品の配置が決まれば、8割は終わったも同じ。
甲冑の作品が半分を占めるが、壁に設置すると美術館の空間が動いた。
重厚な吉田絵画が壁に品よく、スマートな緊張感が漂い、これでOK。
慣れた人たちばかりで、3時には終わった。
100号〜120号が32点。それにSM〜50号の油彩、水彩が30点余り。
自他共に毎度のことではあるが、一人でも多くの人に見に来て欲しいものである。

吉田先生は現在、病院の個室でも好きな絵を描き、好きなお酒をたのしんでいらっしゃる

8月13日草茫々通信 5号
「”この軽やかな誌魂よ”追悼 東一秀」
今年春に亡くなられた東(ひがし)一秀さんの追悼集となっている。
医師であり詩人であり、音楽にも精通されていた東一秀先生。
いろんな切り口で皆さん捉えてあり、詩人・東一秀が改めて浮かび上がる。
柳町、材木町界隈の地図を松尾長巳(前柳町郵便局長)さんがドゥローイングしており、
見せる。全68Pと読み応え十分。
昔、たまたまボクの個展を見に来られたことがあり、ボクの「オデッセイ」を見て
「スケベな女の話やからね、その(絵に描いてある)とおりですよ。」と云って帰られたことがあった。
我家の斜め前に東病院はあり、当時、通院する人たちが絶えなかった。
子供のころボクも怪我して度々診てもらった。父の臨終も診とってもらったし、
我家で東先生といえば、やはり、お医者さんである。
8月12日(日)磁場展終わる
早くも磁場展が終わる。
美術館に場所を変えたことで、一人7mの壁面割り当てとなったが、そのプレッシャーを跳ね
返す桂作がそろい、5日間で700人を越える入場者があった。
「磁場」にとっては画期的な数字となった。
入場者数と催し物との関係は微妙で単純ではない。
とにかく今回会場に来ていただいたお客さんには、熱く「ありがとうございました」である。
また、今のところ新聞の記事以外に磁場を評論してくれる奇特な人もなく、追々、自分で
書こうと思うのが、現状。
まだまだ、不毛である。

搬出後、ギャラリーIBAHで打ち上げ。
西村さんが買い出しをした食材がところ狭しと並び、また、恒例の直行さんが黒津の
川で捕ったクマンチョエビを山田さんの奥さんがフライにして下さった。
美味な旬のごちそうに、話も弾んだ。
7月26日(金)緑光展
免許証更新。優良。30分で終了。5年間は大丈夫。
東光会佐賀支部”緑光会展”(県立美術館7月24日〜7月29日)を見る。
美術館周辺で事前に行われた小、中、高生の水彩スケッチ画も展示してある。
今年は例年になく思い思いにのびのび描いた作品が多い。以前までは鬱屈し子供たち
の風景画と思う事が常套であったが。
時代が変わったように目の前が開けている。これが本当だろう。東北大震災など
が関係あるのだろうかと・・。
緑光会の元気の良さも関係あるのか?
 古川昇平さんの「カンボジアの空」F100号は赤い色調の上に草花の緑が乗っかり、
部分的に木漏れ日のように赤、黄、緑が鮮やかに覗き、白壁のように部厚い空は
抽象的平面。遠景にアンコールワットがあるが、細密に描きこんである。そして、
その前に少女が立っている。響き合う色彩の切れ味がイイ。
ジレンマから抜け出し、次の地平の光りが見えている。
複雑な絵であるが、ズバッと一言が言えてる。自覚はともかく、決断の作品である。
こうなると広島もカンボジアも越えて普遍的な人の生きる「場所」としての世界観が
発生するのではなかろうか。
 下村先生の「初春のクリーク}F100号もすばらしい。40年前からクリークは
デザインや油彩小品ではよく見せてもらったのだが、100号にまで引き延ばす
とそれ以上に佐賀のクリークが見えて来る。今迄にない佐賀の風景の捉え方が、
ピンと新鮮で、よくぞこの空気を記憶にとどめ作品としてある。現実(の風景)にはもう
この空気を感じることはできないのであるから。
心に持ち続ける風景がピュアなのだろう。
7月23日(月)ダビンチ ビー玉
午後、馬責馬場の「肥前通仙亭」で本日命名した”ダヴィンチ広場のダビンチ・ビー玉”の
設営を通仙亭主・K美子さんとK本さん、T本さんとする。とにかく暑い。脱水症対策で冷え
た麦茶を飲みながらの作業。汗で全身ずぶぬれ、ここまでなれば逆に気持ちよくさえある。
最後は木材の台座などに着色して、なんとかイイ感じ、これはアートと思えたところで終了。
すでに通りを歩いていた親子が反応、「どうぞ」と言ったら男の子は夢中で
ビー玉を転がし始めた。
夕方少し涼しくなって、通りを歩く少年や成人が、全員極端に興味を示して通り過ぎて
行くのであった。風景が変わったのだ。手ごたえあり。
本番は今秋の土、日。当日は1万個シャボン玉製造機も置かれ、ソフトドリンク、
スナックなどのお店開店するらしい。
7月22日(日)高橋浩寿会10周年
杉原楠童さんの民謡会とその娘さん・高橋浩寿さんの津軽三味線の会の
10周年記念発表会を佐賀市文化会館大ホールで見た。
1800の席がほぼ満席。
お弟子さんたちの晴れ舞台。
民謡、民舞に尺八、太鼓に太棹の鳴りものが脇をかため華やかなオープニング。
圧巻は総勢30人の激しくたたくポップなリズムと切れ味抜群の太棹(津軽三味線)である。
民謡と太棹の強弱のコラボは最早ステージの新しい芸能であろう。民謡と言えば本来、
生活労働の中で生まれ、壮大な自然のスケール・現場で歌われたやる気と癒しを
増長させる祭り信仰みたいなもの、農の心であろうが、杉原楠童さん、
高橋浩寿さんやゲスト出演された小野花子さんはさすがにステージにもその心を
余すところなく歌いあげておられた。
さすが千両役者は津軽三味線の名手・高橋裕次郎翁(78歳)である。
津軽三味線豆辞典と題し、声帯模写、三味線の形態模写で判り易く、
おしゃべりと演奏は抱腹絶倒、会場を沸かした。
杉原楠童さん(50歳代)と高橋浩寿さん(20代)親子はお弟子さんや多くの人に愛され、
ここ佐賀の地で伝統芸能を新しい地平へと奮闘されている。
その道のりは大変でしょう。行政も佐賀の誇り、文化としてきちっと考え捉える時である。
将来有望な小学生、中学生、高校生のお弟子さんがいらっさやるのが何よりの力。
文化が育ち新しい伝統芸能として開花する日が来ると思う。
7月20日(金)磁場の看板
Kさんと潟を巡る。台風並みの風にとばされそうになる。
広大な空と干潟の間を風は吹き抜け,雲の切れま間に雲仙岳が見え隠れ。
先の豪雨に運ばれた土砂崩れの根付き流木数十本が干潟に散乱する。
キャンピンカ―も干潟に埋まっている。
展望台で双眼鏡を覗くと、潟スキーに乗った漁師二人が竹筒を回収している。
シャッパ漁か?干潟という干潟でには丸々太ったムツゴロウが飛びはね遊んでいる。
一時き消えていたムツゴロウが確かに復活して来た。
夕方、美術館入り口に磁場展の看板を3人で設置。準備万端で簡単に完了するが、
流れる汗は避けてくれない。ただ冷たい水がおいしい。

7月15日(日)岡田三郎助―まぼろしの名画 ”裸婦”一般公開
(佐賀県立美術館 7月13日〜9月2日)を見る。
たまげた、今まで見てきた氏の作品は何だったのかと思うくらいの落差がある。
氏66歳のときの作品である。外光派ラファエロ・コランに学んだというよりも
後期印象派そのものにも見える。
単純に考えると東京美術学校の教え子たちの台頭に先駆者としての誇りと
威厳を見せつけなければならなかった、と考えて見た。
見事である。外光派的明るさをたもちながらも新たに出現した日本の印象派にも見える
挑戦である。しかし気負いはなく古典的緻密さ絢爛さははフェルメールにもつながり、
会場で会った美協理事長・廣島さんも言われるようモナリザに匹敵する風格がある。
この絵なくして岡田三郎助かたれない。
昭和10年の帝展に賛助出品されて以来、表に出ることのなかったまぼろしの裸婦というが、
痛みも変色もなく完璧な保管であると同時に岡田の油絵研究の成果であるのかもしれない。
 野中耕介学芸員のトークショーも行われていたが、作品をよく調べてあっ
て興味深く聞いた。一部を除いて写真撮影可能というのも、地方美術館においては
けた外れの進展である。

7月15日(日)新郷土表紙展
別室でかつて佐賀県文化課から出版されていた「新郷土」の表紙絵原画展」を見る。
当時県展などで活躍した若者(今高齢者)たちの力作品が多いのだが、
自分も含めて気負い、小理屈、力みばかりが目立つ。裸一貫無欲でバッサリ、
ズバッと出来なかったのかと思えた。
さすがは進一先生、一刀両断。
7月7日(土)河合春佳展
「河合春佳展」Gシルクロにて。
写真と見まがうほどの写実力。
スーパーリアリズムのような意味性を消した絵でもなく、
情緒的な写真の場面をクールに丹念に描いてあるが、手の痕跡は消してある。写真は、
より絵画的になろうとするが、写真に近づこうとする絵でもない。
写真に見える情報のみを写し取ろうとするのかも知れないが、
作者の幻想せいがにじむところにほのぼの。
5月28日(木)第95回美協展
美協展の当番。
連日の雨が今日はからりと上がった。
飾り付けには行ったが、まだまともに全作品を見ていない。
どれも苦心の力作であるが、すかっと抜ける作品がもっとあればイイ。
磁場展に備え壁面を計ったり、皆さんとお話しているうちに、もう5時。
お客さんも多くまずまずであった。
6月22日(金)松涛美術館
当時、佐賀県出身者の学生寮・松涛学舎に入ってるという県出身の学生がいた。
そんなこともあって、また「しょうとう」という響きの良さにもふらっと行ってみることにした。
渋谷道玄坂109を左へ上って松涛美術館を目指したが、かなりの遠回りであった。
帰りはそばの鍋島公園を下ると、何のことはない、東急のブンカムラ、ミュージアムに出た。
文化村から行くのが断然近いのであった
閑静な住宅街に松涛美術館はあった。
野外音楽堂のような正面だが、内部の造りはすばらしい。
三階までの吹き抜けの下には照明噴水とかわいらし空中通路がある。
噴水そばの部屋でイーゼルを立て絵画教室が行われていた。
6回通って¥1500とはエライ。
日本画の田淵俊夫展があってた。
最近作の1000号を越える大作2点の水墨画は圧巻。東北大震災の鎮魂であるのだろう。
伝統的日本画法を踏襲しつつも鋭い線が植物、風俗、風景をポップにしている。
71歳、まだまだこれからといった境地であろう。
さて本題である。
鍋島の藩校としての松涛学舎がどこにあったかということであるが、美術館ではなかった。
美術館のそばには鍋島公園が健在で、人々がくつろいでいた。
渋谷駅から10分、、ここには街の喧騒とは無縁のようにしずかだ。車もほとんど通らない。
当時、松涛学舎が、無くなったと聞いてはいたが、武蔵小金井に移り新築され、
今も県人学生の寮として活躍しているとのこと。
後でネットで調べたら、NHKよりの観世能楽堂が松涛学舎のあったところと判った
初音ミクのコンサート
MIKUNOPOLIS in LOS ANGELS」(2011年7月ロサンゼルス)をテレビで見る。
初音ミクのコンサートである。
3D・CGとは言えステージ上で実際に振りを入れ歌っているように見える。
生のバンドも息がぴったり。演奏者たちもノりにノッてる。
熱狂的ファン5000人がペンライトを振る。
アンドロイドでもレプリカントでもない”ボーカロイド”であるらしい。
デジタル処理されたドッドの集まりなのである。
それが不思議な感覚ではある。おじさん、見入ってしまった。

そういえば、小倉駅前のビルにコスプレ店があり、またそこにマンガミュージアムも8月、
オープンするという。伸るか反るかである。
5月19日(土)宮崎大治郎個展
博多新天町の「ギャラリーとわーる」で宮崎大治郎さんの個展を見る。
上下に反復する線が見えなくなるくらいに面と化し、より矩形が実体として現出しているようだ。
艶っぽい青紫が染色のようでもあり、線の重層はリミットなきマクロからミニマルへと向かう。
見え易くあろうとしながらも、その実は難解とも言えそう。

5月19日(土)コスプレ衆
小倉城の新緑の庭というか広場でコスプレ大会やってた。
若い男女がアニメのキャラになりきったつもりでぞろぞろ。
学芸会?仮装行列?ぐらいにしか見えないところが、まだまだか。
忍たま乱太郎ぐらいは判ったが、ついて行くのもむずかしい若者の文化。
城下の空き地にはテント劇団が小屋ぶっ建てていた。
”劇団どくんご”の全国巡業公演”太陽がいっぱい”である。
昔々、赤テント、黒テントがあった・・応援したくなる。
一人の劇団員が囲いの暗幕を全開して声を張り上げ稽古を始めた。
テント劇団特有の発声法がここにも受け継がれている。
庭園に響き、城の大きさに負けじとの懸命の姿にも見える。
その前を観光客のように、スーツケースを引いて、普段着に返ったコスプレの一団が帰って行く。
その頭上には、堂々と小倉城の本丸がそびえている。
5月6日 京都国際マンガミュージアムへ行く。
2006年、京都市と精華大学が小学校の跡地をミュージアムとしてオープンしたという。
小学校がそのまま使われているところがイイ。
マンガの資料といってもマンガ本であり、マンガ喫茶のようでもある。
青少年500円の入館料払って、たくさんの教室でたくさんの青少年が気ままに
マンガ読んでる。マンガ図書館だな。
再入場は自由。
一階フロア―では精華大OBがマンガを描いたり、コンピューターで描く
マンガを青少年に指導している。
講堂ではアマチュアバンドのアニメソングコンサート。
校長室には養老孟司館長の写真がある。
教室では紙芝居が子供たち大受け。
紙芝居のおじさんが、ストーリーめちゃくちゃな現代版桃太郎をやっているの
であった正しくマンガにちがいない。
雨も上がり、人工芝のグラウンドでも寝っ転がって読んでる。
あたいも芝に寝転んでスケッチしようと。
外国人の男女も多く、真剣に観覧探索して、英語版を見ている。
特別見るものはなかったけれど、この現状がおもしろかった。
美術館ではないんだ、しかし表向きには写真撮影禁止。
5月2日 松原由佳 Sickマジック展ギャラリーシルクロ 5月2日〜5月12日)    
このところ個展の度にSickといサブタイトルを付けられる。
”シクシク泣く”とか、自身の身体とを重ね合わせていらっしゃるのだろうが、
爆走的なパワーが圧倒的である。
現代における”歯に衣着せぬ”といったなり振り構わぬ表現が魅力である。
下地だけでも抽象作品のようでおもしろいのだが、その上に愛する花をはじめ、
唇、眼、指、蝶、化粧瓶、グラス、貴金属などが一見、無造作に散乱する。
下地を生かし、クレヨン、アクリル、ポスカ、化粧剤など着色可能なもの
ならなんでもござれといったところで、荒々しい粗野な画面は男性的でもあるが、
妖し気に女性の芳香が漂う。
乱舞する色彩も制作進行形のひらめきの中で選択され、様々な色彩が
使われきらびやかな海鮮鍋と云ったところ。
ごった煮にをまとめうまく味付けするあたりが、真骨頂か。
他に類なき独創的かつ個性的な表現である。、
以前は、好きな小説からイメージを膨らませてあったようだが、
最近は、花、女性の顔、化粧品が中心を成すようで自身の投影にも見てとれるのである。
黒と赤を基本に色彩が構成されダイナミズムが要素として加わっており、
この先どうなるのかたのしみな人である。
大作5点、花などの小品と以前佐賀新聞に投稿していた芸能人らの
ユーモラスな似顔絵など、過去10年間の極一部の作品・38点。
他にも作品絵ハガキが8枚セット・¥1.000も販売されてる。
5月1日 水彩画4人展(村岡屋ギャラリー5月1日〜5月6日)         
 絵画教室の辻さんと山崎さんが出品されている。
四人それぞれが熱心に取り組まれた静物、花、風景などがスポットライトを浴びて並んでいる。
たくさんのお客さんがのぞきこむように鑑賞されている。
じっくり描きこまれた作品もあれば、さーっと軽快に描かれた作品もあったりと、
いずれにしろ、分身である作品たちは、おめかしし緊張しながらもライトを浴び
お客さんたちの鋭い眼光の前に立つのであります。
描いてたのしむだけじゃなく、作品に額と云うドレスを着せて一度は晴れの
ステージに立たせたいと思うのも親心でしょう。
そんな雰囲気をたのしみました。
描くことが好きだというのが一番。
これからもいろんなものに挑戦して、どんどん描いてください。

5月1日 山崎正之のアート展”竪穴式住居らしきものからピエタまで”
5月1日(火)〜6日(日)ギャラリーアートえる
壁面を余すところなく、いっぱいに作品が飾られている。
吉野ヶ里の竪穴式住居とピエタの写真、コピーを手がかりに一つ一つ大小の作品が作られ、
それらを組合わせて展示することで,あるイメージを現出させようとする
インスタレーションである。
パネルに貼り付け着色されたティッシュは和紙のようにも見え、装飾古墳を想起させる。
基本的には、従来のお経、漏斗谷村の住居を踏襲しており、さらに今回、
吉野ヶ里とピエタをつなぎ融合させようと試みている。
作者がどこに存在し位置するかということは、「人間は・・」という問いと
イコールに重要な問いである。
メモに等しい現実の断片(写真、コピー)をコラージュしてマスキングし、
封じ込め、切り取る作業(時間)の裡にイメージや言語を見えるものにしようと
いう方式を取っている。
お経はすでに文字の範疇を越えイメージを具現化したものであると言えなくもなく
、経典なのである。
創造者には膨大な時間の集積や痕跡は空気や時代でさえ、現代よりも揺るぎない
本質的なリアリズムを感じるものである。
丸(円)は太陽でもあり事象を写し出す鏡にもなっている。
住居のイメージは作者の場合、漏斗谷村の住居とも同じく見上げる屋根の
天井裏にあるようで、場所ではなく雨露をしのぐ屋根であり、洞窟へとつながる。
住居を覆い隠す天空うの覆いは、現実の断片をニスでコーティングしたり
マスキングする行為そのものにも見えて来る。
今回、ヒモや糸が来光のように放射状に挿入され新たな味付けとなっている。
単につながり、絆と見てもよかろうが、関係性の説明(ジョイント)、露出と云うべきか?
もちろん難が無いわけではなく、けれど50男のやる気、勇気、元気は本気である。
その羅列にも見える個々の諸々をつなぐ装置が画廊空間でもあった。
今回も再び、アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言(巖谷國士訳)」の一節。
「親愛なる想像力よ、私がおまえの中でなにより愛しているのは、
おまえが容赦しないという点なのだ。」
4月22日 ワンピース(ONE PIECE)展(森ビル56階、森アーツセンターギャラリー
観覧チケットはすべて日時指定の予約制。
それでも、長蛇の列。」
エレベーターで56回まで運ばれ、30人単位で随時入場し、部屋を移動するが、
後戻りはできない。
子供から40代前後の人たちばかりで、熱心に見入っている。
原作者・尾田栄一郎さんのペン画、カラーの原画、そして先端の映像と
ファンじゃなくてもたのしめる。
観客はWOOOとただ呆然。
表紙などに使われたカラー原画は緻密で美しい。
云うまでもなくマンガは文化であり、最先端の大量集客アートである。
4月6日
原田泰治の世界展(4月6日〜5月6日 佐賀県立美術館 佐賀新聞社主催)
の会場式に行く。
美術に造詣の深い中尾社長はデジャブをよく使われる。
美術館長は新しく女性のかたであった。
原田さんはお見えでなかったが、4月22日のサイン会には来場するとのメッセージが
披露された。
中島潔展、安野光雅展につづく故郷シリーズの原田泰治の世界展である。
原画を見るのは初めて。
キャンバスと紙にアクリル絵具で描いてある。
丹念な描写で、色彩が無垢に明るい。
幼少期の世界観であろう。
なつかしい風景の中に遊ぶ子供、働く人々、農作業の機械、物を売る人らが、
風景の一つとし大切に挿入されている。
風景の中に人や作業機械が精細に描きこまれている。
雰囲気ではない。どんな道具を使い何をやっているのかという生活そのものの
実写とも言える記録に近い。
原田さんとしてはなつかしいとかいう風景ではないのである。極当たり前に人と
共にある風景であるにちがいない。
そこがまた他の画家さんたちと違って、なつかしいからでもなく心地よいのである。
描法としては、線描、点描であり、塗るという面的筆致は基本的にはない。
線描、点描がどこかに山下清の作品と重なっても見え、山、森の表現においては
は奥が深く、ルソーの森のようなすご味がドーンと鎮座して、人の営みに
寄りそうスケールとしての神々しさになっている。
絵画としての強さを内包するイラストと言えば失礼だろうか。だとしたら
イラストたらんとする絵画である。
3月30日 栗山奉文個展(3月27日〜4月1日 村岡屋ギャラリー)
岩のくぼみや溝をリアルに描いてある。
山ではなく海岸の岩らしく、浸食された溝、裂け目ということになる。
”狭き門より入れ”というのか、何かしらその奥を覗いてみたくはなる。
岩の裂け目に洋梨やグラスが置かれており、背景は漆黒の闇。
静物画ではあるけれど、シュールな一種のディペインズマンを装う。
平面が風化するのか、くぼみが増殖するのか?
地面(平面)に同化するようなバラの作品もある。
物体も厚みがなくなるほど平面に近づくが、その狭い距離感の世界ということになるようで、
マクロはミクロ、ミクロはマクロという二律背反がイコール現代ということになるのだろう。
日本人ならではの節穴とか古い板目を訳もなく凝視していたという記憶も局部であって、
遠い時間を見ていたということになる。
直接的ではないにしろ大震災の意味合いも重ね合わされているようだ。
「穴はふさぐものである」とサルトルは云う。
存在と無。女と男。
ミニマルに向かうか混沌とおもしろくするかという命題が沈潜する。
3月27日 川本太郎・パン皿展
夕方、Gイバへ川本太郎さんの「皿展」を見る。
小石原焼きの流れをくむ白と黒の器。
杉板の上に置かれており山草が生けてある。
古民家の間仕切りと白壁を計算した展示である。
全体としても美しい。和の演出である。
底の浅い皿ではあるが、深さをいろいろと変えてある。
日常の雑器ではありながら品がある。
作者の品性であろう。
3月25日 東島毅展
東島毅展を見に上野の森美術館にいく。
画廊スペースにおよそ5m×3mのタブローが
壁とコナーに3点立て掛けてある。
巨大な鉄のモノリスと言ったところだ。
それとコーナーににガラスと鉄のオブジェ。床にもガラスのオブジェと壁に紙に描いた油彩作品1点が掛かり、計6点の作品で構成される”遮るもののないことについてーanother "である。
会場に東島さんはいなかった。
1960年佐賀県武雄市生まれ。
佐賀大のころは普通に「凧揚げ」などを描いていた東島さんだが、今では日本を代表する現代アーティスト。
彼に続きご当地からも国際的に活動するアーティストが徐々にだが続いているという状況は刺激的なことである。
3月22日 さが行動展
県立美術館4号展示室。50号、200号の大作がずらりと並ぶ。
皆さんじっくりと取り組み自分の世界を表現されている。
杉光政美さんの「黒い雨」の黄色は何か叫んでいた。
塚原康子さんの「鼓動」は分裂融合する生命体がダイナミック。
野田和弘さんの「風の通り道の関係」「祈り」は角材、板による立体。白く塗装されてた立体は光りの中でグレーに変化する。
野田さんはさらに展示空間を取り込んだインスタレーションに向かったらどうかとも思った
3月17日 田中忍展
玉屋では嬉野一位窯の田中忍さんの焼き物展を見る。
1962年生まれで師匠は父の故田中一晃である。
白磁に紅や淡いピンクで草花、うさぎ等がデザイン化されておりかわいい。
白磁の白と絵柄とが調和して引き立つ。
3月17渡辺浩二の彫刻展(ギャラリーシルクロ)
箱型の壁掛け作品が多い。
遊び心もある現代彫刻。
3月9日(金)享保雛
前の野中烏犀園さんに古い時代のお雛さんが飾ってあるといので、見に行った。
お店の土間に天井につくぐらいに古のお雛さんが並んでいる。
見学者はボク一人。
事務所の女性の方が説明して下さる。
そこへ大奥様が「あら大次郎さん・・」とまた説明して下さる。
今度は源ちゃんことご当主の源一郎さんが登場。
また説明を聞く。
300年前の享保のお雛さんであり、佐賀では最古のお雛さんとのこと。
お屋敷お店はさらに数十年古く、お雛さんが似合う訳だ。
それにしても傷みも色落ちも少なく立派なものだ。
享保の時代の人たちもこのお雛さんを見ていたのである。
三人官女に五人囃子そして闘鶏をする男たちや煙草を吸う篭役もいる。
風呂、井戸、様々な厨房道具も飾ってあり、300年前と今日の生活がそれほど変
わらないことが判る。
30年に一度の雛飾りで源一郎さんも二度目だと・・。
そう言えば、30年前見た記憶がある。
当時佐賀にいたK高さんが取材をした時にいっしょに見せてもらったが、その時は
お座敷に飾ってあり一般には公開されていなかった。
もう三度と見られまい。
大奥様に呼ばれ座敷に上がると床の間に立ち雛の俳画掛け軸が飾ってあった。
金と赤と青が全く色あせしてない見事なものである。
尾形光琳の頃の「抱一」の作です。絵描きさんには是非見て欲しくてと、誘って頂い
たのだが、作者も知らず失礼つかまつった。
今回、青山の根津美術館から調査見学に見えたとのこと。
家に戻りインターネットで調べる。
酒井 抱一(さかい ほういつ 江戸時代後期の絵師、俳人 )
尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に
翻案し江戸琳派の祖となった。とあった。改めてすごい。
3月7日(水)豊島アート
讃岐うどん食べて、高松から小型のフェリーで豊島(てしま)、犬島に向かう。
乗客は20名ぐらいいただろうか。
女性パイロットが見える前列右側の席からスケッチをする。
港を出て15分ぐらい経ったころ、突然、後方からドタバタと船員が「エンジンを切って  
と」走って来た。女性パイロットはエンジンを切った。
後方デッキで人が落ちたのか?と振り返ったのだが・・。
船員は「エンジンが火を吹いてる」と消火器を取り、血相変えて後方へ走り去った。
そこでスケッチを止める。
正確な時間は確認してない。
乗客は何事かと、まだきょとんとしている。
内心は焦っているが、現実にはどうしていいかわからず、平静に見える状態なのだろう。
フリーズと言ったほうがイイのかも。
フェリーのスタッフの緊急の指示も何も無い。
前方右側面からもうもうと煙が上がって来た。
一触即発。板子一枚下は地獄(海)。
座っている直ぐ前である。これはやばい!!緊張が走る。
下部の席から上がって来た無精ひげにジャージー姿の男性が乗船客に向かって
「(島の)駐在です、座席の下に救命具がありますので、着けて下さい」指示を出した。
そこで、やっとお客は事態を察知したようにセーフティージャケットを着けるのであった。
黒煙が室内にも漏れてきたので両サイドのドアをクル―が全開した。
波と風でフェリーは左右にこの葉のように大揺れするので、それがまた怖ろしい。
クル―は男性3人と女性一人。
ケイタイで救援の連絡を取っている。
消火を終え、クル―も落ちついたのか、この船が沈没することは絶対にありませんので、
安心してください」と連呼した。
周辺を往き交う船やフェリーは多い、そのうち一隻の大型船が救援に来てくれたが、
消火も済み、会社の船が迎えに来るから、ありがとうと合図を送っていた。
大型船のクル―たちの大丈夫か?という笑顔にいくらかほっとして、お客は
セイフティージャケトを脱ぐのであった。
年齢の割にはよく働いていた「船長」と呼ばれる高齢の男が、一人ぶつぶつと「
こんなことは前代未聞だ」しばらくしてまた「前代未聞だ」と??
30分ぐらい海上に漂い、会社の救援の船が来てフェリーをロープでつなぎ
高松港へと曳航した。
一つ間違えば大惨事になるところであった。
あの船員が異常に気付かなかったとしたら・・。
エンジンが爆発していたとしたら・・と。
新しく用意されたフェリーに降りる人もなく全員が再び乗り込んだ。
今度も運転席の横にいたがスケッチはしない。
パイロットの男が前の席はは波の振動がきついですよとうながし、おもしろくもあります
がと付け加えた。
ふしぎなもので大変な目に遭わせられたのに、仲間のよな気(ストックホルムシンドローム
?)になるものである。
異常に気付き船上を飛び回り活躍した船員が金庫を下げて全額¥1300の払い戻しをして
まわった。
ジャージーの駐在さんは「それはいけない・・」と受け取らず、船長と呼ばれる男と談笑し
ているのであった。
おかげで、犬島へは行けなくなったが、1時間で豊島に着いた。ここで降りることにする。
「ご迷惑をかけました」と下船を見送るクル―にお客は「ありがとうございました」と答え
ていた。どこかで東北の震災が重なっているような・・。
駐在さんはサンダルですたこらと真っ先に漁村に消えて行った。
漁港の前にある唯一のカフェでハヤシライスを食べる。
このカフェも民家を外内と全面的にカラフルにデザインされている。
海外アーティストの作品のようだ。
カフェの二階から漁船の停泊する港が見え、船で作業する老人に土地の老人が一人
二人と寄って来て、ジェスチャーを交え指をさし、どうやら漁業の話をしているようだ。
その周りに今度は猫が3匹寄って来るのであった。
さっきの事件がまぼろしにもおもえたり、どこでも人は交わり生きている。
豊島にもアートが点在するが、シャトルバスで取り敢えず豊島美術館(¥1500)へいく。
海の見える高台の真っ白なドームである。
内部は体育館ぐらいの楕円のコンクリートのドームであり、大きな穴が二つ空いており、
外光も風雨も入る。床全体から水滴がにじみ床面を転がる。
ターミネーター2のエイリアンのように水滴が流動して一つにまとまり大きな水たま
りになったり、と変化する。
それだけのドームが美術館でありアートになっている。
ただ、監視員が邪魔、目ざわり。
島をただ歩くだけの一刻一刻に生気が沸く。花粉と風邪のもうろうとするパニック状態
が逆に作用している。
やっと来たバスを貸し切って港へ、フェリーに飛び乗り1時間、岡山の宇野港に着く。
電車を待つJR宇野駅のホームにメロディーだけの「瀬戸の花嫁」が流れる。うん、イイ曲だ。
3月6日(火)アートアイランド直島
玉野市の宇野港からフェリーで島々を見ながら20分、
早くもアートアイランド直島の宮浦港に草間弥生さんの赤いか
ぼちゃのオブジェが見え、出迎えてくれているようだ。
シャトルバスで地中美術館(\2000)へ。
安藤さん設計の美術館で環境上、地中に隠してある。
ライトと自然光を取り入れた空間アートの部屋が5ヶ所あるだけ。
しかし、どれも眠っていた感性を呼び覚まし躍動させていく。
体内を体感するような原初的なアートである。
モネの部屋も自然光の織りなす浮遊なトーンの中に睡蓮の大作4点が
幽玄に浮かび上がるふしぎな空間。
モネの睡蓮美術館・オランジュリー美術館にも引けをとらない
空間演出がある。
地上に出られる唯一の場所がカフェ。
お腹も減ったし、天気もよくなり座布団、サンドイッチとジュースをもって
カフェの外へ。断崖の白いテーブルに座り、どこまでも瀬戸内海。最高。
隣のテーブルでも、乳母車を脇にゼロ歳の赤ん坊を抱いた夫婦が海を見ている。
フェリーでも見かけた3人である。
地中美術館から春も近い山道を歩いて10分、李禹煥美術館(無料)。
とはいっても鉄板、岩が置かれ、コンクリート支柱が立つ野外展示スペース。
ものとものとの関係性を一貫して問うてきた作家である。
ものは派の代表のように云われる人だが、ものとの関係の時空に見えて
来るものは原初的風景ではなかったかとおもう。その復権は、極当たり前の
コンセプトとなった現代と同義語であろう。まさしく李禹煥である。
再び歩くと春一番の海岸に出た。陽が射しまぶしく島々と瀬戸内海。
この眼前の風景のように極当たり前に、普通に、消えるように李禹煥の
作品はある。
ただ存在とも調和とも云えぬ危うさが、禅的な東洋的自然観として印象深い。
海岸線には様々な作家のオブジェが置かれ歩行をたのしませる。
佐賀空港周辺にも何のコンセプトもないまま、開港当時より数点の
野外オブジェが
置かれていおり、気づく人もいないくらいに埋もれ壊れている・・!?¥(+_+)
ことがよぎる。
さらに海岸を歩くとベネッセアートサイト直島を主導した福武總一郎氏の 
ベネッセハウスやコンテポラリー美術館のある公園に出るが、時間がな
く美術館をパスして、
バスにて本村の家プロジェクトへ。
大竹伸郎の「はいしゃ」(¥400)は元歯医者の家をさびたトタンなどで廃舎
にしてある。
それを見届けててバスにて港にもどりフェリーで香川の高松へ向かう。
下調べもなく、思いつきで来ただけに「残念」が多く、いつか、改めて来るとしよう。
3月2日(金)バンクーバースケッチ
佐賀新聞に月一回掲載されていた池田学くんの
「バンクーバースケッチ」が本日をもって終わった。
彼も忙しかろう。
迫力の絵と軽妙なエッセイが毎回たのしみであった。
バンクーバーを多面な視線で浮き上がらせていた。
本日のスケッチは港に映るバンクーバーの夜。
そしてそこに一時帰国して訪れたという陸前高田市の
あの一本松をぶっつけていた。
対照的な風景ではあるが、場所として生きようとする人が
存在する限り同等の位置にあるということだろう。
忙しかろうが、元気にやろう。
2月26日(日)亀冶郎さん
歌舞伎ファンのN子さんに誘われて、博多歌舞伎座へ。
市川亀冶郎さんの「通し狂言 天竺徳兵衛新噺」千秋楽。
亀次郎さん出づくめ、七変化十変化の早変わり、アドリブ、 
宙吊りとサービス満点。
花道の席は往き交う役者さんのすね毛や息づかいまで見てとれ、
観劇気分がアップする。
歌舞伎と言えば「見え」。
動きが一瞬静止し、指を反らし、かっと目を見開く。
写楽の役者絵が浮かぶ。
顔面力、目力、首力、手力、反り指が、さらに舞台を盛り上げる。
非日常的であればあるほどお客は喜び、動物的であればあるほど
、「上手い」という。
それを役によって怪人二十面相のように使い分ける。
身体、筋肉が露出するモダンダンス、前衛舞踏にしても非なる人間、
動物的方向へと向かう。
人間と動物のはざまにまだ見ない、拒否もするけど、見て見たい
共感の人間(感性)が潜んでいるのであろう。
千秋楽とあってカーテンコールまであった。
花道に亀冶郎さんら主演者が勢揃い。角から隅まで見えを切った。
市川右近さんが市販の「ウコンの力」をぐっと花道席に差し出し、
普段の声にもどって「ありがとうがざいました」とここでは役を降りてた。
亀冶郎さんは緞帳の中に消えるまで役者として見えを切り、
お客をよろこばしていた。
2月21日あ(火)靉嘔 展
地下鉄・清澄白河から深川町、三好町を歩く。
歩く人もなく、車もあまり通らない。
印刷所、材木店、タバコやの角を曲がれば我家かなと
いうどこかなつかしいダウンタウン。
15分ぐらいで大通りの公園に出た。「木場公園」とある。
木場で降りてもイイわけだ。
保育園の子らが公園の林の下で遊んでいる。
子供が遊んでいるだけで、すぐにここはイイところだと
決め込んでしまう。
公園の北側に縦に長く東京都現代美術館が見える。
入館するとロビーフロア―がハイウエーのように一直線に
伸びる。
1995年開館というだけに建築的にもモダンで立派である。
「靉嘔 ふたたび虹のかなたに」展を見る。
回顧展である。初期から今日までの大作がずらり。
画面いっぱいに人々が足を上げダンスする「田園シリーズ」
からレインボウに到達。
水を得た魚のように延々とレインボウを作りつづけ、最近は
文字やシミがレインボーカラーとなってどこかマチスのようだ。
1931年生まれというから81歳になられている。
虹のかなたはどこまでもということのようだ。
靉嘔 展を熱心に見る小学生の姉、弟そして母親の親子があった。
見ると言うよりは鑑賞しているのだ。母親も説明はしない。
うれしそうに三人とも一点一点をゆっくり見て行くのである。
からして、ボクのスピードと同じになる。
体験できる”瞑想ボックス”や”暗闇のラビリンス”にも弟から
順番に挑戦する。
レインボーのダイニングルームが設営されているのだが、
お姉ちゃんがその前でスタッフ

から借りたボードと鉛筆を手にスケッチをはじめたのである。
長いこと取り組んでいた。
それを見たアメリカのお兄さんが声をかけエールを送っていた。
そして、《レインボー・エンヴァイラメントNo.7レインボー・タクティル・ルーム》
を最後に
幸せそうに帰って行ったが、暗闇のラビリンスを出たところでの写真撮影も
作品となっており、きっと靉嘔さんの目に留まることだろう。
また、同時開催の「田中敦子−アート・オブ・コネクティング」を見る。
具体をはじめとして、日本の戦後現代美術で活躍。
田中敦子(1932−2005)さんも革新的エネルギッシュな作家である。
カラフルな電球と配線コード、円の組み合わせ、円そのものと、どこまでも
進化し続けている。
草間 彌生さんにも似た強靭さには男たちも吹き飛ばされそう。
美術館を出て隣の木場公園のベンチに座った。
モチノ木の下にあるベンチは、赤い実を食べたヒヨドリの群れが糞を落とし
真っ黒
になっている。
だれもいないフィールド。その周りのベンチにはぽつりぽつりと人が座
っている。
コンビニ弁当を食べている人。本を読む人。ただ南の空を見つめる男性。
ベンチに座るのに理由はいらない。背負うもの重ければ座りたくもなる。
乳母車を押して親子が登場。
幼児二人が木の枝拾って、走ったり、また、何か拾ったりして地面と
遊んでいる。
お母さんも「わたしもいれて・・」といっしょに走り、そして地面に何かを
見つける。
空白のフィールドに突然、活き活きと日常が再生されるような。
アンリ・カルティエ= ブレッソンである。
鞄から昨夜コンビニで買っていたメロンパンとりだして、セロハンを破り
、一口。
あごの角度はギリシャの彫像。
灰色でも空がまぶしい。
空の下。並木と地面の間の白い空間に走る長距離ランナーを挿入
してみたくなったり。
2月19日(日)ポロック展
ポロック展(東京国立近代美術館 2/10〜5/6mまで)
地下鉄の竹橋を地上に出ると春のようなイイ天気。
ぞろぞろと皇居の外苑をランニングする人々にはおどろき。
竹橋を渡ると近代美術館。大きなポロックの看板が迎えてくれる。
印象派画家の展覧会のような込みあいはないが、たくさんの鑑賞者である。
現代人の感覚なら、抽象表現が解からないと言う前提も必要なかろう。
圧倒的に迫り、ふわりと抱擁する人間同志の会話がある。
オートマティズムなドロッピングが意志を持った生き物のように。
力強さは苦悩に通じ、天才と病人のあいだを往ったり来たりする。
苦悩の中から生まれたドロッピングは、シュルレアリズムの自動書記法
にさらに強靭な生命力を増幅させてる。
そして尚 Dig it!なのだ。
朝の外光のようなすがすがしいしい風景である。
イランの大富豪が所蔵するという世界でも初公開の「インディアンレッド地
の壁画」がそれだ。
夜、新宿西口の居酒屋にいたら、右斜めの顔の会う席にサッカー日本代表
のOアさんが笑顔で日本酒やってた。
2月6日(月)真子達夫回顧展
午前、真子達夫回顧展の搬入、飾り付けに県立美術館へ行く。
10数名の助っ人がいらして、午後にはすべて見事に完了した。
「パイプシリーズ」およそ30点と「叢」「自然破壊」「生きる」シリーズなどの
30点が並ぶ。
過ぎ去ろうとする一つの時代を体感できる展開となっている。
そこで何が起こり、何をしようとするのだろう。
一人の男の絵画への執念と生きざまがふつふつと沸き上がる。

夜、某所にて汗流し会。話は尽きなく朝となる。

1月20日(金)野村昭嘉+眞子達夫
野村昭嘉展(1/19〜2/19 県立美術館)。
1991年、不慮の事故によって26歳という若さで亡くなった。
過去か未来に何処かで見ていたような物体のある風景。宮崎駿の
「ハウルの動く城」にも通じる幻覚がある。
ひび割れし剥離した壁画を切り取ったような作品である。
佐賀北高校では美術をやらず、卒業後、東京の研究所などで美術家・
吉田 克朗氏や菊畑茂久馬氏に習っているところに注目する。
その後一気に才能を開花さし、独自の様式スタイルを確立し、
将来を嘱望されるのであったが・・。
尚2月7日からは諸富中学時代の恩師にあたる眞子達夫さの回顧展も開催。
森羅万象、師弟が出遭う。
1月8日(日)めでたい展(シルクロ)
昨日土曜日は展覧会を二つ見ていた。
「めでたい展(松原川沿いのギャラリーシルクロ)」
四十数名がサムホール二点を出品しており、90点はあったのではないか。
小さいながらも力作であった。
かつて、宮崎市の商店組合主催のサムホール展の審査をしたことがあった。
賞金は20万円だったかな、それでも50点ぐらいの出品ではなかったかと思う。
一席が4回連続で同じ人だったと聞くがまだ行われているのだろうか。
川辺の梁でアユ料理を関係者や一席の人といただき、ちょっとした小旅行
であった。
骨付き丸切りのアユの刺身は生臭くきつかったことや、プロ級の一席の人に「
プロになったら・・
」と云ったことが思い出される。

1月7日(土)黄美展
「黄美展(唐人町の桃の蔵ギャラリー)
小城高OBの新年恒例のグループ展である。
古い質屋の蔵だけに、むき出しの柱や梁の重厚な壁に大作の
力作が並ぶのは見ごたえがある。
金子剛さんの「凧揚げ」はかつての正月の風景であり、古き良
き時代の家族の在り方でのあると同時に金子さんが得意と
する題材だけに味わい深い。
中尾和紀さんは正三角形のキャンバスにジャズとコラボする
ライブペインティングを勢いよく活写すること昇龍のごとしである。
林田龍信さんの「生命ある器」はトノサマバッタの墨による素描で、
簡潔な色と画面構成がシンプルであることのよさを改めて感じさす。
金子照之さんのCG作品は龍の表皮のようなテクスチャーがCGで
再現してあり、油彩画の中にあっておもしろい存在である。
新年からイイものをみせてもらいありがとう。

1月1日(日)漁港
新年あけましておめでとうございます。
青空とはいかなくも風のないおだやかなお天気。
ご近所に人や車の気配もない。
正月ならではの静けさである。
祝賀の前に外の空気をと、今年は海へ向かう。
海といっても干潟の有明海。戸ヶ里漁港である。
無人、無漁船の漁港かと思いきや、たくさんのトラックがあり、漁船が行き交ってい
るのであった。
初仕事というのだろうか、海苔摘みが盛んのようだ。
気がづくと隣に海苔タンクを積んだトラックが停まっていた。
顔が遭い、運転席から高齢の漁師のおじさんが会釈をする。
そして、漁船のチェックをしただけで帰って行った。
たわむれるように潮が満ち始めている。
瞬間、曇天の空と海が明るくなる。
雲の切れ目から太陽が顔を出した。
その位置はもう中天に近い。
沖合から次々に真っ白な波しぶきをあげて勇壮に漁船が戻って来る。
メタリックな水面が重厚にうねり、桟橋で波とはじける。


2011年
12月28日(水)たけしのアート☆ビー
「吉田類の酒場放浪」が最近やたらとかかっている。
それを見てるとついつい呑みたくなる。
いつか、品川のその店にいったが、逃げ出したね。
愛想なく、まったく楽しい雰囲気じゃなかった。
やはり、テレビなんだ。
「たけしのアート☆ビート」も見ていると、どれもやってみたくなる。
たけしが選考しているのか判らないが、子供がそのまま大人になった
ような連中ばかりが登場するところがイイよね。
爆薬・花火の蔡国強やゴミをアートに変えてしまうクリスチャン・ボルタンスキー
はイイ。現代のダビンチと言われる風圧で動く巨大ビーストのテオ・ヤンセンは別格。
大人の方が子供よりたのしんでる。発想はどれも悪ガキの遊びだね。
12月21日(水)石川県立美術館の裏口
それで、長居は無用と和倉を逃げるように電車は走った。
再び金沢にもどり又バスに乗る。
二度目となると、勝手知ったる何とかのように地理も頭に入り、戸棚の奥
の路地裏まで難なく探し物を見つけてしまうようである。
金沢は広いようでも金沢城を中心に広がった町なのである。
それが判ればバスが便利な動きやすい町である。
本日も小雨であるが、21世紀美術館のほぼ前方の奥にある石川県立美術館に
行く。なのに何も見ないで、ロビーのカフェ・パティシエに入ってしまった。ガラス越し
に見える雑木の森が気に入って。
先ほど美術館までその裏山を上ってきた。細い小道に沿って滝が流れる美術館の
入り口など観たことない。
兼六園の外側に辺り、文化施設が多く遊歩道となっているが、すれちがう人さえなく
、満足。時期外れなのであろう。

12月20日(火)21世紀美術館
金沢駅の食堂で和定食(¥500)を食べる。
ボリュームもあって美味しいのだ。
外人さん二人も定食を平らげ談笑していた。
その前に行かねばならないところがある。
バスにて兼六園そばの広坂下車。
前に兼六園、左に前方に金沢城公園を臨む角にある21世紀美術館である。
総ガラス張りの円形美術館。

12月20日(火)子供より自由なピーター
「 押忍!手芸部 と 豊嶋秀樹」「ピーター・マクドナルド: 訪問者 
ディスコ」「モニーク・フリードマン展」などが開催中。
エキセントリックなファッションの押忍!手芸部の部長がミシンを
小脇にレコード盤を縫いながらピックで
ギターならぬエレキミシンをギュワーン、 ギュイーンと「みなさん
にはうるさいかもしれませんが、音が出るのもたのしいものです」と弾きまくる。
「うるさくないよ。おもしろい。コノヤロー」
巨大テントに扇風機くっつけて、内部のビニールが膨らむかとおもえば
、軍手を使って様々なグッズを製造する。それもエレキミシン弾きながら・・。
何でもかんでも作っておもしろがってる。そこに共感もある。
ピーター・マクドナルドのディスコはこれまたおもしろいたのしいばかり。
ギャラリーの壁面がすべて光学的カラフルポップにペイントされている。
うーんと唸るような鑑賞はなし。観客がディスコ空間に取り込まれ身ぐる
みはがれるみたいにカイカーンなのである。
それにピーターの部屋だけが写真、ビデオ、接触もOKと先端を行ってる。
若いイギリスの作家だそうだが、もう一度生まれ直したくなったよ。
市民ギャラリーでは海外と交流する小学生の大作品がたくさん展示してあ
るのだが、型にはまった不自由な絵に見えてしまうのであった。
出口で教師らしき人たちがそのカレンダーを買うよう勧めるのであるが、
そんなことよりもっと自由はつらつな図工やってよと先生に言いたくなったが、あほらし・・。
大人のプロがいつまでも子供なんだねと・・。

12月18日(日)新潟県立近代美術館
初雪に長岡はすっぽりと覆われている。
道路は地面から地下水が噴水され人も車も通れる。
それもタクシーの運転手さんに言わせると積雪15センチ以上になると効果がないと。
信濃川に架かる長い橋を渡ると新潟県立近代美術館である。
地図で見るよりは意外に遠かった。
雪の中を多くの家族がマイカーで訪れている。
「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」
種田さんは「スワローテイル」「キル・ビル」などいろんな映画の美術を手掛
けている人である。

12月8日(木)真崎太仁子個展
真崎太仁子個展(村岡屋ギャラリー)。
心象風景、風景、静物などがブルー系からレッド系まで多彩な表現スタイルである。
器用なだけに、いろんなことをやりたいのだろう。
本命は重いブルーの大作。
都市の裏側、断片が文学的に現代に不安として切り取られているようである。
シュールな心象的風景と言うべきか、突破できない都市の構造に風穴を開けんと
悪戦苦闘している経過が重層する筆致となって見てとれる。
異色な実験的作品もあり、貪欲な制作意欲が会場を沸き立たしている。


12月8日(木M展
山田直行先生と仲間たち「M展」(県立美術館画廊)
10人が大小様々の水彩絵画と焼き物陶芸。
直行先生は「YOSHI」「雪のマッターホルン」と水彩画。
増本ナオタカさんは焼き物オブジェ、抹茶碗と油彩画を出品。
高畠輝明さんの水彩画は日本画風に変化していて、
白い雪が素敵に陽に輝いていた。
松原由佳さんは画廊の壁四面の一面に自身の40号作品を13点並べ
、個展とも見える緊張感が、他者とも融合し、たのしいグループ展である

12月6日(火)ファンタスティックな野郎たち展
「ファンタスティックな野郎たち展」初日。
過去5回はオーバ夫人の御好意に甘えていたが、今回は出品者で当番をする
ことになった。
自転車でギャラリー久光に向かう。
ゆらりゆらりと気持ちがイイ。
11時に到着。11時オープン。
すでにオーバさんが来ていて、全作品のキャプションをつける。
ダバダバダバ〜、大型バイクがギャラリーに横着けする。
最初のお客さんである。全身アールブラックに決めたMさんであった。
ぽつぽつとだが、途切れなくお客さんがある。
コスモスクラブの18人がみえたときには満杯となった。
3時に中尾さんとバトンタッチ。
11月27日(日)津軽三味線の三人
電車で博多へ行く。
「オペラ座の怪人」ロンドン公演の映画がすばらしいとR子さん
に誘われ、三越ライオン広場で待ち合わせ。
ちょうど、広場で津軽三味線の若者3人が、演奏をはじめた。
音楽教室の若い先生とその弟子とその弟子の奥さんの3人
であるが、オリジナル作曲が多く上手いし聴かせ、満場の
観客が広場をうめた。
師弟奥さんとギター、シンセサイザーを組み合わせた現代的な
三味線はかっこよかった。たいへだろうが、好きな事を一生懸命
に出来る仲間いるって、イイよね。がんばれ!である。

11月25日(金)佐賀県展
県展の洋画部門を見る。
賞金が掛かっているだけに、意欲作が多かったようだ。
狙い過ぎてコケてしまったという若い連中も多いのではないか。
若者の台頭は無く、じっくり取り組んだベテランの受賞となった
ようである。
イキのイイ作品がないっと審査は堅実な方向に落ちつく。
友人の山崎正之さんが新たな方向展開を見せてくれた。

11月25日(金)塚本猪一郎個展
夜、塚本猪一郎個展とそのパーティーがギャラリーシルクロであった。
版画カレンダーの原本でもあり、延長線上でもあるさまざまのモチーフ、
形体がユーモラスに踊り、ひっかき、消え現れる。
シルクスクリーンと漆喰を基盤にした油彩画である。
線も色も形式にとらわれず自由に解放的になるにつれ、
ネイティブな原初的方法へと向かっている。
何処までが原初でどこからが子供の世界かという問いもたのしい。
削り、彫り、ひっかく、描きなぐるは思考の前の本能的生存感覚である。
作家がどの位置に立ち、どの位置からはじめるかは、不動のようで
常に崖っぷちなのである。
今回のパーティーはごちそうで溢れていた。塚本さんの生徒さんたちが、
準備されたと聞く。ごちそうさまでした。
11月22日(火)渡辺俊美ライブ
寒い寒い夜、福岡からN子さんが来た。
約束の渡辺俊美ライブに行こうというのである。
会場はエスプラッツにあるイタリアンレストラン。
普段は街で見ないようなファッショナブルな若者がどこからともなく
ぞくぞくと集まって来る。佐世保、有田からの客もいた。
おじさんとしては場違いなようでもあり、落ちつかない。
そこへ渡辺俊美さん来られ、「N子さんにはお世話になってます・・
たのしんでください」と挨拶をされたのにはビックリ。
数人のDJから始まり、俳優・荒川良々さんも登場してDJをやった。
バクの和田さんもDJやってた。
DJがガンガン鳴りなる中、人が動き、立ち、座り、ざわざわと飲み食い
するのであるが、佐賀を感じさせない洗練された空気、雰囲気が活性する。
おじさんたちにはほとんどなじみのない名前かも知れないが、
渡辺俊美さんのギターと唄はエネルギッシュでほのぼのと若者を興奮の
るつぼに引きずり込む。
福島出身44歳、MCはほどほどに福島への秘めたるおもいは演奏を
見聴きすれば判る。
福島の唄も多く、故郷福島に足を着けたミュージシャンである。
若者たちは体をゆすりUWOO〜と曲に同調して、最高潮。
この盛り上がりは素晴らしい。
ボクラが知らないところで若者はこんなにも一致団結している。
もどれたら、もう一度、あのころへという心境にもなる。
立ち見もあって、5・60人ぐらいはいただろうか。
若者のエネルギーは熱い。
ライブも終わり外は寒い冬。11時を過ぎてる。
表で渡辺さんといっしょにパチリ。
若い人たちが何を好み何を求めているかなど何にも知らない。
それが判っただけでもイイ。
渡辺俊美さんありがとう。
11月9日(水)キム・ソンス 木彫り人形展
「キム・ソンス 木彫り人形(彫刻)展」松原川沿い
ギャラリーシルクロ。

韓国の葬儀の棺を飾った伝統的人形のイメージから、
現代風にアレンジされてる。韓国でも売り出し中の現代作家・50代。

以前は西洋的表現にどっぷりだったが、小さいころに見た
その人形がテーマとして復活、そして、骨董屋で見付けた
というそのオリジナルが一体会場に飾ってあった。現代的に
アレンジされたカラフルな人形たちも未来があってたのしいが、
オリジナル人形が秘める時間的美しさや品性が薄れているよう
にも感じる。まだその途中でむずかしいところであろうか。
完全に民族性なりを消すという方法論もあろうかとは思うが、
全体に韓国の作家たちは民族性なりを精神的に背景に、根本に、
下敷きにしている。
日本や中国は前記に近いが、単に歴史の違いと言うことにはならない。

どちらがイイということでもない。
作品を現代的に解放しようとする時、歴史的民族性らが重いがゆえ
に避けてはいくが、リキテンシュタインのドットにしてもクリスト
の梱包やゲートにしても歴史、民族性の表出に他ならない。
夜、そのキムさんのオープニングパティーがおごそかにも華やかに
ひらかれた。たくさんの人たちが会場を埋め、キム氏が作品の解説をした。
例の九産大OB作家5人も来て、なごやかな交流となった。
場所をGイバに移し、深夜まで芸術論が交わされた。
白(ペクゥ)の後輩で九産大OBのソンさんは日本語ができるが、
ここでも金(キム)さんが通訳として大忙し。

11月1日(火)菊水堂絵画教室展
今日から菊水堂絵画教室展がはじまった。
絵画教室で描いたみなさんの力作です。
魚、花、風景、静物、抽象の水彩画と油絵の14点。
額に入れると一段と男前(女前?)が上がる。
自分で云うのもなんだけど、お上手、すばらし。
狭いながらも楽しい我が家といったところか。

10月21日(木)モネからウォーホルまで
釜山市立美術館で「モネからウォーホルまで」が開催中なので見に行こう
ということになり、車で街をかき分け、ヘイウンデイの大ブリッジを渡り雨に
かすむ近未来ビル群を見やり、「向こうに見える白いビルがペクゥさんの
マンション・・」ともちろん通訳は金さん。
2度目だが、イイ美術館である。どうして今まで来ていなかったのか・・?
ペクゥさんは釜山市立美術館の選考委員のので、ボクらはフリーパス。
案の定、日本と同じくモネとウォーホルは小さい作品が一点だけ。
けれども、ポップアートの写真でしか見ていなかった作品をたくさん
見れたのはよかった。
若い人たちが多く鑑賞している風景は、いずこもイイ。
未来を感じる。
ビエンナーレが開けるくらいの美術館が九州にも欲しいね。

10月31日(月)フェルメールからのラブレター展
昼過ぎ、仙台に来た。
駅前がすっかり変っている。
幾本もの空中歩道が駅前広場を覆っている。
地下食堂街でビールと天丼をやりながらネット検索すると、
宮城県美術館で「フェルメールからのラブレター展」が開催中。
今日は月曜日だが、期間中無休とある。
タクシーの運転手さんは走りながら、街の説明をしてくれるが、
土井晩翠の生家だけはよくわかった。
広瀬川を渡り、見覚えのある広大な森が見えてきた。青葉山公園
である。
今回はその隣の公園にある宮城県美術館である。
立派な美術館である。ロビーが広すぎるくらい。レストランでは
たくさんの人が食事してお喋りしている。
チケットを買い2階に上がり入場。
ゆったりした空間である。
東北でフエルメール展が開催されるのは初めてのことだと。
九州でもまだ一度もない?
観客で混雑するでもなくじっくり見られた。
これが東京だったら大変だろう。行列になるとにわかに鑑賞欲が消滅し
、一瞬見るに終わことがしばしば。
フェルメールの作品も3点あり、小さいけれど見ごたえがある。
フェルメールはブルーを多用するが、アフガニスタンの鉱物
ラビスラズリを原料としたウルトラマリンとのこと。
かつて新聞に掲載されていた初めてみる見るフェルメールの作品
「手紙を読む女」だったか?に衝撃を覚えたことがあったが、
まだ本物は見ていない。あれは最高だ。
生涯、30点ぐらいの作品しかなく、何者なのかも謎。
贋作も多いというが、よほどの腕がなければ、不可能だろうが、
下手な贋作が本物としてまかり通ったこともある。
フ今回の作品の中にフェルメールに勝るとも劣らない画家の
ファミリーがいた。
フランス・ファン・ミーリス(T)とヤン・ファン・ミーリスであるが、
テクニックにおいてはフェルメールより上かも。
これぐらいクオリティーの高い作品に出遭うともう一度挑戦して
みたくもなる。監視のお姉さんに鉛筆借りてスケッチしていたら、もうこんな時間。
飛行機の時間が迫っている。あわててタクシーに飛び乗り、無事セーフ。
10月20日(木)グローバル韓日作家交流展 
海から見える釜山の街は壊れたすり鉢のようだ。
港を囲む山頂までビル群が林立する。
博多からおよそ3時間、ビートルは釜山港に接岸した。
出迎えはお断りしており、同行者5人は地下鉄でチャガルチへ。
ごちゃごちゃと活気もあれば、ゴミも散乱するチャガルチの
小路を抜けたところの小さなビルの小さな階段を上がる。
S氏、御推薦の滞在宿である。
それも飛び込みである。
小窓を開けるとモンペを履いたおばちゃんが顔を出す。
まるで”ぬかるみの女”のオール金歯のお婆ばである。
一部屋、1万5千ウォン(約¥2000)。
商売気がないのか?、何故かお婆ばは相部屋を進めるが、
一人部屋にする。
部屋は広く、小窓が一つ。風呂も大きくお湯もでる。
大きなベッドと別に二人分の布団まである。
しかし、何か怪しげ。
ホテルのようでホテルじゃなくて、旅館のようで旅館でもなく、
そう、ぬかるみの女のアパートと思えばイイ。
チャガルチ市場の中にあり、安く、便利で、男性にはイイと
ころだが・・。
 作品をもってに地下鉄でソミョンへ行き、食堂でクッパ
(豚汁めし)を食う。これは美味しい。
腹ごしらえをして、再び地下鉄でKBSに向かう。
S氏におまかせで何処の駅だったかは、忘れたが、
KBSに着いた。
日本でいうところのNHKみたいなものだ。
ロビーの一室が今回の会場である。
韓国側の作品は既に展示してあるが、誰もいない。
日本の5人も作品を展示。
KBSの門の方を見ると、スーツ姿の男たちがずらりと並び、
ぞくぞくと入って来る人や車にお辞儀をしている。
何事かと見に行っても解からない。
選挙演説でもあるのかなとホールを覗くと、花輪がずらり。
おばちゃんに「これはなんですか」と手招きでN氏が聞くと、
「私、日本語出来ますよ」と教えてくれた。
トラック業界主催の歌謡ショーで有名な歌手が出演するとのこと。
訪ねてみないと判らない判らない事ばかり。
「グローバル韓日作家交流展」。
前回までの交流展は終わり、白(ペクゥ)さんが新しくやるというので
取りあえず、今回5人が参加した。韓国側も26人こそ集めたが、
見切り発車でこれからという状態のようだ。
しかし洋画が主体だっただけに見やすく、質の高い内容に感じた。
26人中、旧知の作家は4人。
6時、皆さんお集まりで、セレモニーが順次取り行われ、ジュース
とお菓子でのプチ交流パーティー。
作品の前で作品についての会話や説明が多くなされていたのも、
新しい風景であった。
料理屋に場所を移して大宴会にはなったのだが、突然。韓国側は
これからの動向について真面目に話し合いを始め、日本側の
意見も求めるのであった。
まじめな話から一転して、今度はカラオケ屋での日韓歌合戦。
テーブルにはビール瓶、焼酎瓶が釜山の街のように乱立した。
そしてまた、絵の話、アート話が展開し、意気投合するのだった。
通訳をしてくれる金(キム)さんは大忙し大変だ。キムさんなくして
交流も芸術論もできたもんじゃない。
ボクがスケッチをはじめると、曹(チョウ)さんも例の如く人
物スケッチをはじめた。
そして、再びオンステージ・歌と踊りが延々と・・。

10月14日(金)瑛九T
羽田から北浦和へ直行すること電車で1時間20分。
北浦和駅を出ると通りの正面に森が見える。
歩いて5分。その公園の中に埼玉県立近代美術館はあった。
生誕100年記念「瑛九展」
瑛九という作家を知ったのは、当時、池田 満寿夫さんが師と仰ぐ
瑛九のことを美術雑誌などに書いていたのがはじまりで、また、
たまたまお会いしたNHK福岡のディレクター(故)八田昭男さんが、
瑛九の番組を作っているというところから、瑛九を肴に酒が弾んだ
ということもあった。
それでも瑛九については何も知らないに等しいが、ずっと影のように
存在した。
版画家の瑛九だけでなく、その全貌が紹介されるという。
8月に出身地の宮ア県立美術館で開催されたもので、引き続き
、戦後、移り住み没した浦和での開催となっている。
水墨画、抽象画(立体派、幾何学的、点描など)版画、写真など
多岐にわたる表現で掴みどころが判らなくなる。
その中でも写真のフォトグラム、フォトデッサンは自動書記方的な
おもしろさがある。
マン・レイの作品かとおもう。
印画紙に直接描く光のデッサンをフォトデッサンと呼び、そこで使う
道具の型紙、セロハン、ペンライトなども手製である。
戦後は銅版にニードルで直接彫り込むエッチング、アクアチンとの
版画に入るわけだが、その直接表現が池田万寿夫につながるのだろう。
そして、風景や光と影を点描で描く絵画に進むのだが、一体何をしようと
したかったのか?ということはやはり判らなくなる。
激しくも、脅迫的でも、情緒的でも心象的でも幻想的でも内省的でもきれいでもない。
言葉に困るが、頭のいい人だけに観念的と言えるかもしれない。
アバンギャルドな生き方に見えて児童美術教育にも熱心な人だった。
享年48は燃え尽きるには早い。
型にはまらない自由な表現というのを大事にした人であることはよくわかる。
美術館を出ると公園の噴水が音楽に合わせ踊りだした。
子供たちがよろこんで見ている。
噴水を囲むベンチも人でいっぱい。芝生では家族やグループがお弁当を広げている。
秋とは言え、人が集まる公園の美術館である。
10月14日(金)瑛九U瑛九U
北浦和駅前の食堂でなつかしの野菜大盛りタンメンと餃子を食べ
、電車に乗る。一駅で浦和である。
大きな町だが、ごちゃごちゃと昔ながらの下町のにぎわいがイイ。
戦後の佐賀の商店街もこれぐらいのにぎわいがあった。
吉武くんが住んでいるのもこの辺じゃなかったっけ?
人をかき分け商店街を抜けるとサンシャインビルがあって、
その3階が「うらわ美術館」である。
ここでも瑛九展が同時開催されている。
ここには、絵画の他に文筆家、評論家としての資料と
スケッチが展示されている。
若くして新聞や美術雑誌(みづえ)に美術評論を書い
ていたのである。
人類共通語「エスペラント」を広めたり、デモクラート美術協会を設立
したり、版画講習会、美術教育にも熱心で、フォトデッサンには新たな
表現の可能性を見たのだろうが、絵画へと戻り点描を始める。
少ない観客が熱心にメモを取りながら見ている。
観客のくしゃみが室中に響き渡る。
印象派風に描いた日本の風景や人物画もあったが、つらい時期には
ちがいなかろう。光と見えたものが次々と閉ざされ、亜流としての自分さえ
見えだしていたのではなかろうか。往き着くところは点描画になる訳だが、
これまたつらい。
出口近くに紙片にさっと描かれた線と点のデッサンが2点あった。
未来を暗示するようなさっと吹く風のようなデッサンである。
油絵やフォトグラム、すべての表現の根幹にあるものが、瑛九さん
も気づかないこの風のような空間、風のような思想ではなかったのか?と思い
ながら美術館を出たのだが・・。
見え易く判りイイ絵や表現者ばかりではない。
夭折であろうと長命であろうと火と燃えろ!
10月10日(月)草茫々通信3号
「「草茫々通信3号」をいただいた。
1部/佐賀県の炭鉱と戦後文化運動
2部/炭鉱の子どもたち 絵と文 安永健次郎
¥500+税
炭鉱があったころの各地の文芸運動である。
映像としてはいくらでも見ているのだが、今日の姿とはとうてい
結びつかないのが、本音である。あんな時代があったのだ・・
と言うぐらいの。
すべてを同じように、現代の人々は処理していく。
もう、それ以上言うなよというような・・。
ここでも作家のみなさん、当時の労働運動、文芸運動を角度を
変えてさらっとすくってあるように見える。
草市潤さんの「ある紙芝居屋の日々」もそうであろう。
前略「〜私が体にしみて春夏秋冬を生きたのは、この紙芝居屋を
した数年間だけであった。炭鉱の〜」攻略。
と言いきってあるのには、ふむふむ。
10月1日(土)安野光雅の世界展
「安野光雅の世界展」の会場式にいく。
簡単なセレモニーの後、作品を見る。
学芸員の野中耕介さんがおもしろく説明をされていた。
昔々ボクも興味あって安野さんのたくさんの著書のうち「空想工房」
「らんぷと水鉄砲」を読んだことある。飾らないさらっとした文章読ませる。
かつてNHKで安野さんの海外の旅スケッチがあってた。
毎回見ていた。
道端にちょこんと座って無造作に描き始める姿がなんともいえず、
松下四郎さんが「ボクもあんなにして描いてみたいよ」と
よく言われていたが、そうする前に病気になられた。
ほんわかと心地好さそうな安野さんの作品だが細部を大事にしてある。
局部があって全体があるという絵画のトリックが潜ましてある。
エッシャー風な不思議な(だまし)絵が今回一点もなかったが、
普通の風景に見せて実は仕掛けがしてある。
9月20日(火)野見山暁治展
野見山暁治展(ギャラリー憩ひで10月10日まで)
日記のような水彩画とドローイング。
ぴーんと張り詰めるでもなく誘われる。
90歳とはおどろく。
枯れない人である。
ドローイング、水彩画がしゃきっとしているんだから。
9月18日(日)原美術館
あてもなく、ふらっと行ってみたくなるのが原美術館である。
暑いので歩くのは止めにして、タクシーで行く。
閑静な住宅街の狭い通りにさりげなくある。
元々洋館であったのだろうが、かわいらしい。
樹木のある現代彫刻の庭園と美術館との調和が、洋風な中
にも和様を奏でているよう。
庭園のレストランで食事を目的に訪れる人も少なくないと。
女性客が多いのも特色かな?
そう云えば先日、ここで「結婚式を挙げたい」というアラフォーがいたっけ・・。
「アート・スコープ 2009・2011」が開催中。
小泉明郎の映画というか映像は惹きつけられる。
寺山修司がやろうとした室内劇的な手法にも見えるが、革新的な斬新さがある。
常設としては森村泰昌、奈良美智などのインスタレーションの小部屋もある。
気温も下がり、帰りはゆらりゆらりと品川まで歩く。
途中、クツワムシの死がいとドングリを拾う。
9月16日(金)陣内敦展
夜霧よ今夜もありがとう・・の世代じゃないけど。
地味に今夜もありがとう!!ある。
陣内敦展「散歩するように描く
命のよろこびを見つけに行く」が9月9日(月)まで開催中。
松原川のほとり・ギャラリー「シルクロ」にて。
陣内さんを祝すパーティーが同ギャラリーであった。
たくさんの人たちが駆けつ、陣内さんを祝した。
アルモニア管弦楽団の相良貴子さんによるフルート演奏は、
陣内さんの会場の作品からインスパイアーしたイメージ
から演奏されおおいに盛り上がる。
陣内さんの作品は和紙に着色パラフィン(蝋)のコンバインである。
正しく畑、田んぼを耕すごとくのガーデニングにも見える愉しみ方だ。
作品には手製の仮縁も付けてあり、磁場展で見るのとは異なるが、
どちらともそれぞれにイイのではないか・・。それでイイ。
陣内さんは元々ハードエッジの人であり。
タブローから・・着色剤まですべてをを自分で作り出す方式の人
である、
大学卒業制作展のときの1000号の大作がやはり今の作者を
物語るアリバイとえるぐらいのショッキングな見せ方であったよな。
エッジは変わらぬが、日々の時間に強く表現が移行して行く。
雲、風、空、庭、見せて見られて宇宙。
9月13日(火)涼み展
昨日の夕方、ギャラリーいばへ行く。
「涼み展」9月16日(金)まで 
太田 朋江(和紙・染料)
大島 明子(陶器)
カラフルな和紙がたまたま壁に留まったようにひらひら。
テーブルには仮面のような焼き物のランプシェードや湯のみ、
ちゃわんが、ゆったりと置いてある。
確かに涼しい組み合わせである。
ビールまでいただいて、ごっさんでした。
7月5日 (火)フォトサロン、日洋展、磁場

「佐賀フォトサロン 写真展」(九電イリス)を見る。
笠原陽一路さんが先の釜山での写真を数点出品されていた。
釜山を局部的に切り撮り、現代的でメッセージ性の強い写真である。
かつての中心的写真家・故音成三男さんの有明海シリーズも数点展示されてたが、
今日の有明海の環境問題があるだけに、音成さんの叫びが聞こえて来るよう・・。

県立美術館では「佐賀日洋展」を見る。
重厚な厚塗りが特色の団体。
吉田進一先生の”兜”や宮原栄作さんの”教会”は最たるもの。
油絵以外にも吉田先生の色紙と大久保孝夫さんの鉛筆デッサンによる自画像
には足が停まった。
重鎮・お二人の気負いない姿勢なのだろうか。
まだまだ教えられる。

夜、再び磁場の会議。
「並行宇宙(パラレルワールド)」
8月10日(水)〜8月14日(日)
佐賀市立図書館。
PS/山田悠介のデビューホラー小説「リアル鬼ごっこ」のパラレルワールド
映画を見た。
相対性理論(やくしまるえつこ)のミス・パラレルワールドを聴いた。
パラレルワールドオーケストラも聴いた。ゲームもいろいろある。
うーん??!!
7月3日(日)山口亮一のゆたかな絵画の世界
午後自転車に乗って出かける。
西に向かうが、途中強い西風に自転車が進まない。
台風でも来てるのか・・。
山口亮一旧宅にはお客さんが集まっていらした。
長机に座布団が置かれ椅子に変わっている。
気持ちは青年でも高齢者にはうれしかろう。
何の打ち合わせもなく、大塚清吾さんの話からなんとなく始まった。
「山口亮一のゆたかな絵画展」での大塚さんとボクの対談・」トークショー
といううところ。
武家屋敷の座敷なだけにゆったりとした心持である。
そこに山口亮一さんのいろんな絵も展示されてる。
佐賀美協の創始者である山口亮一さんがなぜに忘れられ大事にされないのか・
・という辺りからの話になった。
白馬会、東京美術学校、久留米、佐賀という場所に山口亮一、青木繁、
坂本繁二郎
は同時代を過ごしている。
青木、坂本とのつながりはなかったのか、接点でも見つかれば新たな展開
になると思
うのだが。
今回は亮一翁のゆたかな絵画性や絵画が備え持つ品性について、横道に
もそれな
がらのトーク。
トークの途中に絶えず会場から質問があり、やりやすかった。
2時間もあっという間。
終わって、スタッフで司会のお姉さまが「お二人と会場とが一体となった
和気あいあい
の時間でした」ということでした。
眠っている資料や情報をもっと集め、いろんな切り口で浮かび上がらせていくし
かないだろう。
大塚さんやスタッフの孤軍奮闘という状況が判るだけで、美協や周辺の無関心
さにはさびしいものが・・。
6月30日 (木)二科会佐賀支部展

クリニックが終わり、
山口亮一旧宅へ山口亮一ゆたかな絵画展を見に行く。
3日日曜日の大塚清吾さんとのトークの下見でもある。
スタッフのお姉さんお二人が色々と説明して下さり、ボクの出る幕ない。
続いて県立美術館で二科佐賀支部展を見る。
メンバー14人がそれぞれに、大作を4,5点、出品されてる。
二科には二科のカラーと匂いがある。
半具象で鈍く押し殺されたような色が特色でもある。
高柳博さんの白石平野シリーズ。藤田新さんの水門シリーズもながーい。
高橋廣行さんの漁港シリーズも長い。鈍くラフなバルールは有機農業というか、
自然なたくましいおいしさのようだ。

元気で意欲的なのが汐待和子さんである。心象的外国風景が姿
を消すように新たな題材へと融合昇華されている。いろんな表現を可
能にしているのが、張りのある骨太の色と形の重層である。
6月23日 (木) 舟一朝 3.11展

漁港から神埼のアートエルに向かう。
「舟一朝 3.11」が開催中である。
画廊隣の能楽堂から謡曲が聞こえて来るので、窓からのぞいたら、
御主人がお稽古をされてた。
そして、画廊へ。
舟さんが女性のお客さんに絵の説明をされてた。
1メートル四方の木綿に描かれた顔・5,60点がランダムに壁に貼り付けら
れている。
怒ったような笑ったような泣いてるようなさびしそうなと、いろんな表情の人
の顔が木綿の布にアクリルと顔彩で描かれ、布は布として薄っつぺらに
展示してある。
いろんな素材を使う舟さんスタイルの方式でもある。
自然(あるいは環境)と人間が長年の舟さんのテーマではあると思う。
自然の中から生れたた自然な素材を使って、再び自然のなかに置き、行き
つくところは、自然へ返そうとする思想である。
自然回帰や諸行無常ではなく森羅万象というところか。
先の3.11大震災では、世界中の人たちも、驚愕と畏敬の海に放り込まれたの
ではないか。「表現」ということが、ひ弱に、根こそぎ崩れ去っていくような心境
なり不安をおぼえたものだ。
舟さんもどうしていいのか、判らない状態から、とにかく描き続けたらしい。40日
間の心の動き、記録、日記として、自分自身を我鬼のような顔として、自身へ
の問いかけでもあるのだろう。
早いもので青年の舟さんも71歳。「舟一朝は何者ぞ」と。
多久聖廟の古い屋根の払い下げの銅版に描かれた色彩の抽象作品も見逃
せない。抽象作品なのだが、キリストを抱くマリアの絵に見えてしまう。
前の個展で見た韓国の「石積み」にもキリスト、あるいはマリアの姿見えた。
舟さんもボクもキリスト教徒ではない。
2001年のテロ9.11の状況下では、スイスの村でオレンジの布のインスタレー
ションをされている。その写真が展示された。
この際ばらすと、そこの辺りはボクも9.11以後Dragonganが登場し、震災後に
は一点の作品をより複雑に40日間取り組んだ。
答はないが、幸いにも空いた穴が埋まるものならと向かえる場所はあった。
場所はあっても、まだ向かえない人もいるだろうし・・。
いかに個人的であるかが判る。しかし、やってる限り、そこに他との接点なり、
触れ合いが生じるものと信じている。
お稽古を終えて能楽師の小池さんが来られて、お能や伝統文化と現代美術
の話へとイイ時間であった。
文化が根付かないと心も町(街)もさびしくなる。
6月21日(火) 美協傍観

例年通り今日の火曜日が美協の当番。
メンバーもほぼ昨年同様。
じっくりと一点一点の作品を見るにイイ機会でもある。
ありとあらゆる表現スタイルが混在する現代日本の美術の縮図でもあろう。
その分ごちゃついた観はあるかもしれないが、現代も絵をたのしむ人々はピ
ンからキリまで、剛作、労作、力作、激作、狂作、怒作、奇作、笑作、田吾作と、
それぞれなのである。
自由になればなるほどのむずかしさも底なし・・。
大学、高校の学生さんが団体でやってくると、会場はにぎやか、熱気も湧く。
やはり様々な作品に興味をもって見ているよだ。それでイイのだ。

i5月25日(水)池田学画集T

池田学画集Tを見ていて、ふとある絵を思い出した。
当時よく呑みに行った小料理屋の棚に飾ってあった色紙である。
学くんが高校の恩師・金子先生の顔を色紙に描いたペン画である。
顔と風景を融合さし、逆さにすると怒った顔になるという仕掛けであった。
そのユーモアと遊び心は現在のスーパー細密ペン画に通じている。
そこで、金子先生に電話すると「そう、あの絵は今の彼の原点だよね、
それが・・探してるんだけど行方不明なのよ、誰かが持ってればイイのだけど・・」
あの小料理屋もすでにない。
世界へ羽ばたく学くんの置き土産は大きい。
6月17日(金)江口孝徳さんの水田
曇天の空の下。
白石の共立病院へ身内の検診に行く。
田んぼに水が張られ、鏡のような水田がどこまでも広がる。
田植えの季節である。水田が空になる。
病院が活気があるというのもおかしいが、湿っぽさが無くやはり
活気がある。人々が病気をたのしんでいるとでも言いたくなる。
診察を待ちながら、ふと振り向くと背後の広い壁面に水田風景の
F100号の絵が二点飾ってある。
まさに今見てきたような鏡の水田である。
広い空、遠くの集落と樹木、水田には田植えする人々や空、樹木家が
映る限りなく透明に近づく白い空間である。
一目瞭然、(故)江口孝徳さんの田園讃歌である。
福富で養豚と農業をされ、いかにも日焼けした農民の風貌であったが、
ぎょろりとした目玉が人なつっこく笑う愛嬌のある絵描きさんであった。
人々も「孝徳さん、孝徳さん」と親しく接していた。
重厚に油絵の具が塗り込められているが、すがすがしくかろやかな
梅雨の晴れ間である。
孝徳さんの代表作二点が地元でちゃんと保管展示され、堂々と今なお輝いている。
ああ、写真撮るの忘れた。
身内もお医者の不安を取り除くような適格な説明に安堵し生き甲斐を新たに
したようであった。
5月19日(木)肥前通仙亭
肥前通仙亭で講演をする。
1時間40分の長丁場・午前と午後の二回行う。
「記憶の風景の世界」と主催の川本喜美子さんが決めて下さったので、
気楽。政治経済、以外だったらなでもよい。
喋ることはいっしょ。会場のお客さんの顔を見てから決める。(まるで
落語家みたい・・)
このやり方だと、苦にならないし、そこそこ上手くいくと勝手に思いこんでるから、
世話ない。
肥前通仙亭のお座敷、土間には40人のお客がお集まりで一杯である。
結構笑って下さってるから、受けてる。
寺子屋風で塾長さん見たい、と結構、余裕がある。
そろそろ、プロジェクターでの記憶の風景の絵に移ろうかと、時計を見れば
とっくに一時間を過ぎている。時間が足りないかも・・。
やはり、お話よりも絵を見る方が、みなさんの目もかがやき、盛り上がる。
しかし、タイムオーバーとなり途中で閉幕。
延長の質疑応答まで、あっという間であった。
笑顔で帰られる皆さんを見て、まずまずかな。

午後の部は、二回目だし、もっとうまくいくだろうとおもったが、
何故か調子がでない。
喋っていて自分でもボーッとなる。疲れたのか眠くなったのか、いかんことです。
いや、会場でも目をつむっている人がいる。縁側に見える新緑の天気もイイし、
実際眠いのかもしれない。とうとういびきまで聞こえてきた。
談志師匠じゃないし・・、まぁイイか。
後援会やコンサートで眠るのは、ホント実に気持ちイイのである。
しかし、ならばと絵を見てもらうことにしたら、皆さん、食い入るようにスクリーン
に集中されるのであったが、ここでも時間オーバー。
講演後、残られた方々と普段に無い談笑ができて、ありがとうございました。
長いとおもっていた時間も短く、ボクにとっては何より気持ちイイことでした。
7月3日は、山口亮一記念館で大塚清吾氏とのトークショウ。
これまた、たのしくいきましょう。

5月12日(木)横尾尚写真展
クリニックを終え、手みやげにと菓子店にはいる。
O串くんのお母さんが菓子を作っていらした。
世間話のあげくに余分に菓子をいただく。ありがとうございました。

「横尾尚写真展 フォトアートの仕事55年」画廊憩い。
横尾さんは若い。80歳には見えない、万年青年。
写真もフレッシュ、若い。
中国の少数民族の写真も精力的に撮っておられたが、今回、本来の場所に
戻って街を、現代を切り取るというコンテンポラリーにっ眼、視線、カメラを
向けられた。
昭和30年代の焼き芋屋の親子、遠足の弁当風景なども多く撮ってあっり、
その後、街のショウウィンドウなどに風景、現代を見出されていた。
その当時の作品を見て、”こんな新しい感覚の人が佐賀に居るんだ”と記憶
に新しい。
その時期の復活、復興というのが今回のテーマになっているようである。
路上や壁の落書き、路地裏の看板、破棄された日常の諸々、を
中学生ぐらいが虫眼鏡で観察するかのように撮ってある。
絵画的でもある。
はぎ取った壁や路面が描いた絵画以上にすばらしいこともある。
横尾さんは絵画、版画のコレクターでもあり、絵画にも造詣が深い。
そのセンスが他の写真家にはないカッコよさ(現代)でもある。
足で歩いて、自転車でゆらゆらと、ポケットに小型のカメラ忍ばせ、
ウの目タカの目ネコの目で路傍の街かどの、まだだれも気づかぬトマソン的
原石を見付けては中学生のように接近し愛おしくパシャッと写してある。
切り撮っていく以上、日常の景色(行為)であろうが、絵画的であらんとされ
るあたりに少年の様な汚れない好奇心とおどろきを見る。

5月2日(月) フェルメールとオランダ・フランドル絵画
渋谷Bunkamura「フェルメールとオランダ・フランドル絵画」も大勢の
観客で作品に接近するのもひと苦労。
フェルメールの作品は8号ぐらいの「地理学者」の一点だけ。
騙されたという感覚である。
しかし、フランドルの画家たちもフェルメールに劣らぬテクニックシャンぞろい。
肖像画、静物画などの精巧さを競い合うかのよう。

5月2日(月岡本太郎記念館
「岡本太郎記念館」と言っても太郎さんの青山のアトリエである。
表通りから一本裏の閑静な通り。
太郎さんの彫刻や立体作品が庭から覗いている。
入場料・600円を払うと後は自由に動き回ってイイ。
アトリエの床には絵具が滴り落ち、棚には(描きかけ?)のキャンバスが
ぎっしり、テーブルのTaro絵具や筆、ハケが化石のように美しい。
美術館や画廊とはかなり趣が違う。
見学者も気ままに写真を撮ったり、庭のカフェでお茶してる。
”見学者が訪れてくれて太郎さんもうれしいだろうな”と思える空間。

 5月2日(月)フレンチ・ウインドウ
六本木ヒルズ、森タワー56階、森美術館では「フレンチ・ウインドウ展 
デュシャンにみるフランス現代美術の最前線」。
入口からしてこの展覧会のためにフランス国旗風につくりかえてあり、
わくわくする。
最初の部屋にデュシャンのフレッシュ・ウインドウやレディメイド・便器など
が置かれている。
何十年ぶりの友に会うような新鮮かつ崇高なパワーである。
続いて想像力豊かなフランスの40代の作家たちの表現、作品であるが、
デュシャンほどに観念的哲学的ではなく、今日的に判るし、おもしろい。
共鳴共感の
現代アートである。
古典的名画の”よさ”とは一線を画する”自由さ”には心躍り、
戦闘モードになる。
ひらめきやアイディアもただ温存していてはなにもならない。人間が考える
ことにほとんど差はない。似たようなことを考え思いつくのである。
実践するか、ねまるかである。
大枚はたいてでもやらねばならないことは、多い。
分かれ目はそこだ。
それこそ同館で同時に開催されていた若い(31歳)田口行弘氏の
プロジェクトは称賛ものである。伸び伸びおもいっきりやってる。
 


5月1日(日)
レンブラント
街灯やエスカレーターが止まり、夜景も少し暗く感じるが、交通機関は正常で、
いつもの東京に戻っている。
上野の西洋美術館の「レンブラント展」を見る。
レンブラントのもう一つの顔、銅版画家としての作品てんである。
様々な本の挿絵に使われたのであろう小さな作品群であるだけに接近しな
ければならないが、大勢の人の流れに合わしていると日が暮れてしまいそうで、
隙間を狙ってランダムに見て行く。
ある意味あきらめるしかない。
数点でいいから手にとって見られるようにすべきであると思う。
同じような作品、すべてを見る必要はないのである。
大量に印刷できる版画という技法が当時の画家たちには魅力であったのだろう。
急ぎ足でも40分を要した。


5月1日(日)五百羅漢・幕末の絵師・狩野一信
両国の江戸東京博物館では
「五百羅漢・幕末の絵師・狩野一信・増上寺秘蔵の仏画100幅」を見る。
一点一点が精密繊細克明に羅漢の世界を仏教の教えとして描かれている。
西欧の神話とも肩を並べる、いやそれ以上の様々な世界が展開する。
一点をじっくり見るだけでも喜怒哀楽がたのしめるのに100幅もの
作品にはただただ圧倒される。
地獄図など恐ろしいのもあるが、100幅をこれだけ想像力豊かに緻密に
一生をかけて描いた狩野一信の執念、根気、力量が恐ろしいくらい。
レンブラントと比較するなら断然、狩野一信の五百羅漢がおもしろく想
像力も湧く。その狂気さは浮世絵師・芳年へと繋がっている。
近年、古寺に眠る仏画の研究、紹介がなされてよろこばしいことである。
西洋画がイイもののように一辺倒で来ただけに・・、日本の中にある
すばらしいものを知らずして・・、まだまだあるにちがいない。、
4月14日絵画3人展
”菊水堂”と言えば、佐賀では老舗の有名な絵画材料専門店。
高校生のころからのお付き合いで、御家族ともども親しいお店である。
以前は商店街で手広く画材店と菊水堂画廊を開かれていたが、町おこし
などの開発の流れの中で、エスプラッツビルの東の十間堀川の自宅に
移転された。
ボクも中尾和紀さんから菊水堂絵画教室を引き継いで、数十年が経
つよう。
公私ともに長きにわたりお世話になってる。
現在はお店も小さくなったが、小さなギャラリーがある。
お店の姿勢は変わらない。
これが文化である。
大昔より菊水堂さんとお付き合する画家も少なくない。
かつて牛塚和男さん、山田直行さん、服部大次郎の三人展をしたことがある。
今回は牛塚氏に代わり塚本氏になったようだが、菊水堂の店主・杉町さん
は「このメンバーで来月からしたいとおもってますので、よろしく・・」
と即決される。三人とも「いや・・」とは言わなかったようだ。
展示も杉町さん流。小さなことにはこだわられない。すべておまかせします。
さてさて、今回、塚本さんはシルク、油彩の5点。
山田さんは花、風景の水彩画・7点。
私服部はキャンバスを裏返しにしたトロンプルイユを5点。
小さな作品のたのしい展覧会にはなっているのではと・・。
毎日お客さんがあるようでありがたいです。
ぽかぽかとイイ季節です。エスプラッツビルの東の十間堀川
佐賀の文化(美術)の発祥の地を見に散歩がてらにお寄り下さい。

4月8日中島潔 清水寺襖絵展 
午後、菊水堂に明日からの”三人展”の作品を持っていく。
ツンちゃんの作品は届いていたが、直行さんはまだだった。
小さなギャラリーの各自5点の小さな三人展である。
NHKのラジオとテレビのお知らせで流れているという。
今回DMは報道関係に出しただけ。
よろこんでいいのか、ちょっと・・・。
そして、県立美術館へ。3時から「京都・清水寺成就院奉納襖絵展
 風邪の画家中島潔が描く生命と無情の輝き」の会場式。
セレモニーが終わり中島さんの解説を聞きながら会場を回る。
46枚の襖絵は5年かかりで、今までのすべてを出しつくした集大成
だと断言された。5年とは長いようだが襖46枚となれば余裕はない、
過酷な政策であったことだろう。
(様式的)絵画(?)ともイラストともつかぬ中島さん特有の絵柄と
独特のタッチであり技法である。
材料についてたずねたら「そのへんはめちゃくちゃですから・・」と。
童や女官がさびしげに時に風に向かい、丹念精緻に描写してある
かとおもえば息をを殺してのスピーディーな線が走る。
中島さんが自分に課した業みたいなものではなかろうか。
そんな心境になる日があるのだろうか。

4月1日下村康二退職記念展
「下村康二退職記念展」(佐賀県立美術館4号展示室)。
長きにわたり北高芸術コースを指導され、今年3月に退職された
下村先生である。
絵を始めた20代から現在までの作品のオンパレード。
多くがいろんな美術展で入選、入賞した作品であることもめずらしく
ユニークである。
コンクールへ挑戦し続ける下村先生でもあったのだ。
観光デザイン、車椅子の少年、夫人像、鮒市の人々シリーズ、
風刺的な空き缶シイリ−ズそして現在につながる廃屋シリーズの
およそ60点。
丹念に塗りこめられ、時を経てじっくりと熟成ていくようである。
事象的な表現から現在の廃家シリーズは時の流れである。人間
の時間である。和紙のひだが亀裂やしわとなってひとの肌のようにも
、その上に昔あった筈の家が廃家となって現れる、時の中地図なのであろう。
御苦労さまでした。これからもガンガン描いて下さい。
4月1日ハチロク展
「ハチロク展」(県立美術館2号,3号室)
今回、24回をもって終了といことである。
自由奔放何でもありのアンデパンダンで、一種、見世物小屋に
入ったような展開が毎年展開されていた。常に100人前後の
出品者があり、異様独特無比の存在であっただけに惜しい。
高齢化というのもあるのかもしれない。
会場には昔のスクラップ写真が展示してあり、故古賀喜久男さん
や土師一也さんの顔もあり、しみじみとなつかしいかった。
長年代表をされていた小野天山さんもどこかさびしそうである。
今回も県内外のプロ、アマ100人の絵画、立体、インスタレーション
が画廊狭しと入り乱れ、例年通りのにぎわいである。なのあえて終了
ということである。
ユニークな展覧会が一つ消えたという事実が重要であろう。
4月1日佐賀彫刻集団展
四月一日である。
バカの日とも言うが、今年はお預けがイイ。
「佐賀彫刻集団展」(佐賀県立美術館画廊研修室)を見る。
15人の作品、立像、胸像、首(顔)オブジェなどが林立する。
成富さんの塑像・人体像は、膝を折、両手を広飛び上がろうと
するバンザイの瞬間であろうか。周囲の空間を揺るがすよう
な形態である。
光山照行さんの首・「シイシャール村の男」も熱っぽく辺りの
空気を振動させるような気迫の木彫である。
木材の色、質感から見て、たぶん昔の作品であろう。耳には
蜘蛛の巣が見受けられた。
立体作品は何と言っても出来不出来もあろうが、空間であり、
空間意識である。爆発、拡散、融合といった方向性もあれば・・と
きびすを返した。
3月18日 (金)金子剛と黄美七人展(村岡屋ギャラリー3月20日まで)
8人8様の展開である。
それぞれが得意のモチーフを静ひつに見つめている。
風景、漁船、蝶、白い物体、古い家、音楽など、どんなもの
でも描きたいモチーフに成り得る。
東日本大震災の状況下ではあるけれど、絵画という世界を
じっくりと見つめ、考えるというのも、動揺してはならない
不可欠な日頃の動作であろう。
沈静さ冷静さといのは直接的には無用のもののようでもあるが、
これこそが、次に立つための人間が持てる最高の資質のような気がした。
3月14日 (月)山崎正之アート展「オランピアの中で」
(吉野ヶ里町 アートエル 3月15日〜3月21日)
「裸のマヤ」にも似た体を露にした女性がベッドに横たわるマネの
絵画「オリンピア」のオマージュであろうか。
「オリンピア」のコラージュをマスキングしたグレー調の平面作品や
褐色の平面と立体作品がインスタレーションのように全体として
一つになった展示である。
高い天井の画廊の空間を意識して上部にもミケランジェロの」聖母と
オリンピアが飾られ一種祭壇にも見てとれるが、大小それぞれの
作品も単独としてもたのしめる。
手法的には工作である。
合板、段ボールを裁断し重ね着色。
コピーのコラージュをテープでマスキングして、ニスのコーティング。
内と外、外と内の交互反復で内と外の境界(現実)をあいまいにしていく。
そこに最小の褐色の色彩が現出するもののようで、絵画の平面と
色彩のテーゼがとどまるが、作者はその先を模索したのしんでいるよう。
表現、創造というものは対象や立場との接点はもちろん、より強い接点
でなければ、どんどん遠のいて行く。
工作という行為、感覚を復権さすこと立つ位置は見えてきたのだろうが、
ぎりぎりの絵画の淵に立っているのかもしれない。
50代。まだまだこれから・・を意欲的に見せてくれたのではないか。
※「オランピア」とはフランスでよく娼婦の通称として使われた名前のようだ。

東日本大震災を目の当たりにしてあらゆる創造の表現力のなさを
感じさせられた。
そこで、思い出すのがアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言
(巖谷國士訳)」の一節。
”親愛なる想像力よ、私がおまえの中でなにより愛しているのは、
おまえが容赦しないという点なのだ。”
3月6日 (日)雨の午後、動物のいるはなし(書肆草茫々出版¥1.500)」の
出版記念みたいな会にいく。
会場となった市内のトネリコカフェは出席者で、すし詰め、
メジロ押し状態。
県内外からいろんなジャンルのお歴々およそ30人がお見えであった。
5人の執筆者と挿絵を担当した塩月悠くんを肴に旧交を温め語る会で
あったようだが、2次会が本音も飛び出し本番といったところであった。
本書はペット礼賛ではなかった。それぞれの視点でおかしく、おぞましく
怪奇にとらえてある。ボクとしては亀というだけで興味が湧く。
だけにお二方の亀のはなしは、生態も捉えてありおもしろかった。
ご当地では本が出版されるなど、プロでもほとんどないよう。
「動物のいるはなし」は出版元と執筆者、挿絵とが、がっぷり
組んだ結晶の本である。
3月1日 (火)文化村
浅草、昔、SKD国際劇場(現在、ビューホテル)があった裏町を行く。
人通りはなく、小さなお寺が多い。
合羽橋道具街通りに出ると、そこに白亜の台東区立生涯学習センター
がある。内部はいろんな多くの利用者で活気があり、図書館にもいろんな
風体の沢山の人たちが読書している。図書館カウンター、隣の一室に
「池波正太郎記念文庫」はあった。
池波さんの書斎が復元してあったり、自筆原稿、自筆絵画などが展示し
てある。絵が上手い人である。浅草で生れ浅草を愛した人だ。
我が町の図書館にもこんなコーナーがあればと思う・・。

六本木の某フィルムメーカーには古い写真機が年代別に展示してあり、
横の壁には土門拳の室生寺シリーズの仏像の写真が4点ではあるが、
飾ってある。
写真集で見るのとは違ってそこに土門さんがいるようである。
でも何のキャプションもなければ、土門さんときずいたかどうかである。

雨は止んだが冬に後戻り。
渋谷のスクランブル交差点を渡り、道玄坂のBUNKAMURAへいく。
フェルメール展を見ようとザ・ミュージアムに行くが、いつもと様子が
おかしい。人の流れがない。入口には「本日休館」とある。
参ったなぁと改めてフェルメール展のポスターを見る。
2011年3/3(木)−5/22(日)まだ始まってないんだ。
勘違いというよりはボケだな。
8階の画廊へ行く。
2つの画廊で個展が二つ。日本人とフィンランド人。
高価なほとんどの作品に売約済みの赤札が・・。
明るく、ユーモアで個性的な絵ではある。
早い話が癒されるというふうな絵なのである。
好きなんだ。売れるんだ。部屋に飾りたいんだ。
この業界も景気悪いと聞くが売れるんだ。
不況に無縁のけた外れのお金持ちがわんさかいるよう。
くやしいけど、何であろうと美術界にとってはイイことである。
2月28日 (月)シュッレアリスム展
宣言雨の六本木をミッドタウンの方へ歩いていた。
六本木と言えど平日は人も少ないましてや雨。
富士フィルムセンターで写真展2つ。
お二方とも晴れの舞台。友人知人が訪れている。
ミッドタウンから新国立美術館へと。
ほどよい雨は歩調を軽快にするようだ。
美術館もヒマだな・・と「シュルレアリズム展」に入る。
館内は観客でいっぱい。
若い女性が圧倒的に多い。興味があるんだ。好きなんだ。
ゆっくり、じっくりとシュールな世界を満喫しているよう。
ポンピドー美術館所蔵の一部・180点はそれぞれに存在感がる。
一時代の無頼派という感がある。
体系的に判りやすく展示されており、初心者でも興味津津と
言ったところか。
エルンスト、ピカビア、マンレイなどの個性派は奥が深く、ダリ、
マグリット、ミロは卓越した表現力で絵画を見せる。
彼らの映画も「アンダルシアの犬」など4本。
アメリカ繋がりではポロックの初期の作品が圧巻。
1924年28歳のA・ブルトンが発表した「シュッレアリズム
宣言(と溶ける魚)」の煉瓦色の原本は小型で薄い。
ボクのは巖谷國士訳の分厚い本。
狼たちの午後は永遠に・・。
2月日 27(日)140年前の江戸を撮った男
両国で降りて江戸東京美術館にいく。
巨大な美術館である。
2階から入場して復元された江戸の大橋を渡る。
橋の下には見世物小屋があり、その前で大道芸人が曲芸をやってる。
精巧な江戸の模型やジオラマがたくさんある。
そして「140年前の江戸城を撮った男 ― 横山松三郎展」
浅草や江戸城の写真とガラス板のネガなどがあったが、物足りない。
生れも育ちも江戸だったら見え方も違ったろうにと思いながら・・。
2月14日 (月)川本達也作品展
川本達也さんの作品展を柳町郵便局で見る。
川本グリーンを基調にした静物と夢の街シリーズ
の9点。
大作は磁場展で見せてもらっているのだが、
まとまった小作品となると数十年ぶりであろうか。
小品だけに緻密な描写がなされている。
チューリップ、巻貝、ブドウがリアルだ。
最近取り組んである海に映る廃墟の街シリーズは
海底都市、空中都市でもあるようにファンタジック
に過去と未来をつなぐ。
その狭間の水平線にかろうじてつかまっているのが
現代であり、作者の夢とういう宇宙なのだろう。
皿の上には果物でもなく廃墟のビル群が出現した。
「夢で見た街」と題してあった。
会期は2月一杯(土日は休み)。
2月9日 (水)フォト575佐賀市立図書館2Fで写真クラブ「睦互朗」
写真展を見る。
四季の風景、接写の草花 昆虫、祭、人、花火などなどがおよ
そ100点。
勉強会らを開き、いかに切り取るか、御苦労とたのしさが
うかがえる。
その写真一点一点には「青藍俳句会」のメンバーの人たち
の俳句がそえられている。写真と俳句のがちんこ勝負というか、
両者ががっぷり組んだコラボである。
最近テレビでも写真を見て句を作る「フォト575」などが盛ん
であるが、それより先に始められ、輪を広げられてる。
世話役の柳さんの説明を聞きながら一巡した。
俳句の会のメンバーで、高校時代の担任の小林先生は
「恥ずかしながらと、
”鎮西の深山紅葉凛として”など数点を出品されている。
自然の風景から写真や絵が生れ、写真や絵から言葉が
ひねり出され、再び自然へと回帰していく・・。、
1月31日 (月)川本太郎さんの急須展方、個展のお礼状を出して、
最終日である
「川本太郎さんの急須展」を拝見にギャラリーイバへといく。
太郎さんは帰ったとのこと。いろんないろデザインの急須が
整然と並び、タロさんの異なる切り口を見せてもらった。
お客のご婦人がどの急須にしようかと品定めをされていたが、
ボクは白地の夫婦ちゃわんに惹かれた。
例の居酒屋風な次室に入るともうろうとしたヤクザ石・Fさんが
臼のように炬燵に居た。
作品の搬出は後日ということで、社長とF氏とで打ち上げ会。
その後、退職して最近、息子さんと唐人町に居酒屋をオープン
した高校の同窓生KTくんの「参百伍百(さんからごんから)に行き、
関アジと煮込み豆腐で仕切り直しで、閉店まで。
1月22日 (土) ゲンダイオンガクって面白い
絵画教室が終わり、「ゲンダイオンガクって面白い」ということ 
でエスプラッツホールにチケットを買って入場する。
現代音楽と言えば、地元ではかつてピアニスト・吉富久美子さん
の独壇場であった。吉富さんと高橋紀明さんとのコラボもあったり
していて、ボクらも美術やらでいっしょにやってた。
若き吉富さんはジョン・ケージやエリック・サティ、一柳 慧の
現代音楽で
地元観客を雲にまいていたが、地方にあっても文化活動が顕著で
、刺激的な美術や音楽の時代でもあった。
それから今回の東京からの若き演奏家たちということになるが、
まったく刺激的ではなかった。
現代音楽は停滞しているのかとさえおもってしまった。
おりこうさんが現代音楽の普及をやっているというもので、
表現には程遠いのである。彼らがその表現に向いてるのかどうか
を最後までおもいながら、終演となった。
中学生から高齢者までと多様に満席に近かく、よくここまでチケット
を売り
人を集めた努力は買うが、組織あっての動向のようで、個々の
表現力を見せるにはまだまだではないかと思わざるを得ない。
音楽へぶっつかる(若き)熱意、エネルギーがすべっているよ
に感じた。
終わって客席を見るとボクの前には画家のSHお姉さん、
旅館の御夫婦、離れて喫茶店主、ボクの後ろにはその
吉富久美子さんがいて、それぞれに「あらまあ」。
喫茶るーゑで吉富さんらと話すが、当時をよみがえらさなくても、
物足りなかったのは共通。大石将紀さんのサックスを吉富さん
はほめていらした。
ボクとしては美術や映像で参加していた地元作家たちは
おもしろかった。
中でもサックス曲に挿入した高椋猛(市の職員さんであった!!)
さんの線画のアニメーションは映像、編集ともにおもしろく驚いた。
隠れたところにスゴイ人がいるもので、今後もご活躍を・・。
1月20日 (木)田千恵子著「佐多稲子の中の佐賀」
「佐多稲子『樹影

2006年に出版された「交差点で」 佐賀九人散文集
の中の八田千恵子著「佐多稲子の中の佐賀」「佐多稲子『樹影』の世界」を見る。
昔々、佐賀の「新郷土」で八田さんの佐多稲子についての一文を読んだことがある。
佐多稲子という名前と柳町郵便局の繋がりだけは、その時点で記憶していたが、
その集大成のようなものだ。
佐多稲子の母高柳ユキは柳町郵便局の局長の娘だった。
明治三十七年六月一日、佐多稲子は長崎市で産声をあげた。
母ユキは佐賀県立女学校一年生で身籠り学校を退き、長崎の知り合い宅に身
を寄せ佐多稲子を出産した。父は県立佐賀中学校五年生・田島正文である。
母ユキは四年間の病床の末に23歳で郵便局の離れで亡くなった。
このとき八歳だった佐多稲子は、父とともに長崎から駆け付け、夕暮れのこの
庭で泣いている。
とプロレタリア作家としての佐多稲子の足跡を土壌と地図から再現しようとする、
足と時間をかけた労作である。
佐多稲子が13歳まで育った佐賀と長崎を通して稲子の波乱の人生、風景の原点
として佐多稲子文学を見ようとするもののようだ。
舞台が我が町のことでもあり、地図の上に当時の人々の影が動く。
後の郵便局長であった松尾正己(故人)や稲子の父・田島正文の実家のあった
隣に住む佐星醤油の吉村妙子さんも登場されるが、その御子息も我が友である。
名を成した人にとどまらず消えゆく地図も、ある日風景となって己
に重なるものである。
忘れえずどんな人であろうと、ふとおもいだしたり、懐かしむのも自然な人と人
とのつな
がりである。
2010年
12月10日(金(金)「ファンタスティックな野郎たち展」ギャラリー久光。
矢沢くんが店番してた。
ストリートギャラリー・メンバー20人の恒例の作品展である。
たのしい雰囲気の内容でした。
何も手伝えなくて、みなさんに感謝。

美術館では直行さん率いる絵画教室「M展」。
M原さんが当番してた。
20周年記念ということで、展示スペースも広く、メンバーそれぞれの
個展のようにたくさんの力作でした。
どちらもたのしんでますね。

12月7日(火)ゴッホ展
六本木の新国立美術館では「ゴッホ展 、こうして私はゴッホになった」
を見る。
入場で並ぶことはなかったが、場内は黒山の人人。
前列に出るのに大変である。
一点として、飛ばして見るような作品はない。
今までにいろんなゴッホ展を見てきた。
20代のころ見たアムステルダムのゴッホ美術館、ロンドン・テートギャラリーの
ゴッホは旧知のの友に会ったうれし、なつかしであったのだが、今回
は、今までに会ったこともないスゴイ人間を目の前にした、おもいであった。
27歳でゑを始め37歳で命を閉じるまでのたった10年間の画業を100年
にも見せてしまうゴッホ。そう思い込んでいる自分。
言葉をなくすなんてことも初めて・・・。
言うう間でもなく、ゴッホのありとあらゆる部分が切り取られ、現代美術の
思想となっているのである。
来年は福岡にも来るというが、勇気があればもう一度見てみたい。
12月7日(火)モネとジヴェルーニの画家たち
渋谷Bunkamuraミュージアムに「モネとジヴェルーニの画家たち」を見にいく。
入ったとたん「これは掘り出し物だ」とのおもいが最後まで続いた。
モネが住んだパリから70qのジヴェルーニという村を舞台にしてある。
普通の風景画か変遷していくらモネの画風を他の画家たちを透しても感じること
が出来る。
モネの「ジヴェルーニの冬」は白い風景に褐色の線が走るだけのシンプルな
冬景色だが、正しく現代絵画の骨格を見るおもいがする。
出口最後の壁に展示してあった120号ぐらいの「睡蓮 柳の反影」は圧巻。
蓮が浮かぶ水面に映る柳を描いたものだが、ほとんど抽象画である。
感じる色と骨格が抑えてあり、画面は荒々しく例の静寂した透明な空間とは
異なるのだ。
この部分を抽出して故意に表現したのが現代絵画であることは、明らか。
日本庭園を愛し、絵画の分岐点にいたモネの美しさだけでない、
貪欲な本質が素敵だ。
11月8日(月やっと「松原由佳Autume2010を見にいく事が出来た。
柳町郵便局には大作S100号が展示されていたが、この郵便局にはぴたりと
おさまっていた。
菊水堂会場はまるで「由佳の部屋」といったところ。
人形、ハガキ絵から40号までが床、壁、柱、テーブルに所狭しと並べてある。
大量な松原ワールドである。
このごちゃごちゃ感がこの人の作品には似あっており、楽しい。
山田詠美の本が好きで、その辺りからの精神の表装であろうが、
ねっとりと唇、眼、蝶、香水の瓶、手、などが散乱するひん死すれすれの
すさまじい作品である。
ゴッホの緻密さとポロックのドロッピング、アクションが混在する比類な作家である。
ドク毒とおどろおどろしい裡から迫って来る血のようなものが、絵の骨格を成
しているとも言える。
松原さんの作品は東西の作品と比べても判断の基準にまどわされる。
基準がないのだ。ひょっとして、はるか遠いところを行っているとしたら、
とさえ思えてくる。
その強い個性にはそこらのアーティストも及ばない。
金銭的な負担を考慮ての2会場の同時展ではあっても、何に媚びへ
つらうでもなくすばらしい。
水面下での評判やプロの評価は前々から高いものがある。
だけに女一人一途に己の理想と現実の虚構と取り組む姿・個展を多くの
人に見て欲しいのであります。
11月6日(土)松本清張記念館と黒田征太郎さん
紫川を渡り小倉城にの庭園へ行く。
小倉城の隣に松本清張記念館がある。
清張さんの本も沢山読ましてもらっただけに、入館する前からわくわくする。
膨大な原稿、資料である。肉筆の生原稿用紙だが、時代にそった緊迫感が、
ゆるやかにやさしく昭和を照らし出しているようで、じんと来る。
吹き抜けの記念館は清張さんの東京のご自宅の書庫、書斎、応接室ががすっぽり
おさめられている。すごい発想である。それでも捉えきれない昭和の巨人だ。
ファンならずともこの空間に浸ることは幸せだろう。
一日ぐらいではとても見きれない。氏のすべての研究がなされるのもいつの日
だろうと思う。
小倉は清張さんでもつ、と言いたくなる。
不動なる清張さんの存在は小倉城をもしのぐようだ。
記念館には昨年行われた、トランペットの近藤等則と黒田征太郎さんのコラボ
による映像とライブペインティングも展示されており、
異なる角度から清張さんに切り込み黒田征太郎さんの作品群はどろどろと自由
である。
さんに敬意を表す。

11月6日(土)じゃじゃ馬馴らし
小倉城堀割の前に近代的再開発ビルがある。新旧が不思議とコラボしている。
その違和感の無さは、人々の流れ、集客群を見れば判る。
川、堀割の景色が自然に人々に溶け込んでいるようである。
そのビルの地下のラーメン通りで「塩ラーメン」食ってから、6階の北九州劇場へいく。
小倉へ来たのは、シェイクスピア喜劇の『じゃじゃ馬馴らし』を見るためであった。
蜷川幸雄演出による、すべての役を男性俳優が演じるオールメール・シリーズ。
キャストが、歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』で麻阿役を演じ、新たな女形像
として観客を笑いの渦に巻き込んだ市川亀治郎さん。
これが初めての蜷川演出となる筧利夫さんら多数の個性的俳優さん。
舞台は中世イタリア。速射砲的に長い長い台詞が飛び交う。
筧さんは最初から最後まで3時間、はじけっぱなし。天才・亀治郎さんは
比類なき様々なしぐさ、発声法で観客を魅了する。
ラストのカーテンコールがユニーク。歌舞伎調、現代調、そのいずれでもなし
と5回も・・。
終わりよければすべてよしというか、さすがである。


11月3日(水)釜山ビエンナー
釜山市立美術館にいくとちょうど10時。本日、最初入場者となる。
海外のビエンナーレを見るのは初めてである。
ベネチアビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、ドイツのドクメンタなどが
有名であるが、日本ではビエンナーレをやってない。
各国の新しい感覚の作家たちだけに見ごたえがある。
広い一部屋を一人の作家が使っている。
写真も撮ってイイ。
地階から3階までのフロア―に大作が、様々に展示されている。
映像表現の暗い部屋が多い。
この会場以外でも2か所でも行われているが、帰国の時間もあり、すべては
無理、残念。
驚くほどの内容、斬新な感性はなかった。ややなつかしい過去へとつながる
展開の様な気がした。
そこへ張幸子女史が来てくれて、いっしょに見て回った。
幸子さんもビエンナーレに出したことがあり、またペグィさんはかつて
ビエンナーレの選考委員でもあったそうだ。
幸子さんが資料室へ案内してくれた。
幸子さんのコーナーもありぎっしりと画集や個展の記録がファイルされた。
そして、館長室にも案内してもらい館長さんと歓談。
「はじめまして」とは、チョウ・イル・サン館長であった。
柳川や長崎、嬉野温泉には行ったことがあると・・。佐賀はまだと・・。
美術館にはどんな作品がありますかと・・。
地元作家のすばらしい作品がありますと、金さんが宣伝した。
館長室に大量に置いてある古い韓国の民具にてを加えた作品はすべて
館長の作品であった。
木工工芸作家というが、石、金属、民具を組み合わせた現代彫刻である。
日本茶をいただいて、美術館を後にして、急ぎタクシーでホテルにもどる。
ロビーで幸子さんがパックを開くと、柿、ミカン、ブドウがきれい皮をむかれて
入っていた。最近ごしゅじんを亡くされたらしいが、やさしい人である。皆で食べ
つくした。

11月27日(土)塚本猪一郎作品展」ギャラリー久光。
恒例の「シルクスクリーンカレンダー2011」の発表と販売を兼ねた個展
であるが内容は、新作タブローの作品展。
白抜きが完全にきえてる。
風化した時間を集積したかのような平面(壁)に塚本タッチのユニークな形体
がカラフルを装う。その背後にも余白の空間はない。
余白の抜けるような白に変わって形態が原色となって現れた。
ミロ的色調といってもいいが、従来の余白のある作品が明るくはある。
時間を帯びた壁の断片の上でカラフルに形体が遊んでいる。
やはりミロだ。
外的直観と内的ドグマがバランスを取ろうとしている。
従来の作品にも同じことは言えるのだが、内面への比重が数年前から
徐々に強くなってきたとおもう。
年齢というよりは絶えずあきたらず次が見えてきたのだろう。
絵画は平面であるとはポスト後期印象派の思想である。
画家はそのさわやかさと明快な洗礼をどこかで受るものである。
この時代でどの表現が残るかは、後50年を要するだろう。
それだけに、今見えてる世界、現実は見えない。
だけに日々挑戦をするのだろう。


11月1日(月)日韓文化芸術交流展交流
時30分、訪韓者10名はビートルにて釜山へと博多港を出発。
波やや高し。ビートルはゴツンゴツント上下に揺れる。
しかし、海はイイなあ。
壱岐対馬を右に見てビートルは突っ走る。
山の斜面にビル群が林立する釜山が見えてくる。
なつかしささえある。
11時30分釜山港に到着。
税関を出ると韓国のみなさん・張幸子(チャン・ヘンジャ)さん、チャン前会長さん、
カン会長さん、パクさんら多数がが出迎えていて、握手、ハグハグ、
再開を喜びあう。
ホテルのバスでチャガルチそばのフェニックスホテルへ。
そして、佐賀の出品者の作品・36点を持って、連堤区のバスにて会場となる
釜山国際新聞社へ。
交際新聞社、4階の広いホールではすでに韓国側の作品
が設営中であり、
そこでも多くの友達と再開、アンニョンハセヨの連発。


5時、会場に手オープンセレモニー。
前回に比べ、韓国側のあいさつが短かったのは、進歩である。
祝いの韓国餅ケーキに勢山嬢が区長らと入刀して、ぱちぱちぱち。
軽い立食の後、連堤区の前回宿泊したレッドホテルへ移動。
バイキングの大宴会となる。
カラオケ、ダンスと盛り上がり日韓友好を深めた。
チャガルチにもみんなでいつものホルモン屋へ。
前回はここのおばさんたちが、お客をめぐってカウンター越しに罵声を飛
ばし喧嘩となったが、今回は満席でにこにことよく働いている。
ホルモンは別腹で、うまい。
それから、31番屋台でも呑み直す。肴はホヤにタウナギ。
タウナギハ苦手だ。
ああ、呑んで食った。
ホテルの窓から見える釜山港の夜景色癒しだ。
みなさんありがとうね。風呂に入ってバタン休う。

10月28日(木)ミヤザキケンスケ作品展
クリニックの絵画を終え佐賀玉屋へいく。
玉屋に入るのも何年振りか・・。
6階催し会場で「ミヤザキ・ケンスケ作品展」[(10月27日(水)〜10月31(日)]を見る。
ミヤザキさんはNHK BS2の「熱中時間」の背景画をライブで描いてた
32歳の新進アーティストで、ご存知の方も多かろう。
カラフルな作品が入口から会場までいっぱい。
お花畑のようにうきうきします。
奥の壁面で宮崎さんが公開制作中であった。
声をかけたら振り返り「お久しぶりですと・・」驚いた顔をした。
高校時代以来であるけど当時のミヤザキさんをボクは知らなかった。
まだ1年生であった。
バルーン、唐津のくんち、吉野ヶ里、七賢人らをぎっしりと進行中である。
こんどの日曜日には完成の予定である。
おしゃべりしながらも彼の手は休まない。
NEOカラーやアクリル絵具ででどんどん描いていく。
「看板ですからね・・」とミヤザキさんは謙遜するが、「Paint it Project]はすでに
コンテンポラリーアートである。
世界をつなぐ子どもたちとの輪は新たな地平に向かうアートである。
11月にはケニアに渡り、現地の小学校で壁画を制作するという。
その資金集めも兼ねた展覧会。
その原画を5000枚にカットした5000ピースやグッズらの販売もある。
新たな未来へ方向性を手さぐりで突き進む姿はイイ。
応援したくなる。
このタイプは佐賀にはいなかったし、日本でも珍しく貴重なアーティストである。
北高芸術コースからぽつぽつとユニークなアーティストが生れている。
金子剛先生の熱意が今実ってきたとも言えるだろう。
それだけにみんな素朴で魅力的な人間である。
佐賀のみなさんも応援しましょう。
10月26日(火)小川泰彦 展
小川泰彦 展」。
おおらかなブルーの有明海に迎えられる。
有明海賛歌。
小川先生がいらした。
今回は染色作品の下絵となるデッサンもたくさん展示してあった。
鉛筆のモノクロデッサンも素敵だった。
有明海の大作となる下絵は小さいものの完成作品の原画であり、情報が
びっしり詰まっている。それだけに作品としても立派なものだ。
有明海一筋にやってこられてまだまだお元気。
これからも干潟有明海を素敵に展開して下さい。
今回は技術的なことを色々とうかがい、話に夢中になり写真を撮るのを
忘れてしまった。
10月15日(金)五人展

神埼のアートエルに「神埼のアートエルに「五人展」を見に行く。

昨年結成された女性、5人のグループである。
キャリア、実力ともにベテランの画家さんたちである。

五人の作品が抗うことなく整然と並んでいる。
裏を返せば混沌であるということか。
末次さんは細密にやさしく少女やペットの犬を描いてある。
汐待さんは海外の印象を複合さして破壊される環境を見せてある。
真崎さんは悩める現代(自分)に正面から向き合っていらっしゃる。
吉田さんは制約に囚われず、奔放にのびやかに明るいタッチである。
小池さんは従来の赤い不定形な画面に骨太の黒い線を大胆に走らせてある。
「描きたいものを自分のやり方で表現する」というところだろうが、悩みや迷いは
作品からうかがえる。
そこに五人展の意
味もあろうし、やはり混沌である。
グループの混沌さに向き合うだけでもさらにおもしろくなるのでは・・と
思うのでした。

10月14日(木)宮崎大治郎個展
宮崎大治郎個展(ギャラリーふじやま)を見る。
抽象色面の深紅のキャンバスが画廊空間を埋め、圧巻である。
若い息子さんが受付をしていた。感心なお子だ。
ソウルでの個展の第二弾というところであろう。ソウルの美術雑誌などにも
取り上げられ、好評のようだ。
およそ40点の作品だけに画廊からも溢れている。
鏡の柱の鏡の上にも展示されてる。見るものの顔は作品で隠れるが、下半身が
覗く。「あなたは何をみているのか・・??」との遊び心にも見え気に入った。
抽象作品群の傍らに風景や花の水彩画が数点あったのには驚かされた。
繊細な水彩画なのである。「描くんだ・・」。
20年ぐらい前に一度、外国の風景をスケッチした水彩画を見たことはあった
のだが、抽象一筋の宮崎先生だけにね・・。
しかしその繊細さは一見、大胆にも見える抽象作品の時間的味付けになっている。
観る側に伝わるのは色彩形態ののみならず、味付けの諸要素にある。
こすり、にじみ、剥離、ぼかしなどが繊細に交錯する。
物の自然の生命の時間でもあるような経過を留めようとする。
また、それを裏付けるような水彩画でもあるということである。
和紙、韓紙のパネル張りに色鉛筆、ペン、ハケを交互に繰り返している。
日本画の手法にも似ている。
元来、そこいらにある色や道具は何でも使い、決まり切った道具や特別な物は
使わない。特別なものは自分で作り出したり開発するタイプであり、規制遺品
を使わないあたりにも現代作家の生き方を感じる。
10月12日(火)菊水堂絵画教室展

菊水堂絵画教室展(2010/10/1〜10/31)絵画教室で描いた作品の展示です。
この教室で一番長い勢山さんはこのところ油彩で”水仙”ばかりをおよそ
20点は描かれているようで、そのうちの2点を出品。
ファッションは原色が多く、自分ではケバイとおっしゃってるが、水仙は至って
シンプルで、今ではモデルなくても描かれてる。
徳永さんは教室がある度に一点は完成させるキャリアも長い人で、銀行や、
郵便局などで発表されてるベテランで、「樹木」と「メキシコ花瓶」の油彩の力作。
安西さんは、仕事柄出席は少ないけど、みんなの大事な仲間です。
ゆっくりだが、たのしんで取り組んでいらっしゃる。
今回は今までの作品のん中から”ミカン”の静物水彩画を出品。
松原さんは”ひまわり”のクレヨン画、といっても油絵のようです。
個展もよくされプロはだしで、来月には菊水堂と柳町郵便局の2か所で同時
個展をされる。
金さんはソウルと佐賀を行ったり来たりで、作品がなかなか増えませんが、
唯一の美大出身者。最近は基本からとデッサンをされており、「しいたけ」と「
ジャガイモ」の鉛筆デッサンです。
独自のスタイルを持つ松尾さんは”台湾のエステの女性”をユーモラスに
描いたポップ調の作品彩と抽象的な”干潟”の風景で、アクリルと油彩の混合。
秋吉さんは油彩、水彩画、”猫の置物””草花”静物などの5点。お仕事の
追い間に自分で選んださまざまなものを描かれ、ぐんぐん腕を上げられている。
中学生のもう一人の松尾さんは毎回奇抜な若者ファッションでおじ様お姉
さま方の目をたのしましています。おじいちゃんは映画の看板絵師だった
と言います。毎回デッサンに悪戦苦闘のようです。その苦心のデッサン
出してくれました。来年は美高の受験です。がんばろうね。
松本さんはまだ一年満たないが、急激な進歩。真面目に寸暇を惜しんで
取り組まれる。描写、テクニックを急速にものにされるのには驚きます。
タマネギとゴーヤの静物画。
田島さんは今回パス。
と言ったメンバーの作品約20点です。どうぞご覧ください。
いい加減なH先生とまじめな副先生(H氏)を大事にしてくれるみなさん
にいつも感謝してます。

10月6日(金)かわそえ佐賀田園の郷ギャラリー
S氏とM氏と3人で今月10月に川副支所にオープンした「かわそえ佐賀田園
の郷ギャラリー」にいく。合併で使わなくなった議会室などを改装しギャラリー
としたものである。
常設展は「川副町・4人の洋画家たち」として、故田原輝さん、深川善次さん、
吉田進一さん、大隈武夫氏、の作品計30点の大作が展示されてる。
重厚な厚塗りの画面が川副出身の四者に共通するようだ。
この画家たちの影響を少なからずボクら次世代も受けている。
明るく広くゆったりと佐賀を代表する四人の作品を堪能できる。
これだけの作品をを一堂に見られるとは贅沢かもしれない。
ギャラリーというよりは美術館である。
佐賀美術の穴場となるのではなかろうか。
ただ、土曜日、日曜日がお休みというのが、残念。
何とか土日も開ける方向で検討してほしいものだ。
筑波さんの写真展も開催されており、筑波さんが会場にいらした。
町内の方々が次々に見に来られていた。
大事に管理運営されることを願う。

9月24日(金)佐賀県展

そのに足で美術館へ「県展」を見に行く。
お客が多いのには驚き。
「絵画」以前に比べると当然だが、現代絵画的傾向にある。
一年をかけたみなさんの力作をじっくりと見せてもらう。
パターン化した亜流の人たちは自分自身を壊すことからだろう。
要は県展ごときにめげず、続けることである。
ボクの審査ではかなり違った結果となった。
「彫刻」は従来の胸像、人体ばかりでなくおもしろい現代彫刻がおおかったの
も今回の特徴。Cさんの息子さんの尖った金属の作品「organic sense 3」は
異色だったが、入選止まり、惜しい。
そこへ、館内を見まわる代表のHさんとばったり。
以前、「(県展が)民間になっても大丈夫ですよ、やればイイんだから」と言われ
てたとおり、今のところうまくいってるようだ。
いつも笑顔、妥協もあきらめもしないHさん。
「日本画」も粒ぞろい。
桜木淳子さんの柱に寄り掛かる男の子を描いた「ユメウツツ」は賞を逸してい
るが、わるくない。審査員には力み過ぎが不自然に映ったのであろうか。
「工芸」は有田の有名作家ずらりと並び、見ごたえがある。。
賞とは無縁に出品されているようで、他のジャンルとはちがった世界観の
ようだ。見渡して、「これは・・」と存在感に誘われ近ずいた作品「タンジール
の海」は、(故)真子さんの息子・淳也さん作であった。
「書道」気合いの一作であろうが、これがやっかい。字が苦手だから、引い
てしまうところがある。
工芸と同じく「これは・・」と見渡すが、びしっと響かない。
見えないのだろう。やはり苦手。
「写真」も凄い数である。出品者であろうか、年配の男女が多い。写真人口
を物語る。その中でも吠えるムツゴロウのカップルの写真「二重唱」は納得。
大変な労作に違いない。まさしく”シャッターチャンス”。写真というテクノロジー
の基本と応用が見事に結実している。
「デザイン」は相変わらずとも言える。
だれでも描けるし、描いたものは本来、イラストでありデザインなのだから。
そこにむずかしさもあろうが、グラフィックデザイン(ポスター)としての伝達
するインパクトがよわい。
緻密なペン画の立石さんの「混迷日本の牽引者」は繊細さ表現力などの
総合力で群を抜いていた。
浦郷慧人「豚インフルエンザの悲劇」顔面が腫れあがり、鼻血、涙目、
脂汗の豚さんが悲痛にもユーモラスである。多分Uさんの息子さんだろうが、
おやじさんのスタイルを踏襲しているようで(カエルの子・・)絵画的でもある。

疲れた。7部門ととにかく大量な作品数である。
佐賀県の文化芸術を現す展覧会でもある。
若い人たちが切磋琢磨する場所であってほしい。

だらだらとでもイイから貪欲に・・。 

9月21日(火)韓国てんびょう
長く佐賀を離れていたような体調である。
ケイタイが鳴る。
Sさんである。
園田(S)さんは写真展をイバでやっていたのだ。
夕方、ゆらりゆらゆら自転車で天神の路地裏へ行く。
園田さん、店主にFさんがいらした。
園田さんの写真展「韓国(からくに)てんびょう」を拝見。
今回はすべてモノクロの20数点である。
園田さんが一点一点説明して下さった。
韓国の路地裏、寺院、歴史的村などを撮ってある。
祈るカップルや働く露天商の姿もある。
狙うというよりはさりげないスナップである。
どこにでもあるようでどこかなつかしい切り取り方。
韓国、韓国見えないところがイイ。 
8月20日(月)フランダースの絵画
月曜日でもオープンしている美術館もある。
「フランダースの光り・ベルギーの美しき村を描いて」
を渋谷のBUNKAMURAミュージアムで見る。
ベルギーと言えば、ジェームズ・アンソールぐらいしか知らない。
ベルギーの近代美術が紹介されるのは珍しいのではと・・。
19世紀、フランダース地方の小さな村シント・マルテンス・ラーテムと
その周辺に都会の喧騒を離れて芸術家たちが移り住んだ。
田園地帯で生活し都会にはないおおらかでゆったりとした表現を展開しているが、
どこかものたりなく亜流なのである。
声として世界に広がっていないのも、そこいらの要因なのだろうけど、
都会を離れた自由人たちの田舎讃歌、田舎人としての強さもあまり
かんじられないのであったが、反骨的なジョルジュ・ミンヌの絵画と彫刻や、
農村を素朴に現す歌するギュスターク・ド・スメットのキュビックスな作品は
現代へと通じる強い表現であった。
9月19日(日)近代美術館フィルムセンター
大井町駅前の品川区民会館にS子さんを案内する。
「全国子供民謡大会」に知り合いが出演するというのである。
きんきら声の子供たちの精一杯のパフォーマンスである。
ボクは娘たちと合流すべく浅草に向かったが、初詣並のごとく人の多さに
うんざり、引き返すことにした。スカイツリーもそばに見え、再び観光客が
増えたのだろう。金とん雲が見えるAビールの川向こうまで人の波。
歩けたものではない。
京橋の近代美術館フィルムセンター辺りは閑散としている。
「生誕百年・映画監督 黒澤明」をフィルムセンター見にきたのだが、
館内は人でぎっしり。上映されるポルトガル映画の待ち客であった。
エレべーターで7階の黒澤展に行く。
発掘された戦前の無声映画がモニターに上映され、鉄の塊のような古い

撮影カメラがたくさん展示しえある。正しく活動屋である。
伊藤大輔監督「忠治旅日記」(日活大将軍、1927「昭2」年、無声映画)には
圧倒された。すでにエイジェンシュタインというか黒澤バリの活動が存在し
ていたのである。解説するよりは見るが早い。
小津安二郎監督「和製喧嘩友達」(松竹蒲田、1929「昭4」年 無声)もあり、
また、トーキーになってからの伊藤大輔「丹下左膳 第一編」(日活太秦、
1933「昭8」年)には喜劇風なユーモアがありたのしい。
一丸となってモノづくりをして大衆をよろこばそうとする活動屋の飽く
なき遊び心が伝わってくる。
そして黒澤さんのシナリオや推敲、絵コンテ、画材道具らを見て、
屋上の喫煙所へ、だれもいない。見えるのは隣のビルと青い空だけである。
ここで合流した娘たちも語気を強めて「よかった」という。
穴場である。もう一度来ようと思う。

9月15日(水)長谷川和子染色展
日韓交流展の会議の後、「長谷川和子染色展・庭の草花」をとねりこカフェで見る。
藍を主体に青、黒、黄土と余白の白が草花をデザイン化されている。
中央に一点ピンクのチューリップが鮮烈。
喫茶店内部が広くなったようにマッチしている。
多分、普通の家に飾った状態もこうなるのだろう。
糊でマスキングするだけに、切れ味は当然すっきりさわやか。
色の数だけマスキングをくりかえし、にじみ、ぼかしでバランスをとってある。
染色であって、絵画的である。
喫茶店であり、お客もいるという限られた具体的な現実空間に飾る場合、
諸々の一部として埋没したり、店の雰囲気と反発しがちである。
今までここで見た個展にもそれはないのだが、今回は大きい作品が展示
されているにもかかわらずステキな空間となっている。
作品のよさはもちろん、作者の準備と意図がぴたりと符合したのでは
なかろうかと思った。

9月14日(火)野見山暁治 展

天神に再オープンした「画廊 憩ひ」に行く。
店主のNさんもお元気そうで、広く立派に復活した画廊にあめでとう。
最初が「野見山 暁治 展」である。
版画展ではあるが、野見山 さんの佐賀での個展は初めてではないか。
画廊の方向性がちらりと見える。
今回の個展の為に創作された40種類の銅版画と10点余りの和紙のお面が気ままに並ぶ。
自由にありのままを感じ表現されてきた。
いつかどこかで見たり感じたことのあるような風景がおおらかに色と形になっている。
たとえばかつて、どこかの美術館で見た「階段で遊ぶ風」とか題名からして、
してやられたと思わさられるのだが、そこが感性、確かに階段の周辺には
そんな気配がある。というよりトトロの世界のように野見山さんにはあたりまえに
見えるのかもしれない。
作者の感性は、いつも自由で無邪気である。
かつてY新聞紙上、義弟の田中小実昌さんの連載エッセイにもたのしい
挿絵を描かれていた。
飾りっ気のない文章にも独特の味があり、エッセイ集も多数。本の装丁までされる。
天は二物・・どころではない。
90歳になられるというが、雲の上人ではなく、ボクもボクなりに遊べたらと思うのでした。
 

9月6日(月)多布施クリニック作品展
朝、エスプラッツへ「多布施クリニック 作品展」の飾り付けに行く。
スタッフとコスモスクラブのみなさん8人が準備をされてた。
絵画、書道、陶芸と作品の数が多いので配置がに手こずるが、人手は十分、
みんなでやれば大したことはない。
それなのに汗ダラダラのボクなのでありました。
2時間20分で完了。
広いフロア―いっぱいにゆったりと飾ることが出来た。
みんなの一年間の力作を多くの人たちがちらっとでも目にしてくれるだろう。
駐車場と本館の通路にもなっているから・・。
ボクがやる展覧会以上にステキなものがある。


8月28日(土)
ミュシャ展
朝8時過ぎに大和から高速に乗った。
Sさん運転の車に二人が同乗して北九州市立美術館へと向かった。
ボクと違いSさんは安全運転。
まだまだ暑い。陽が車中に差し込む。
高速道の山中はどこまでも似たような風景。
おしゃべりも延々と出来るものではない。
Nさんは後部席でおねんね。
昼、八幡に着き、市内を通って山の手へ入ると中腹に磯崎新設計の北九州市立美術館
が見えてきた。
30年前、今は無き某美術賞展の出品に来たとき以来である。
市立美術館のハシリであり、磯崎新設計だけに注目を浴びていたが、
交通の不便さなのか、30年ぶりということになる。
「アルフォンス・ミュシャ展」が明日までということで、はせ参じた。
チケットを買って入場すると行列である。先回りして空いたところから見るて逆戻りする。
照明が落としてあり、眼鏡も忘れたので小さい作品の細部が見えない。ということで
印刷物を見ているようでもあった。
大半は堺市のコレクションであるが、チェコの美術館などの作品もあった。
それでもボクが探している水彩画はここにはなかった。
入念な下絵を作ってから制作にかかっているところから考えるとボクが探している
(以前テレビで見た)水彩画もボクの勘違いのような気がしてきた。
完成作品の完璧さよりは下絵の方が断然現代的。
場内でカメラはダメだから、ソファーに座りチラシの余白にスケッチしていた。
見たような見ないような・・、それでも駆けつけていなければ、心残りにもなったろうから・・。
館内にあったロダンやブールデルの彫刻はイイ。
野外におかれていたフランク・ステラの巨大廃鉄のオブジェ・「八幡ワークス」は
八幡製鉄所なきあとの皮肉なモニュメントにも見えるが、今も美術館から見える
製鉄所そのものの内部を見たいと思ったのだが・・。見学させてもらえるのかな?

夜は、ストリートギャラリーの会合。
その後、あかちょうちんへ。映画の話で盛り上がる。 

8月27日(金)草茫々通信
Y女史にいただいたY女史主宰の『「草茫々通信」創刊号、三好十郎「峯の雪」
特集』を呼んだ。書き手はたくさんだが、16ページなだけに、直ぐに読めた。
文筆家の先生ばかりであるが、軽く書いてある。
「峯の雪」は読んだことないが、読まなくても皆さんの文章からなんとなく判った
ような気になる。
双子のお母さんになったばかりの古賀悦っちゃんは、赤ちゃんの爪をダイヤモンド
にたとえ「ホントに美しいもの」と「峯の雪」を透き通るように讃えステキだった。
御当地で文学にいそしむ人たちは秘かに多いのである。
いつのまにかほとんど本を読まなくなっていた。
昨年より金達寿著「日本の中の朝鮮文化史」にはまり」掛け持ちであまり興味も
なかった司馬さんの「坂の上の雲」に続いて「竜馬伝」を5巻まで読んだところで、
作り話はどうでもよくなり、ほったらかして「1Q48]をぱらぱらとめくっていたが、
今は古いパソコンのキーボードの上に3冊が積まれたまま・・。
「真空地帯」を皮切りに競って一日に何冊読めるかとやってた20歳のころが、
なつかしくも。
でも。読みたいとおもう本がそばにあるのは安心である。
たまたま点けたテレビが「河童のクゥと夏休み」。

絵が上手いので惹き込まれたが、ファンタジーもまた文学の味わい。
 
8月26日(木)二紀佐賀支部展
クリニックの帰りイバに磁場のお礼状を届けて、美術館へ。
二紀佐賀支部展を見る。
箕浦裕さんの駅のベンチに横たわる男・「駅男」シリーズがここになって現実味を帯びて
見えてきた。酔っ払いの風景としては一昔前の時代であるが、
モノトーンのグレーに包まれたホームのベンチの男には哀愁が漂う。
彩色や表現の工夫もあるだろうが、いやに新鮮なのだ。
塩月悠さんの作品は油彩、アクリルの女性の上に実際にレースのドレスや鏡の破片
や額縁の断片などが貼り巡らされている。
二紀にあっては意外な表現である。コラージュ、コンバインというとこで、
結末は金銀を使うしかない。光琳、クリムト、ボイスしかり。
金に勝るものなし。 
8月18日(水)磁場展
磁場展初日。二日酔いの川本さんとボクが平静をよそおい当番を勤める。
常連さんが次々と見に来てくださる。
近年、磁場の入場者が増えているのはうれしいことです。
さて、メンバーの作品を簡単に紹介しましょう。
 川本さんはS100号のアクリル画「現実と夢と」を2点。
前回とはがらりと変わって、赤がグリーンに、ガラスの破片やビー玉がビル群に変貌している。
フレッシュで若々しい。
作者の場所からのビル群が森や水を透して見えてくるのであろう。
題名よりはストレートに幽なる時空間が現出している。
また、アクリル一本の川本さんだけに、アクリルが美しいのである。
油彩でこうはいかないだろう。
 陣内さんは21点・大小の作品を花壇の様に配置して「中庭」にした。
偶然に生じる抽象的な色や形態に基本的な興味や好奇心がある人だが、
今回は淡く彩度が下げられ、植物の形態がフロッタージュされており、
化石の岩盤のようでもある。
彩色にはクレヨンを使ったというが、ノウハウは不明(訊いてない)。
 塚本さんはP150号・5点とM100号・3点の大作を出品。
本格的な個展とも言える。
ユーモラスな形や線になんとなく吸い込まれてしまうのも、オリジナルな
彼独自の下地や色があるからだろうし、余白と無骨な線が等価によりそいたのし
く自由な世界を生んでいる。
題名も「心は叫ぶ」「月影たのしく」「嬉しい心」「僕の中に」「自分の存在」など。
 中尾さんは例のひし形キャンバスに農夫婦を描いた。多分義父母であろう。
このところ故郷や家族や友を捉えることで自分の位置を確認しているようでもある。
ひし形の農夫婦の周りには、カエル、サギ、イヌ、アカトンボが
描かれた三角キャンバスが配置され「農讃」となるのだろうが、それではすまない
モノが隠されているよう。
 西村さんは毎回現場制作のインスタレーション。
墨で着色した和紙を昆布状にして、ブースの中央から放射状にブースの外へ
と伸びる形状を創った。「DON!」と鳴った花火を連想したのだが、
クモや巨大蛸が触手を伸ばしたようでもあり、日ごろのうっぷんを淫び
に晴らそうとする作者自身かも知れない。
 服部さんはベニヤ板5枚をつなげた4.5m×1.8mにアクリル。
その上に磁場のメンバー11人の顔を張り付け「磁場の11人」とした。
やりたいことが多くて、毎回ころころ変わるようでもあるが、
ただ、理屈なくドドーンと見えればそれでイイと、クリストの明快さを目ざしています。
 宮崎さんは今回控え目に1点。
白い画面の「線」の時代が長かったのだが、近年「色彩と形による」線から面に移行した。
白い画面に深紅の赤がショッキングピンクにも。
微妙な色の層の融合が醸す色と形の同時成立を同次元で可能とするのだろう。
 山田さんは以前旅した「桂林幻想」。これまた従来の「葦とサギ」シリーズとはちがう。
一見水墨画にも見えるが、アクリル画である。
アクリルで水墨画を狙ったとも見える、見方によっては不思議な絵であるが、
大自然を前にした一人の人間の悠久桂林の賛歌であろう。
 若林さんはF60号とパステル画の2点。
若林さんは20代のころよりずっと同じモデルを繰り返し登場させ描かれている。
ランプ、楽譜、小舟、扉、ガラスの浮きなど透き通るように繊細に作者自身
のように描かれている。心象風景である。幻想的に外へ
向かっていた題名も前回の「漂流」?から今回は「Home of a homeless」と
意味深よりも内部に向かっているところがちがう。
内と外をつなぐところに描くことがあるのだろう、いやつなぐために描くのかも
わからない。そこのところは誰しも変わるまいが・・。

長くなりましたが、ひまつぶし、ひとりごととしてごかんべんの程を・・。
磁場展の全作品は、表紙・磁場展にて公開してます。
8月12日(木)白景玄展

佐賀新聞を開くと早速、白さんの個展の記事が写真入りで載ってた。ありがとうございました。
同じ紙面の上方を見ると、Nおじちゃんの「私が選んだ 週間ニュース5」がこれま
たばっちり顔写真入りだが、もうこんなお歳なんだと、年齢を見て納得。

クリニックの絵画の後、多布施クリニック25周年記念作品展実行委員のみなさん
と会場となるエスプラッツを下見に行く。
絵画、書道、陶芸の展覧ではあるが、スペース、壁面は十分にありそう。
間が抜けないように大量の作品を用意しておけばイイ。
展示本番でいかようにもなると読んだ。

白さんの個展会場である美術館へいくと、みなさんお集まりであった。
白さんご夫婦はK・Cさんの案内で本日は温泉巡りだという。
そこそこお客はあるようだが、なにせ美術館にやって来る人が少ない。
けれども、白さんのために会場当番を引き受けてくれる人たちがいることはうれしいね・・
とかなんとか、適当なボク。
というより、学童疎開(経験ないけど)か夕涼み、停電の夜といった
風な時間が流れているような、ほっとするような・・みんな平等なのである。おわり。 

8月5日(木)マン・レイ展
ほどほどにオルセーを切り上げ、行列を横目にお目当ての別室にて開催の
「マン・レイ展」に入る。
当然並ぶ必要もない。見るにはちょうどいいしずかな人並み。
オルセーが高齢者ならこちらは100%若い人たちである。
ゆっくりじっくり見られた。絵画、デッサン、オブジェ、それに膨大な写真群の
マンレイの世界を覗くのは、わくわくとスリリング。
男と女の繋がりをチェスでもするように不思議がってる。
「・・カリフォルニア時代のマン・レイにとって最も重要な主題はジュリエットで、
愛情、情熱、そしてやさしいユーモアをもって
、彼女をスケッチし写真に撮った。・・」とあって、
「磁場の今回のテーマにも通じているよな」と思ったり。
マン・レイの思想が現代芸術のあらゆるジャンルにいかに浸透しているかが、
逆に見えてくるのであった。
マン・レイのレイ(光線、眼差し)は現代を透視する。

夜、渋谷へと出た。かつてのKさんの行きつけ、NHKそばの料理屋へ。
まだ客も我々だけ、そこで二枚目の店長は語り始めた「8月で辞めます。地方へ
の転勤を断ったら、あなたの仕事はありませんといわれたもので・・、」
「福岡で土建屋をやってた親父の仕事を継ぐつもりでしたが、倒産したので
東京で頑張れと言われ・・」
20年やって芽の出なかった役者時代のこと、そして現在、二人の子供が役者
志望の渦中にあることなどを、ぽつりぽつりと・・。
人生のドラマをもっていない人などだれもいないよね。
いつしか冷酒が五臓六腑にしみわたり、久しくふらふらに酔っぱらっちゃった。
大丈夫と言うのに、Kさんは遠回りして上野まで送ってくれた。
ありがとうございました。

8月5日(木)オルセー美術館展
上野動物園に行くがオープン前、しばらくして9;30・ゲートが開いて、親子さん達に続いて入場。
芸大の裏側になるなる森と池のZOOだ。ひさしぶりに入る。
足早に見てまわるが、カバ、虎、ゴリラは見ていて飽きない。
カバは自然の中にいるように豊満で色つやがイイ。
ゴリラはふにゃーと仰向けに寝たままで顔や姿態の全貌がわからない。
急いで上野駅にもどるとKさんが待っていた。
メトロを乗り継ぎ乃木坂・新国立美術館へ。
館内は行列のすごい人である。
50分待ちの「オルセー美術館展」。
日本人もアメリカ人も印象派が大好き。やっと入場しても人波にもまれる。
高密度の印象派展ではあるが、人の多さに見られたものではない。

8月5日有本利夫展
再び電車で目黒へ。駅から日陰を選んでとぼとぼ歩く。
コンビニで冷たい水を買い、歩いて10分こんもりとした森の中に庭園美術館はあった。
「いらっしゃいませ」と仁王立ちの門番(警備員)は「あちらでチケットを買ってください・・」
と低姿勢。
チケットを掴んで庭園をしばらく歩くと美術館が見えてきた。
朝香宮[あさかのみや]邸として1933年(昭和8年) に建てられた建物を、
そのまま美術館として公開したものである。
「有本利夫展・天空の音楽」。
ボクと同年ながら、若くして才能を開花させ、39歳で亡くなった作家だけに当時
より興味はあった。冥福祈りつつ絵の前に立つ。
天空シリーズのすべてが展示してあったとおもうが、心地よくは無いでもないが、
ボクのイメージとはかなりズレた。
表へ出て広い庭園の木陰でくつろいだ。
庭の芝には安田 侃の白い石彫モノリスが置かれている。
ミンミンゼミが時々鳴く。アゲハ蝶が日向から木陰へと飛翔する。
こんな森だとカブトムシだっているだろうと思った。
白い石彫をスケッチしながらうとうと・・。
ケイタイが鳴る。「遅くなりましたが、○日までに原稿をおながいします・・」と
明るい代理店のHさんであった。
おお、もうこんな時間か、しかし光と影のコントラストは尋常ではない。
8月5日(木)ヘンリー・ムアー展
朝起きたら、昨夜の服装のままベッドの上にいた。
「酔いは大丈夫か・・」とKさんから電話。
シャワーと食事を済ませ、上野の冷房の利いた文化会館に入り、何処に行こうか思案する。
芸大美術館の「シャガール展」に足が向くが引き返す。
西洋美術館の「ナポリ王宮美術展」もパスして電車に乗る。
東京駅で降りたということは、足はおのずとブリジストン美術館に向かっている。
途中塩ラーメン食ってからブリジストンの「ヘンリー・ムアー生命のかたち展」へ。
行列もなければ、チケットを買ってる人もいない。
ムアーの彫刻やストーンヘンジ、シリーズのリトグラフをゆっくりじっくり見る。
お客は僅かぱらぱら。いかつい警備員さんが各部屋にいるが、よその美術館の
ように監視しているという風でもなく気にならない。歴史伝統というか、
老舗ならではの観客にやさしい美術館である。
常設の印象派絵画も見ごたえがある。
オルセーにいかなくても、ゆっくりじっくり、顔面接触も可能。
新国立美術館、登場でかなり美術館地図は変わったようだが、
美術の流れを見たり、思いにふけり時間つぶしするにはモッテコイの場所。

8月3日(火)大昆虫展

両国の江戸東京博物館に来た。
その前に、駅の相撲茶屋で腹ごしらえとビール。
とにかく江戸は暑い。
「世界の大昆虫展」。
日本昆虫界の養老孟司、奥本大三郎、池田清彦、やくみつる、海野和男さんたち
がかかわった昆虫展だけによくできている。
子供よりも昆虫好きの大人が多いようだ。
海外の見たこともない蝶や甲虫の展示も半分を占めるが、
やはり日本の身近な蝶やトンボ、カブトムシに目がいく。
子供のころの友だちに会うような感覚であろうか。
それが高じた大人の先生方がまじめに、虫捕りをして、標本を作り、昆虫展を開いて
いるのだから、えらい。
よって、大人がたのしめる昆虫展かもしれない。

8月2日(月)大串亮平 日本画展
歯医者さんに行ってから人のいない佐賀ん街へ。
大串くんが日本画の個展やってた。
いつものように草木花野菜のオンパレード。
60点ぐらいはあるが、展示に工夫がある。
木組みの上に床と平行に作品を置いてあり、観客は宙に浮いた作品を見降ろす形となる。
作品は細密でありながらにさらっと描いてある。
ゴテゴテした画面が嫌いなのであろうか。中には標本画に見えてしまうものもある。
図鑑的絵がいけないいうことではなく、説明やきれいさ以上の何かがあればよい。
作者なりに試みはゆっくりとだが、なされているようである。
余白の間に対する強さもほしいところ。
横臥した人骨を登場させたのも、その顕われだろう。
体格同様、ばたばたせずにドンと構えてやっていることなら、申し分
ない。
7月27日 やっちゃんの一書展
NHKAZスペースで「やっちゃんの一書」が本日より開催であった。
藤瀬康寛さんは先天性のダウン症の小学6年生。
7歳より書道を始めたという。
のびのびと唄うようにたくさんの文字がリズムをとるようにはつらるとしている。
ボクのミミズさん文字では話にならん。
ボクもやっちゃんみたいに、おもいっきり書け場イイのだなと・・。
級友の女生徒が4,5人が鑑賞に来ていて、やっちゃんとスケッチブックに文字を
書いたり絵を描いたりしてにぎやか。
そばでお母さんがニコニコ。
やっちゃん、これからもたくさん書いてね。
ボクらが帰るとき、おかあさんにうながされ、やっちゃんはふりかえり「ありがとう・
7月27日 緑光展

美術館でも「緑光展」の初日。
従来の佐賀の絵画を踏襲し継続する団体である。
風景、静物、人物など大小さまざまな力作が並び。
同時に、緑光会主催の「親子スケッチ大会」の作品も並びたのしい展開となっている。
佐賀は「絵がすきな人たちが多いところだ」と改めておもう。
会場当番の田代利夫さんとみなさんの作品の感想など話していたのだが、
田代さんの裏話があまりにおもしろく一同時間を忘れた。
写真を撮るのも忘れた。

7月27日(火)探検美術館
隣室の3号室では地元作家の作品展があってた。会場をのぞき、ぐるりとまわるとなんと
、ボクの「鉛筆R」も展示してあり、びっくり。なつかしく、パチリ。聞いてなかったよ。
7/23(金)NHK BS-hi『ぼくはロックで大人になった〜忌野清志郎が描いた500枚の絵画〜』を見た。
清志郎さんは都立日野高校時代、美術部に席を置いていたらしく、その後も秘かに
ずっと絵を描き続けていたのであった。
何のてらいもなく 高校時代の延長のように無骨な筆致で描かれている。
自画像や静物、家族、友人、イラスト、スケッチなど素敵だ。
我流無心に抑制をきかせ色数多く、エネルギッシュな作品はゴッホ、ゴーギャンに
傾倒するのか、無心な我流は現代アートと言える。
インチキなタレント画家が目立つ中で、数少ない本物である。
人に見せるなど考えてもいなかったのだろうが、画家としての道も可能では
なかったろうかと思った。
欲張りではなかったのだ。彼の欲は愛であり、欲の無い男である。
高田渉さんとどこかで重なる。
「ぼくの好きなおじさん」は美術部の恩師。小林先生であった。
その縁で、最近は美術部のOB展にも出品し、出席していた。
小林先生は当時を振り返り「彼は寡黙に描いてました」と。
おなじく美術部だった三浦 友和さんも毎年OB展に焼き物を出品しており、
会場での小林先生と清志郎さん、三浦 友和さんらの集合写真が紹介された。
芸人でもない美術部員にもどった清志郎さんと友和さんの顔がイイ。
道はそれぞれ違っても無垢な美術部時代が何かと内省の支柱になっているのだろう。
ロック魂の背骨には絵画魂が詰まっていた・・・。
何を持って生きていたのか少し判ってくるようなイイ番組であった。
と同時にわが身を忌ましめられ、清志郎さん、ありがとう。 
7月20日(火)オランウータン
NHK・BS世界のドキュメンタリー「グリーン〜森を追われたオランウータン〜」
(制作フランス2009年)を見ていた。
インドネシアではパーム油製造のため、森林の伐採が進んでいる
運よく保護されたひん死のオランウータンのグリーンは施設のベッドで仰向け
に点滴を受けている。人のようであどけないが、目はうつろで生気はない。
ブルドーザー、トラック、チェーンソーがうなり、森林の巨木がばたばたと伐
り倒されていく。
パーム油やオーク材を消費する現代社会。
手当ての甲斐なくく、やがてグリーンくんは死んでしまう。
そして♪欲しいものを買いたいから働くの・・、もっと買いたいの〜♪と・と
現代社会を皮肉くるような女性シンガーの歌が流れた。
(その歌詞だけはNHKで邦訳されたとおもうが、ナレーションもインタビューも
無い映像と音だけの斬新な演出。

かつてテレビの「やらせ」が問題になっていたころ、
「ドキュメンタリーと言っても・・、真実ではない」と
ドキュメンタリー映画監督の原一男さんがテレビのインタビューに答えていた。
「カメラを向ける時点ですでに撮る側の意思があるわけですから・・」と。
今朝のS新聞にもイルカ漁で物議をかもした映画「ザ・コーヴ」についても
原監督が書いていらした。
上映反対運動の影響で上映が中止されるなど「たぶん、日本人の中にはずっと、
暴力や、暴力をちらつかせる権力に対して弱い性質がある」と前置きして「
ザ・コーヴという作品は、他の人も言ってることだが、ドキュメンタリーではなく、
よくできた娯楽映画、プロパガンダ映画だと思う」そして
「いずれにせよ、まず映画は見てから批判すればいいのだ。」と結んであった。
ボクが原文を読んでいるにせよ、こうして抜粋するにしてもボクの切り取り方
があるわけで、似たような問題が派生する。
本当は全文を載せるべきであるろうが、そうもできない。
引用は要点や要旨かも知れないが、あくまで部分であり、全体のニュアンスが
欠如したりと誤解を招いたり、著作権にもかかわる問題へと発展することも
しばしば。
ドキュメンタリーにしても文章にしても同じような性格を持つものである。
「表現の自由」も先々きびしいものである。
このようにインターネットで自由自在に情報を入手できる現代。
マナーは何も守ってはくれまい。
情報や規制や法律にがんじがらめになりそう。それでも生きていく人間。
地獄極楽。
森の住人・オランウータンを横目に。 


7月10日(土)雨の磁場怪
絵画教室の後、傘さして土砂降りの中を歩く。
水がはけきれず、足元の路上は洪水並。
わざわざ歩いていく人などだれもいない。
元々閑古な商店街である。
ビニール合羽の高校生が自転車で行く。
雨は嫌じゃない。特に土砂降りは。
傘さして歩く姿を多角的にキャンバスに置いて見る。
ナルシストである。
途中酒屋でビール買って、また、ひたひた、ジャブジャブ商店街を
北へ歩く。
そう、先日も酒館から傘さして土砂降りの中を帰った。
途中コンビニでアイスクリームを買って、傘のことなど忘れて
濡れ鼠状態で家へ帰った。
気持ちイイのだ。
何もかも全てを洗い流すような青春の日の昂揚がある。
出来るなら素っ裸になりたいくらいだ。
ビール下げて、傘さして商店街の2本裏通りを歩く。
通り沿いのドブ川の水位は低い。大きな鯉が川底を混ぜる。
不動のアオサギが小魚を狙う。
午後6時30分丁度にギャラリーIBAHに着いた。
時間に間に合った。
しかし、全員がそろうにはいつも1時間後だ。
MちゃんとKちゃんがいた。
雨だし集まりも悪かろうから、3人で呑みはじめた。
そのうちKさん、Mさん、Wさん、Cさんの順に顔がそろった。
欠席者3名。
来る人ごとにビールで乾杯。ビールを拒む者などだれもいない。
主のMさんが用意してくれた酒、肴もおいしい。
裸電球とクーラーの8畳一間は定めし江藤新平らの隠れ家・
密談の図。
8月の「磁場展」へ向けての恒例のテーマ(副題、コピー)決めである。
どこからはじまるでもなくすでにはじまっている。
美術の現状、世間話の中にもっともリアルなアクチュアリティの
言語を探っていく。
磁場においてはこの時間が最大の山場であり、言語を通し
今を語ろうとする文明論、社会論でもあると言ってよかろう。
ふるいからどんどん言葉が落ちて行く、一度落ちて浮上してくる
モノもある。全員に共通しもっとも今を代弁、象徴してくれる
言葉でなくてはならない。
Cさんが火ぶたを切った「ネオ・パッション」が一時は優位で
あったが、二転三転四転五転と・・言葉は現れ、はがされ
解体され、意味、概念がぐるぐるまわる。
ザザーっとまだ外は雨。
テーマ(副題)に合わせて全員が作品を制作するわけでもなく、
言わばテーマは現状認識の確認でありチームワークというものであろう。
ここ30年、一度としてテーマ(コピー)が評価なり受けるたことはないものの、
内輪的には重要かつたのしい時間なのであります。
「情念・きせき・情熱」に落ち着いたようだが、頭はもうろうとして定かでない。
気づくと深夜1時30分。思い出したように雨の中にでて同じ方向の三人は
タクシーに飛び乗った。 

7月9日(金)日洋展佐賀
恩師・吉田進一先生の会である日洋展を美術館へ見に行く。
画廊・研修室にはぎっしりと17人(一人、4,5点)の作品が並ぶ。
厚塗りの日展系の迫力が展開する。
吉田先生に手ほどきを受けたものの、ボクは厚塗り、筆のタッチの荒あらさとは
逆の方向を選んだ。
しかし、厚塗りは魅力。絵具そのものを画面に見る。
以前に比べると吉田先生の厚塗りも少しは薄くなったようだが、衰えは見えぬ。
大久保孝夫さんも強引に塗り込み一気に描き上げてあるように見えるところが現代。
強引さでいけば、宮原榮作さんの塗り込みは突出していて、
ホワイトには決断があり白そのものの絵具が輝いている。
時代を歩んで来られた方々だけに、日展的絵画とは言え、抽象表現主義、
アクション、コンテンポラリーの空間処理が内在している。
さすが、伊達にはとボクと流儀は異なるようだが、感心させられる。
出品者の多くが佐賀の有明海、河口、田んぼ、山などを題材としてあるのも、
この会の特徴か。
何もない佐賀の風景を瑞々しく広大に天高く謳ってある。
なのに、20代、30代の人たちの参加がないのはさびしい。
とは言え、ボクらの「磁場」も現状は同じ。
みなさんお元気、だから描いてるってとこかな・・。 

7月7日8(水)邦楽の夕べ午後、博多大濠公園の能楽堂にいく。
能楽堂に入るのはこれが初めて。
とはいっても能を見るわけでもない。
小児ガン基金のチャリティーで鼓、三味線の方々と市川亀治郎さんが
出演すると
いうのである。
建物の中に屋根のある能舞台があるという変わった構造である。
始まる前に用を足そうとトイレにいくとご婦人がたの長い行列。
男子トイレにもご婦人方の行列。
仕方なく、表に出て公衆トイレへと。
伝統芸能を愛する人たちか、知らないが、男子トイレまで占拠するとは・・。
礼節やマナーは一体どうしたんだ。まだ、その辺の若い娘たちの方が
イイのかも・・。
世の中見せかけやね・・と。
鼓の田中三兄弟と謡曲、三味線を鳴りものに着物、袴の亀治郎さんが
ノーメークで舞った。歌舞伎のときとは大いに異なり飾りっ気のない
真摯な舞踊に堪能する。
鼓の音と掛け声、笛には圧倒される。
クロサワさんが好きなのもこの掛け合いかもね・・。
三兄弟と亀治郎さんのトークがあるというので、芸能歌舞伎の話と
期待したのだが、小児ガン基金についての趣旨取り組みの説明とお願い
に終始した。
小児ガンの児童たちは復帰してからのアフターケアーに最もお金が
かかるとのこと。
まじめに取り組んでいらっしゃる心意気はよく通ったのではなかろうか。
亀治郎さんはじめみなさんお若いのにお話が上手。
邦楽、舞踊が身近に感じる一時でした。

博多駅で一杯やって家に帰り直ぐ寝た。
そして3時半に起きてドイツ対スペイン戦を見たのであった。 



2010年
5月27日(金)美術評論家の針生一郎さんが(26日午後0時2分、
急性心不全のため)川崎の病院で死去された。84歳。

佐賀にも何度か来られて、2回、ごいっしょさせてもらい、呑んだことがあった。
ほとんどが県展の審査員として来られ、県展改革のころでもあり、県に対しても不明な
点を文書にて質問されたりと、尽力された。
「最初から、あの作品が一席と決めてた・・」と言いながらビールを空けられた。なんと
ボクが出品した「鉛筆R」であった。
ある意味狙い通りの結果でもあった。
そして、安賞展の出品依頼が来たのだが、多分に針生さんの推薦だったろう。
その次にご一緒した時はかなりお酒も進み、「帰るのは止めた、もう一泊していくよ・・」
と言われ、ホテルを手配し、遅くまで呑んだ。
針生さんと江口彰さんとボクの3人だったかな・・。
そこへ帰郷展を終えた吉武研司君が入って来て「針生さん、大分入ってるみたいね・・」
と。
針生さんといろんな話をしたはずなのにほとんど覚えていないが、
ぼそぼそと興奮気味に語られる髭面がまだ昨日のようだ。
現代美術の復権、拡大、評論の先頭に立たれ、60年代、70年代、80年代〜と刺激的に
駆け抜けられた。ご冥福をお祈りします。
5月24日(月)凌先生のミニ金魚
奥歯に違和感があったからS歯医者さんにい行った。
歯が微妙に欠けてたらしく、そこを埋めて完了。15分。
最近は通うことなく一回で終わっている。
子供のころ苦労しただけに、おじさんになってからは早め早めに行くようにしている。
治療費を払う時に会計のS医師の奥さんに尋ねた。
待合室のコーナーに季節ごとにジオラマというのか、動植物のミニワールドが飾られ
ている。
繊細なミニワールドにはいつも感心させられ、こんな趣味の世界があるのか、どこか
で習っていらっしゃるのだろうと思っていたからである。
今回の作品は特に驚いた。既製品ではなく折り紙であった。
3ミリぐらいから3センチぐらいの金魚と鯉が箱庭の中に沢山飾ってある。
虫眼鏡で見るほどの3ミリの金魚がいる。
すべて「折り紙」であり、デザインも色彩も素敵だ。
奥さんは「ああああ・・ええーと・・」と照れながら受付から出てこられ、「普通の
小さなメモ用紙を4分の1に切って、ピンセットトで、折るんですよ」「頭の兜折りと
尻尾をつなぐのです」
「そして、マーカーペンで色をつけるんです・・」。
とそこへ、診療を終えたS先生もマスクを外しニコニコと出て来られ、「インターネット
で見たら金魚は200種類くらいいるようですね。金魚の事も知らないとダメでしょうね。
全種類作りましたよ」。
えっ・・!!??、先生が・・。
てっきり奥さんだとおもっていたいました。
「わたしは”何も”できませんから・・」
そうか、この繊細な技術は歯の治療に通じるものだ。
昔々からこの病院の池には金魚や鯉がいた。S先生が飼っていらしたのだろうか。
お手本があるわけでもなく好きなように独自に作られているという。
意外であった女性の感性と思い込んでいた。工作少年の熱中なのだ。
歯の治療の素早さ上手さの裏付けでもある。
これからも何が出てくるかたのしみだが、ときたま歯に不具合を起こさなければなら
ないようだ。
金魚の写真がないのが残念です。 

5月22日(土)磁場のパーティー
「川本達也さん長い間ご苦労さまでした。
山田直行さん、学長就任あめでとうございます。」
アートグループ磁場のメンバーでもあるお二人を祝してさやかな宴を某居酒屋で開いた。
大阪で個展中の塚本氏を除いた全メンバーが集結。
磁場も発足して30年が経つと思うが、誰も年月の詳細を把握していないのである。
ここいらで磁場の歴史もまとめておかなくてはならないようだ。
出席者全員が近況をからめ祝辞を述べ、主賓が返すという磁場のスタイル。
吉村誠さは「真子さんがここに下りて来ていらっしゃる・・」と真子さんを偲び。
「磁場」旗揚げ当時より助言、支援をいただいている舟さん、園田さんからはあたたかく
もきびしい提言を戴きありがとうございました。
海老原、古賀夫婦が半年の双子を抱いて飛び入り。
双子ちゃん誕生おめでとうございます。
本日、川本さんにも新たにお孫さん誕生で、あめでとうさんです。
宮崎大治郎さんは6月のソウル個展報告、がんばれ!成功を祈る。めでたいづくしである。
「そろそろ2次回へ・・」と西村幹事長。
気がつけば3時間30分が過ぎていた。
助言に押され、一人前になった「磁場」、東京へ殴り込みかけますか。
今日が終われば明日が来る。
明日とは、月日の今日のはじまりということ。
これからも口角泡を飛ばし、丁々発止といきましょう。
お二人のお祝い会であったのに、至らなかったところはごかんべんを・・、また、こちら
がはげまされ祝福されているような会でもあった。
主賓のお二人に感謝。若林さん、武藤さん、中尾さん、陣内さん、ご出席のみなさん
楽しい時間をありがとうございました。
これからもいい加減に、ずっこけながら、生意気に行きましょう。 

5月21日(金)ニュース3題
ピカソの絵画「ヌード、観葉植物と胸像」が5月4日、ニューヨークで開催された
競売のオークションで、
1億648万ドル(約101億円手数料込み)で
落札された。 芸術作品としては史上最高の落札価格。


巨匠たちの絵画盗難
パリ西部のパリ市立近代美術館が所蔵するピカソなどの絵画5点が何者かに
盗まれたことが20日、分かった。被害額は推定9千万〜1億ユーロ
(約99億〜約110億円)と発表した。盗まれたのはピカソ、マチス、モディリアニ、
ブラック、レジェの絵画各1点ずつ。


荒川修作さん死去

荒川さんの作品には惹かれた。大阪の国立国際美術館での個展はすばらしかった。
当時、県展に荒川さんを呼ぼうとしたが、未遂に終わったのは、今となっても残念。
最近は、絵画を超えて、哲学的な建築に向かわれていたようだ。
NHKの教育番組『課外授業 ようこそ先輩』では小学生児童を「天命反転住宅」
に招いておかし、たのしく指導されていた。
2010年5月19日、ニューヨーク市内の病院にて死去。73歳没。
ご冥福をお祈りします。 

4月28日(水)服部大次郎・水彩画展「G・ルシファ」
「服部大次郎水彩画展」もあった。
明日からということで最後の準備にてこずって、搬入が遅れに遅れて4時半になって
しまった。
江北町に新しくオープンしたかわいらしいギャラリーである。
オープンに先立ってボクに依頼があった。
少ないよりはマシだろうとウルフマン、漁村、田園の水彩画15点を押しこんだ。
小さい画廊だけど、梁むき出しの高い天井だけにまずまずであろう。
まだDMも宣伝もしていない。
場所も知られてないし、はたしてお客さんに来ていただけるのだろうかと心配ではある。
泣きそうな空が帰りには大雨となった。
4月27日(火)山崎正之のアート展
「山崎正之のアート展」佐賀県立美術館。
赤ニス(オークニス)を多用したセピア調の大作品が一堂に並ぶ。
鈍いメタリック感が展示空間を制圧する。
作品は、コラージュ、コンバイン、コピーらを駆使した重層であり、物体としても
捉えられる。
ここ10年ぐらい取り組んでいる「漏斗(じょうご)谷村・・」シリーズは深い情念の集積、
時間という歴史の構築であろうが、怨念と置き換えても許されるであろう。
福岡と佐賀の県境の三角州が大詫間であり、そこに保存される葦葺で馬小屋もある
推定100年以上の山口家住宅のことである。
屋根の排水様式が漏斗の形であることから「漏斗造り」と呼ばれる家である。
作者の背景にはその漏斗谷村があるが、決して横溝小説の世界ではない。
作者の精神が風説に耐えしのぶ漏斗谷とかさなるのであろう。
そこの写真コピーが幾重にも張り付けられ、刻まれ、木材、金属がコラージュされ
オークニスでベールがかけられる。
漏斗谷村へのオマージュでもあり、作者にとっては起つ位置でもあるのだろう。
推測は止めにしてと、意味を見出さなくても絵画としての強さ美しさが備えられており、
十分にアートなのである。
描くことだけではままならぬ現状をコラージュする中で、より具体的な手ごたえが
感じられるにちがいない。
それは、従前の方法論ではない。作者の失望の中に見えてきた脱出装置である。
それらが上手く交錯、作用すれば、絵画として成立し、迫力という感情がうまれる
のである。
極新作はボッティチェリの 「ヴィーナスの誕生」と「春」を原寸大コピーした
コラージュ作品で、漏斗谷村シリーズとはがらりと変化して、おどろおどろしさが
消滅している。
漏斗谷村シリーズに既にあった一部の手法を取り出し拡大している。
大小さまざまな「ヴィーナスの誕生」と「春」のカラーコピーをコラージュし、
マスキングテープで覆うというもので、テープからぼんやりと透けて見える部分と
コピーそのままの部分とが心地よい諧調を醸し出している。
コピーとマスキングテープとのコラージュであり、作者の直筆はないものの、上手
く成立さしているだけに新たな表現である。都会的センスなのである。ボッティチェリ
を借りて発展していければというところであろう。
60年代後半からの現代美術に翻弄され揺れながら、絵画をも自分をも見失う事も
あったろう。
しかし、自分には「絵画がある」と起ち上がるときからが、本物なのかも知れない。
そこから生まれたご当地では非常に異質な自分の世界をもった作家である。
遅いとも言えるが、50代60代は鼻たれ小僧とも言うし。
「六本木クロッシング2010 芸術は可能か?」と並ぶ現代の感性が充満し刺激的な
この春最高の「山崎正之アート展」であった。 
4月26日(月)六本木クロッシlシング2010

六本木ヒルズの森美術館に行く。
52階の展望台回廊からは、東京タワーが眼下に見える、
足元が高層のビル群に覆われたひまわりのようにだが、意外にも、
オレンジ色の鉄骨タワーは貧弱どころか、気品さえ備え美しいのだ。
「六本木クロッシング2010展 芸術は可能か?」を見る。
森美術館んの企画展で3年ごとに開催され、今回が第3回展である。
国際的にも活躍する30代〜50代の20組による写真、彫刻、インスタレーション、
映像、グラフィイティカル・アート、パフォーマンス、など全く違う作品同士が互いに
刺激しあい交錯する。
エンターテインメント性のある作品が多く選ばれたようだ。
職人的でもあり日曜大工的でもあり、妥協の無い制作欲が、そのボーダーを限りなく
可能なアートへと開花さしているようだ。
時代は確実に動いている。
45年前に見たソニービルでの「人間とテクノロジー展」の衝撃からすれば、そこ(
六本木クロッシング・・)に不安はみえない(見えさせない)。
ペインティング、写真、映像、ビデオなどを日曜大工でもするかように、宝箱、工具箱、
ジャンクボックスをひっくり返し、そこから好きなものを組み合わせて遊んでいる子供
でもあるのだろう。
複雑な世界(日常)が統制されアートの地平をストレートに見せている。
もちろん、アートは可能である。
久々の感動に、そこから立ち去る事が出来なかった。
感動とは「うーん」と立ちすくむものではなく、」うれしく笑ってしまうもののようだ。
☆加藤翼の「H.H.H.H」は巨大ボックス(ハウス オブジェ)を数十人でロープを引っ張り、
グランドや路上で回転さすことで形を変える(かなり危険そう)プロジェクトも
一点集中型で雲一つない晴天の青空のように爽快。
☆HITOZUKI(日と月)の『The Firmament』は一部屋を黒とブルーでペインティング
した巨大なインスタレーション。巨大銭湯の壁絵にも感じるローラースケート場。
制作風景と実際にこの上でスケーターが滑ってる映像もながされている。
とにかく圧倒される大きさである。
☆宇治野宗輝のサウンドスカルプチャー『THE BALLAD OF EXTENDED BACKYARD』。
今回、ボクの一押しの作品である。
巨大なロボットのようなAV装置と自動車が立ちはだかる。
ほとんど手作りのアンプ(中には茶箱を使ったものもある)が5段にも積み上げられ、
鍋、エレキギター、インパクトドライバー、パンダのぬいぐるみ等が張り付いている。
前でしばらく待っていると、これら付属の部品ががリズミカルに動きながら車内では
詰め込まれた蛍光管がカラフルに点滅しドルビーサンドをたたきつけるように奏で、
実にたのしい。コンサート会場でもゲームセンターでもない美術館なのである。
ティンゲリーの動くオブジェ、大竹伸郎の音響オブジェハウスを想起するが、
怪物AV装置とイイ音響とよく、これぞ取りつかれて時間を忘れた飽くなき工作少年。
時代も未来も総てが内包されまた発散されており、今回の「六本木クロッシング2010展 
芸術は可能か?」はこの作品の為にあったのではないかとさえ思ってしまうのであった。
☆無数の反射板を張り付けた☆鈴木ヒラクの巨大オブジェもただただ圧巻、美しい。
☆無名、無題(名前のイニシヤルのマークだけなので取りつく島もない)の
さまざまな宝物(コレクション)を床から天井まで陳列してその下に不気味に人形の
人間が布団にくるまっている。作者名がマーク。作品名もマーク。と存在を消した
作品主義の現れか?好きだな。
そして、アート界の重鎮☆森村泰昌は、ヒットラーに扮する映画「チャップリンの独裁者」
のチャップリンを真似する『なにものかへのレクイエム(独裁者を笑え 
スキゾフレニック)』の映像を展示。とにかくおもしろいおじさんである。
(東京写真美術館でも氏のモノマネ展が開催中であったが、月曜休館で見られず)。
☆最後の部屋を飾るのは、伝説的なパフォーマンス集団☆ダムタイプの
公演『S/N』の記録映像(85分)であったが、上映時間外であり、残念。次回に見よう。
展覧会タイトルの副題になっている「芸術は可能か?」という言葉は、
「ダムタイプのメンバーで、エイズによって他界した古橋悌二によるものです。」
とパンフレットにあった。

別室では併設展として「ジュール・ド・バランクール展」も開催中だった。
NYのアートとシーンを代表する作家の一人。純然たる平面絵画ではあるが、
「一点における絵画の強さ」「現代性」をまざまざと見せつけられ、絵画の可能性も
「YES」であると笑えて来た。※写真は宇治野宗輝氏の作品など。

ここを出てついでにと階下の「ボストン美術館展」を見るが、観客でごった返しており、
ゴッホ等印象派に集中して退場する。
それに比べ「六本木クロッシング2010」は混雑することもなく、ゆっくりと鳥や草花
にはっとしたり、ほっとしたりするような山歩きにも似てうれしくもたのしかった。
※写真は「六本木クロッシング2010展」よりHITOZUKI作品 

4月9日(金)旅で出会った風景と人物展
松尾長己・旅先で出会った風景と人物展(柳町郵便局にて4月30日まで)
松尾さんは多芸な方であるが、絵に関しては抜群のセンスをおもちのようである。
1年前まではここ柳町郵便局の局長さんであった。
本来大柄頑丈な柔道マンでいらっしゃるが、持って生まれた文化的素養は黙って
いないようだ。
近年海外のあちこちを頻繁に旅行されており、そこでスケッチまでされるというから
なかなかなものである。
イスタンブール、ベトナム、香港、マカオ、プサン、台湾、タイなどの風景と人々の
水彩スケッチてある。
路上や食堂の人々がなんのけれんみもなく描かれている。
「今は風景よりも人を描くのがたのしくて」と・・。
ポップな色づかいも独特ですでに松尾カラー、松尾スタイルといったところである。
はがきサイズ48点と3号サイズ・13点の全部で51点が局を訪れる人たちに微笑んで
いるようでした。 


4月2日(金)栗山泰文絵画展
漁港で寝ていたら、電話が鳴った。
「栗山です・・・」
「栗山泰文絵画展(村岡屋ギャラリー)」を見る。
30年ぶりの里帰り展とのこと。
以後も佐世保に移り独立展に出品されていたとのこと。
壁を重層させ、その上に鳥、犬、花、風景らが配置された言わば、レイヤーを重ねた
ような心象風景であろう。
この方式自体に新しさはないが、小作品では重なった岩や、裂け目がクローズアッ
プしてあり、焦点がより絞られているようで、今後の先き行きが見えるようだ。
道に終わりはないけれど、時間は待ってはくれない。
団体に所属していようが、フリーであろうと、独自性がどれだけあるかに係ってくる。
栗山氏との会話がはずんで、写真、撮るのを忘れてた。

4月2日(金)行動展 佐賀
行動展(佐賀)県立美術館。
130号〜200号の大作ばかりがずらりと並ぶ。
広島巌さんは例の如く昭和の一風景を戯画的に執拗に描かれている。
冬の薄暗い床屋の風景である。
ストーブでほのかに赤い待ち客の顔。
革のベルトで研ぐ剃刀とその理髪師の眼が妖しげに光り、さだかし、禁断の手術室
とか女郎部屋といったアンニュイな時の流れ。
下平武敏さんは平板な板目の上に絵馬のようにその土地の伝承祭事が展開された
平面絵画であるが、同時に絵馬、案内掲示板と見せることで、
平面性を回避しようとする「現代性」がコンセプト、思想でもあるようだ。
大きさが見せる迫力というものもあるけれど、このご両人はサイズ云々よりも執拗に
具象でもって具体化してあり、さすがである。
秋の本展へ向けて、それぞれがそれぞれにがんばっていらsっやる。

 3月29日(月)徳永・勢山 二人展
午後、柳町郵便局に「徳永真里子 勢山恵美子 展」を見に行く。
サムホールクラスの花、静物等の小作品・14点が並ぶ。
徳永さんの静物画と勢山さんの水仙シリーズはしっとりとした大人の感性と色彩の
饗宴である。
徳永さんは「栗」「ひまわり」「樹木」「絵具のチューブ」「水仙」「静物」など身近なものが
躊躇なく描かれており、完成度も高い。
目の前のモデルと対峙し、一筆一筆丹念に「素敵な絵になぁれ・・」とつぶやくように、
繰り返し塗り重ねてあるのが伝わってくるようです。
勢山さんは「水仙」5点と「アジサイ」「ミニ薔薇」「花」を真正面から画面の真ん中に配置し、
勢いよく一気に描いてあり、可憐な花も堂々と。
同じモチーフ(モデル)に焦点を当て繰り返し描いてみようと水仙に
取り組まれたようである。一点の水仙の絵を見るのとはおのずと変わって来る。
好きだから、おもしろいから描くというのも当たり前のことであるけど、それだけでは、
おもしろくもたのしくもなく、また続かないものである。
繰り返し訪れる迷いや壁。それを乗り越えたところにおもしろさもあろうし、そこに見る
側のたのしみ・共感位置もある。
強引に個性的に押しまくる表現もあれば、ゆるやかな個性、我を抑えての表現もある。
ピカソもダリもポロックも個性的という点では役者だったかも知れない。
演じてでも尚、持続させようとするか、否かである。
誰もがピカソ、ダリであり、そうでもない、二律背反の関係。
大見えを切らずとて絶え間なく障壁は訪れる。
キャリアも長いベテランのお二人。何よりも日々の延長線上で煩悩も霞も無きように
たのしんでいらっしゃるのには感服します。
ややもすれば見逃しそうだが、、すがすがしくカッコいいゆるやかな個性の展開でした。
そして久保泉へ・・  
小川康彦染色展」村岡屋ギャラリー。
干潟の有明海が一瞬見せる原色をおおらかにとらえてある。
大きな三日月が4色の色を放っている。
太陽の光による干潟の風景は刻々と変化するも、色彩としてとらえるにはサービス
精神に欠ける。
心眼で体感する部分であろう。
でなければ写真で済むが、その写真にも豊穣の有明を写すのは容易でない。
この道に入り半世紀以上、有明を描き続けてある。
有明海がもつ魅力はある。確かにある。しかし、その魅力は現場でもまず見えない。
だだっ広く無彩色の干潟があるだけ。
畏敬や愛おしさを抱くにはあまりにも泥色、手だてなく無味。
そこに見える、見えてくるという衝動が創作となる。
「ほら見えてるじゃない・・」とたまに他人に言われることがある。自分が他人に言っている
こともあるようだが・・。
幽霊が見えてるわけでもなく、トトロの森が見えているような事かも知れない。 
3月22日(月)さがよかとこ発見解体新書初版本今日は春分の日
の振り替え休日の月曜日。
朝から野中烏犀園の前がにぎわっている。
ほら、やっぱり今日までなのだ。
ならばとビデオカメラ持って見学に行く。
源ちゃんが陳列ケースの後ろに側に立ちお客さんを前に説明していた。
日本に2つしかないという初版本の解体新書がちょこんとケースの上におかれており、
雑誌でもめくるようにして説明されていた。
くる人来る人の同じ質問にも丁寧に答えてあった。
出し惜しみない話も実におもしろい。なごやかな時間に烏犀園さんの懐の深さを感じる。
先先代の萬太郎翁もボクら悪ガキに空き家を解放し子供図書館にしてくださったし、
屋敷の庭を常に解放してくださって、そこで僕らはよく遊び、それらすべてが自然な

勉強でもあったのだなと。
土蔵にはまだ手つかずの物品、古文書や書物があるそうで、まだまだ何が出てくるか
わからない。
有名なところでは青木繁の絵画、谷文晁の襖絵数枚が発見され美術館に依託されてる。
兎に角初代・萬太郎さんは第一回パリ万博に行かれた人であり、歴史と美術品が現在に
受け継がれ、蔵は歴史を今につなぐ宝の山でもあるようだ
犀の角は熱さましに効くそうで、以前は犀角を削って烏犀園(特効薬)にまぜていたそうで
あるが、ワシントン条約でそれもできなくなり現在はブラジル牛の胆のうをだいようされて
いるようだ。
犀角5本が展示してあった。一本300万円とかで、10本があるとのこと。
短くなった犀角の付け根の部分は「馬上杯」になり、遊び心の彫り物がデザインされてる。
野中家では新年のおとそは馬上杯でいただくそうである。
数々の馬上杯、印籠などがごろごろ。
子供のころその蔵へ入ってよく源ちゃんと遊んだものだが、信じられない
不思議な気持ちだ。
当時は他にあと二つ蔵があった。解体新書の表紙のようなカラーのチラシが分厚く
その蔵の中にあったのを人体の不気味さと重ねて衝撃の記憶である。
近所のおじさん、おばさんも見学に来られており、昔話となるとなる。
ボクらの世代だけじゃなく、年配の人たちも烏犀園さんの庭では悪ガキであったようだ。
高校の時の担任であった小林先生も見えていた。
「昨日も来たんだけど、中国の古い字体で書かれた看板がある烏犀園さんの
全景写真が、置いてあったので、その写真を撮らしてもらおうと・・、それが今日は
おいてない・・」
と言われた。
県外からも多数お見えだ。どんどん人が増えもう中に入れなくなっっている。
源ちゃんと奥さんとお母さんの3人でお客さんの応対をされており、ごはん食べる
ひまもないだろう。
「暇になったら尋ねてみよう」と小林先生は言われていたが、どうだったろうか
3月22日(月)さがのよかとこ発見と名うってお雛さん会場から100メートル
ほど離れた長崎街道沿いに烏犀園さん初め、かつての大店3軒でも珍しい展示が
おこなわれている。3日間だけであり今日が最終日であった。
知ってはいるけど、我が家の前でこんな貴重な素晴らしい美術遺産の品々を目に
出来感動した。ありがとうございました。
「足元にある」って本当なんだ。
源ちゃんも今夜はお酒がおいしかろう。お疲れさんでした。
3月21日(日)解体新書初版本佐賀城下ひな祭りの一環として3日間だけ、
ご近所の野中烏犀園さんにて所蔵の解体新書初版本が公開されている。
(初版本で現存するのは日本で2冊とか)。
朝、人の出入りがあり、ボクも覗いてみたが、なんと烏犀園さんの土間は入口まで人で
あふれているではないか。
昨日テレビの中継車が来ていたから、そのテレビを見た人たちがおしよせたの
だろうか・・?
ご当主の源ちゃんが自然なしゃべりでいろいろ説明されていたが、それがおかしく笑いを
とっていた。
しかし、あまりの人の多さに前に何がおいてあるかわからなく、暇な時に見せてもらおう
とその場を離れた。
そして、ぶらぶらと気がつけば多久に来ていた。
無人の産直品販売所に一袋100円のワラビが5袋残っていたので、全部買った。
以前は山に入ってたくさん採ったものだが、ヘビやマムシにも出くわすこともあり、
今は買うがよし。
家に帰って、S子さんが言うには「烏犀園さんの展示は今日までだったのよ」と・・
あじゃパー。
ご近所のことだしなんとかなるでしょう。
 
3月20日(土)大隈武夫展と北高卒業制作展
美術館へいく。
「大隈武夫展」は大隈さんの里帰り回顧展というものであろう。
初期の樹木シリーズには「二科会」特有のスタイルが見られ、改めて大隈さんが二科の
人であると思いなおすのであるが、重厚な凄みが際立っており、ガジュマル、
インドシリーズへと開花していくのであった。
「佐賀北高芸術コース卒業制作展」と同高校の「ペタ展」も見る。
会場にには芸術コースの下村先生がいらっしゃった。
いつの間にか女子ばなかりになったようで、男子は数人とのこと。
想像力豊かで開放的年代ではあるとおもうのだが、受験もあってのことか、
そろいもそろって美術を狭く窮屈にしているように見える。
既成のカラをいかに破壊し自由になろうと、あがきもがく姿が見えない。
当時の自分をおもいおこしても、いずれにしろむずかしい年頃ではあろうが・・。50,60は
鼻たれ小僧か。  
2月9日(火)近代との遭遇昼前、県立美術館へと行く。
混んでるかとおもったが、意外にも会場はガランとしている。
イギリスの産業革命が背景にある。
列強は海外へと市場を求め、侵略、植民地化へと動き、世界戦のようそうが色濃くなる。
アジアでも新しモノ好きの日本も例外でなく、列強に負けじと西欧への売り込みと文化、
近代思想を手に入れようと動き出している。
薩摩藩英国留学生写真(慶応元年・1865年)に小学生、中学生とおもわれる幼い顔
がある。薩摩国の未来を担う優等生ということであろう。
旧佐賀藩主・鍋島直大らが百武兼行ら留学生といっしょに写った
写真(明治14年・1881年)には幼い顔はないが、藩校・弘道館を軸に岩倉使節団の
一員として欧米を視察た久米 邦武がいて、その長男、久米桂一郎がパリへ留学
するという図式と見た。
じっくりと見るにちょうどヨイ資料の展示であったと思う。
資料ばかりだと疲れるってのもあるが・・。
小学生の団体が入っては来たが、波が引いたように次の部屋へと消えた。
次の4号展示室にはその当時の留学生等の絵画作品がある。
もう、小学生たの姿はない。
ヌードの絵の前でどんな反応するか、見たかったな・・。
それらの西洋画が今日の佐賀の美術、日本の美術のサキガケとおもえば、
なつかしくもあるが、学ぶ(まねぶ)のに必死の画学生であり、時代であったのかと・・
距離がちじまらぬ。
思想も産業も工業も美術も明治の先達によって学び、今日につながってるということは
見えるのだが、何かを見落としたのか・・。
その時代の、歴史なり背景を前もって知っておくというのも必要かも・・。
 
2月17日(火)「小杉 奘太 隆治 父子展」村岡屋ギャラリー。
父・奘太さんの澄み切った海外の風景画と息子・隆治さんの魚などの動物の焼き物が
渾然一体と並んでいた。
さぞ、なかよしの親子なのであろう。
たのしい展覧会でした。 
2月8日(月)池田学くん
、BS3のクイズ番組「迷宮美術館」を見る。
普段から好きな番組だが、今回は佐賀北高芸術コース出身の池田学くんが登場する
とあって、たのしみに待ってた。

ペンとインクで一年以上をかけて大作を仕上げる池田くんは、ひょうひょうとして
いつものようににこにこしていた。

ここまでやるアーティストは後にも先にも彼しかいないだろう。
池田くんの恩師である金子剛先生を通じて、ボクも何度か接触したことあるけど、
悪びれず、ひょうひょうとして気さくな青年である。
テレビでも制作の実演を見せてたけど、実際のところは奥さんぐらいしか知らないだろう。
芸大受験の時、学くんが煙管服の背に「佐賀北高」と書いて受験した、とういう話は
知る人は知ってるけど。

「佐賀北高」を背負い、3年間教えてくれた金子先生を大明神として臨んだのだろう。
それを聞いたとき、彼はすでに表現をしているとおもった。
カラーインクを並べ、一本のGペンでいきなり描いてく。
たったこれだけのことです。なんの大げさなこともありません、と種明かしのように
見せるあたりも、上手い。すでに日常を表現として生きているようで、感心させられる。

日8時間描いても、10センチ四方しかできない言う。
どんなことでも、どんな条件であろうとやることだけはきまっているのである。
とにかく道は困難、あっという間でもある。

きっと世界へも羽ばたいてくれるだろう。
2月7日(日)服部大次郎の佐賀の伝説展 最終日
昼から会場へ行ったら、たくさんの人が芳名してあって、
終日満員で、駐車場待ちにまでなった。
今回は伝説のクイズが当たった。わからないものである。
クイズを解き、感想まで書いてもらい、クイズボックスはいっぱいになった。どれだけ
クイズ用紙を用意してあったか知らないが、最後の一枚が原口総務大臣のお母さん
だった。
スタッフ全員と記念撮影をしてから、作品のかたずけをした。
手慣れたアートの友人たちがいてくれるので、搬入も搬出も早い。
村岡屋さんのスタッフ、広告センターのスタッフのみなさん、ありがとうございました。
6年生の時、盲腸で入院し病院を出て行くときのような気持ちではなかったろうか。
入院と言えばそれしか知らないもので・・。
そして、友人らと汗流しのつもりが、それを通り越して汗かき会になってしまった。 

2月6日(土)服部大次郎の佐賀の伝説展5日目
遠方より1時間以上かけて、歩いてきたという中学生のまごさんとおばあちゃん。
はるかかなたより自転車で来たという71歳の御婦人。
県境より孫とバスを乗り継いで来てくれたアラ還団塊のおじさん。
ありがとうしか言えないけど、身が引き締まりました。

土曜日とあって、お客さんがおおい。
最高時には20数人のお客さんで会場が埋まった。
子供づれの若い夫婦、孫を連れた団塊世代お爺ちゃんが多いのも本日の特色か。
子供たちが興味を示してくれるのには、素直にありがとうだね。
反応、ご批評もまずまずで、手ごたえを感じてイイのかも・・、いやいや・・。自分に
関しての饒舌はご法度でなければ・・。
明日もよろしく頼んます。 


2月4日(目)服部大次郎の佐賀の伝説三日目
みなさん、食い入るように一点一点見て下さる。
仕方なく見ている振りをされているのだと、最初はおもっていたが、
そうでもないようだ。ありがたいことです。
パソコンで制作しプリントアウトしたものだけに、後ろめたく手描きの風景画なども
展示したのだが、見る人にはあまり関係ないのかもしれない。 

2月2日(火)服部大次郎の佐賀の伝説初日
オープニングのテープカットがギャラリーで行われた。
出席の方々からありがたい言葉をいただき恐縮、感謝であります。
閉店6じまで、お客さんが絶えなかった。
今日もみなさん、ありがとうございました。
2月1日(月)服部大次郎の佐賀の伝説 飾り付け
さがの伝説展の飾りつけをする。
みなさんの協力で伝説の絵24点とその他7点が立派に展示されたと思う。いよいよ
明日からとおもうと緊張するものです。夜、手伝ってくれた友人たちと呑む。 

大塚清吾のシルクロードふたたび写真展」エスプラッツ2F 1月。
自転車で出かける。ペダルのあたりがガシガシかわいた音を出す。
油が切れているのだろうと・・自転車屋ではなく画材店に立ち寄ってからエスプラッツへ。
2Fのスペースがすべてシルクロードの写真で埋まっている。
かつて大塚さんが、NHK特集「シルクロード」で写真班として同行したときの写真と
井上靖さんとの取材写真の数々、200点超。
極一部ではあろうが一写真家(フォトジャーナリスト)の展覧会でこれだけの数の
写真を見るのは他にない。
部分的にはこれまで何度と見させてもらってはいるのだが、今回シルクロードの
全貌が見え、地理的にも辺境未踏の地を旅されたかとおもうと圧倒された。
夜の巷で御一緒する大塚さんとは別のもう一人の大塚さんのようでもあるが、
これが大塚清吾さんの世界である。
他の人たちの企画展も数多くこなされているだけに、展示方法には抜け目がない。
写真のほかに山ほどの書籍(本人著)、資料、地図を配し判り易くしてある。
今回、目を見張ったのが絵画でいう120号ぐらいの大きさの布に引き伸ばし印刷された
(およそ10点?の)写真である。
35ミリをデジタル化したとのことで、数100倍に拡大されても細部までくっきりとしており、
大きいだけに一目瞭然というのがイイね。
「敦煌 莫高窟」の「飛天」など色鮮やかなさまざまな壁画は絵画的にもイラスト的
にも現代絵画に通じておりすばらしい。
「こんな勢いのある線を描ける日本の画家も少ないよね・・」とかつて大塚さんが
言っていたのをおもい出す。
大塚さんのコレクションで「貝葉経典」も展示してあった。
葉っぱを平らに引き伸ばした板状の紙ににニードルで経文が押しつけてある
分厚い紀元前の経典という。これだけでもスゴイ。
デジタル化で写真の保存、拡大、修正もはるかに可能になっている。
大塚さんはそれを自分でやっておられ、120号代の作品は読み込むのに30分
かかるというデータで200GBには驚く。
ボクの外付け1個分。
写真家のS田さんによれば写真をやる人は多いけど、最後のプリントに関しては
写真屋さんまかせが多いそうであり、希望者があれば作者をそばに置き色調整を
してあげたいとおっしゃってたことがあった。
微妙な部分に関しては絵でも写真でも作者が一番気になりこだわるところ。
そこまで判った専門家もなく、頼めば膨大な資金が居るし、自分でやるしかないとは
大塚さん。
デジタル化は自分で操作出来てこそ思い通りとなり、安上がりでもあるということになる。
さて、大塚さんがシルクロードを通して伝えたいのは仏教であり、美術であり、
アジア、日本へと伝わりつながる気宇壮大な歴史のながれなのであろう。
背景にあるのは永久の歴史である。これでも伝えきれないという歯がゆさが
大塚さんにはあるにちがいない。
大塚さん1個の肉体と頭脳には、はるかなる時間と貴重なデータが記録されてる。
※詳しくは大塚清吾ホームページへ。
※掲載写真会場風景は作者の許可のもとに撮らしてもらったものです。
受付嬢の前に立っている人が大塚さん。 
1月9日 (土)新年の黄美展
「2010黄美展」唐人町の<アトリエ桃の蔵>
城島染物店(牛津)の唐人町支店。
店舗の2階と3階がギャラリーになっている。
外見とは異なり、古い商家かあるいは土蔵を生かした
木造の内部である。
安藤さんのコンクリート打ちっぱなしの現実もあるが、
これだけでもほれぼれする木造の構造物である。
唐人町にはまだそれだけの歴史を蓄積しった建築物がある。
佐星醤油やさんもそうである。
拙宅の前の烏犀園さんの土蔵が解体されたのはいつだったかは、
はっきりしないが数十年前のことだろう。
屋根と壁が解体されると、そこには梁と柱の骨格が重厚に露出君臨した。
クロサワであった。羅生門であった。
それは逆で、映像の弱点ひ弱さ、作り物であることの現実から
逃げる方法としての映画の経済的努力であろう。
現実はかくも手抜きがないとおもった。
土蔵の骨組みがいかにそれを支える屋台骨として恐竜の背骨の
ごとくであるかということである。
佐賀城城本丸再建中においてその構造骨格を市民に公開されたが、
土蔵が瓦解崩壊するに及んではほとんど目にすることはない。
屋根、白壁の外観はよしとしても、土壁内部はかように骨格なのである。
天変地異、火事、爆破に備えての骨格を備えている。
バス、旅客機の構造にしても人命第一の安全構造ではあろうが、
現実には抱擁の域ではないよう。
さて黄美展の作品に戻らねば・・。
正月早々、酒臭抜けぬ同窓展にしては、力作がそろっている。
小城高校、金子剛さんの門下OBで40、50代のメンバーである。
それだけに自分のスタイルというのがパターン化するのだが、
個々がズレをおこすことでマンネリ化を回避すべく挑発へ向かい、
全体としては刺激しあう作品群ではなかったか。
金子照之さんのCGによる幾何学的作品は、今回特に木造空間に於いて、
異質さとは別になじんで見えることが新しい体験でもあった。
中尾和紀さんの「KAN]は缶の円の凹凸のある白いキャンバスと
黒いキャンバスのレリーフ的作品。
69年代のケリーの作品の浮かび上がる影を連想するのだが、
平面対物体、物体対人工、人工対有機の狭間をゆれながらズレ
ようとする現実であるのだろう。
林田龍信さんの段ボール紙に三体の観音菩薩像を描いた
F100号の作品には驚いた。
何の前触れもなく観音菩薩が登場したからであるが、
影を潜めていた林田さんの空間解析が再燃したようである。
概念としてはいかようにも絵画表現は自由でなければならないが、また、
身体をとおした指や手で描く軌跡に勝るものなしと改めて黄美展を見て
おもうのだった。

2009年
12月11日 (金)M展
山田直行さんの絵画教室・M展を美術館で見る。
直行先生は例のごとく、月の沙漠とYOSHIでした。
松原さんの力作6点は見ごたえありました。
高畠輝明さんの透明水彩画はほんとに透明でした。
高畠輝子さんも結婚されたけど、北九州の港の風景を平面的に描いていらした。
島良輔さんの室内の風景は、青春時代なんっだろうか。
福島邦子さんの赤い画面は火の鳥を連想します。
福島さんの小学生のお嬢さんも毎年水彩画を出品されて、たのしいです。
梶山辰夫さんの静物画は対象をしっかりとらえてありました。
増本ナオタカさんはいろんな表現でおもしろかったです。

会場でハンティング帽のGENJIに会った。
12月7日 (月)夜、「ファンタスティックな野郎たち
の展示に作品をもっていく。
ストリートギャラリーのメンバー22人の作品がギャラリーを飾った。
小品ではあるけどファンタスティック。
のんべーの4人が焼き鳥屋へ行ったもよう。
12月5日 (土)白水会展
水彩画会の佐賀支部展。
出品者45人、作品数はその倍ぐらいあったとおもう。
ほとんどが御婦人方である。
できる限りに丹念に描いてあり、一点一点見ごたえがある。
男性は数名である。黒いリボンの付いた故真子達夫さんの水彩画「生きろ」があった。
フラワーデザインのAさんとM御婦人とばったり、出品した作品を見てください
ということで、あらぬことをごちゃごちゃ。さらに迷われたのではなかろうか。
水彩画をやる人たちが増えたものだ。
かと言っても、純に透明水彩ではなく、アクリル、厚塗りの不透明水彩画である。
下地を下地剤などでハードに作ってあり、透明感、余白、塗り残しの美しさとは皆無。
油絵の領域に入ってしまっているし、もはや境界はないものとみた。
最高齢の副島高行さんが過去の作品「埋もれ舟」ではあったが、透明水彩ながら、
強さと重厚さを真正面から表してあった。
油絵をやってるボクとしては、透明水彩のスリリングな切れ味、抜き差しならぬ
一発勝負を見たいところである
12月4日 (金)塚本猪一郎個展(久光ギャラリー)」
作者はこつこつと自分の絵画を突き進んでいる。
特別変わったということもないのだが、大小の作品が物体化していくようだ。
物体となるぎりぎりのとこまで来てしまっているのか。
物体である現実と表現物との境界がなくなることはないはずであるが、
そこにM・デュシャンのレディ・メイドの概念もあるようだ。
紙、キャンバスとは描く上で便利な道具である。
鉛筆も筆も絵具も使い慣れた道具である。
それらがなかったとしら・・塚本さんの作品のようになるやも知れない。
そこいらにあるものはなんでも使うだろう。
古代を見れば解かることではあるが、現代人が自由な道具を手に入れようとする
とき、コンピューターもあろうが、原初的な道具以前のものであるかも知れない
とおもう。
元々、繊細さよりは骨太の大胆な画面であったのだが、内部までも物質化し
現代という時間の中に放り込まれたモノリスのようである。
白い壁が風化して黒い内部が露出するのか、その逆もあれば、ただ汚される
工事現場の資材置き場。
セメントや石灰の上に炭や木炭を引きずったような炭の痕跡は、たくましく子供だ
。塚本猪一郎の黒。

12月1日(火)
ポピンレースとクリスマス風景写真展(トネリコ カフェ)
園田克成・久枝御夫婦の昨年に続く作品展である。
ハンカチサイズのものでも月に2枚程度しかできないそうで、日本の機織り、佐賀の
佐賀錦にしても糸を一本一本編んでいくというのは、根気と時間のかかる創作である。
しかし、それを微塵も感じさせない幾何学模様のレースはかわいく美しいばかりである。
克成さんは路地の写真家である。
路地や人込みにまぎれ、ベルベッドの手でカメラを包み鷹の目でシャッターを切る
と言ったところか。
クリスマスのアントワープ、プラハなどを切り撮ってある。
風景や建物が元々うつくしいのは当然だが、鷹の目は異国の澄んだ空気を狙
っている。歴史と近代のズレのようなものが漂う。
西欧のクリスマスは質素なものなのである。
11月25日(水)「武藤辰平 フランスの風を県立美術館で見る。
これまで何度か見せてもらったが、初めて見る作品も多く、新鮮だった。
今回が最も充実した内容になっていたのではないかとおもう。
東京美術学校(現芸大)収蔵の「自画像」は辰平さん26歳の卒業作品であるが
、時代は第一次世界大戦。うつ向き様の眼差しに込められたものは青春の鬱積
の中のかすかな希望か。
1920年に制作されたもので、7歳年上の中村彝が同年に描いたエロシェンコ氏
の像 ともどこかオーバーラップするし、3歳上の岸田劉生の自画像にも共通する
雰囲気がある。
パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝、久米桂一郎から岡田三郎助、
藤島武二と続く日本洋画壇の潮流に、善きも悪しくも日本洋画壇の黎明期と言えるだろう。
芸術の都・パリへ行くことは憧れ流行以上のものであったろう。
覚悟があっても、金がなけるば行けるものでなく、佐伯祐三など平民は
たいへんであったろう。佐伯は結局フランスで30歳の若さで客死しする。
同じく1930年会の前田寛治も34歳で亡くなっている。
後の日本洋画界の骨格をなすべきそうそうたる画学生がぞろぞろいたわけで、
辰平さんも謳歌するよりは、そんな大陸的空気や派閥に尋常ではなかったろう。
卒業10年後・1930年、辰平さんも36歳でパリへ渡られる。
大店の質屋の息子さんで、学業にも優れ周りからも期待されて旅発たれたこと
であろう。
遅いような気もするが、思い悩み機をうかがっているうち10年が過ぎたということ
であろうか。
パリでは堰を切ったように描かれたようだ。1932年の作品は総じて勢いがある。
激しさというよりは伸び伸びとたのしさに満ちている。
風景の輝きを光と色彩で感じようとするを印象派である。
しかし、それも長くは続かない・・。
時に何をしにパリに来たのだろうと、素朴に孤独感に囚われることも少なくは
なかったろう。現地の留学仲間との交友もあったろうが、焦燥と不安は消えるもの
でなく、ましてや、日本にいる親、家族のことを思えば、奮い立つしかなかったろう。
そうでなくば家族を残して4年間もおられなかったろうし、病気になるのが落ちであろう。
それを埋めるためにも、研さんからも模写という日々の行為が揺らぐ信念を支え
ていたのではないかと考える。
美術館での名画の模写はミレー、ルドン、セザンヌ、ゴッホなど60点に及ぶとい
うから、いかに勤勉に過ごされたかであり、勝手な推測は失礼千万であるやも・・。
絵画作品からもその誠実さはうかがえる。虚飾、おごり、自意識というものがない
。静謐に誠実な筆致で感情が乱れるということもなきように画面はどれも静かである。
万人の欲とは異質な欲と言えばいいのか。
昂揚さえもよろこびの色彩に変えて塗りこんであるようで、一見には掴みどころ
がなくもないが、耳を澄ます谷川のせせらぎのようにじわじわと聞こえて(見えて)
くるのである。
映画でいえば小津安二郎の「東京物語」と言ったところか。
どんよりとしたパリの街やセーヌ河。一瞬の春夏には陽の輝きはあるものの、
年間をとおしてどんよりとした空のパリ。
異国であろうと日本であろうと変わるものではない。
フランス賛歌もなければ、大げさな異国趣味もない。
あるのは、風景に満ちる光と色の感受性で、帰国後に描かれた作品にはそれが弱い。
無意識の表れが結果、場所の違いとなって現れたもので、西洋を学ぶ半面、
様式スタイル、理屈を遠のけて行かれたのでは・・と。
帰国されてからは住まいのある材木町周辺の風景、庭の花、バラや阿蘇の
風景を描かれているが、気負いなくおおらかに漠として見てあるようだ。
強いメッセージを込めるでもなく、パリを偲ぶでもなく阿蘇の山とススキ野は漠と
している。
激動の時代にあって、流され翻弄もされず、パリも住処とする佐賀であったのか、
パリはパリ佐賀は佐賀であったのか。

佐賀中学時代の同級生で後の日本画の池田幸太郎氏、洋画の松本弘二氏、
陸軍中将・井原潤次郎氏らと交友が深かったと聞くが、美術協会においての
武藤辰平さんのことはほとんどわからないし、当時を知る人も少ない。
19歳で佐賀美術協会創設に参加され、後に山口亮一会長の時に副会長をされている。
そのころ、子供だったボクも同じ町内で、「蔵の中で絵を描いている人」と存在
は知っていた。町内の世話役などもされていたようだし、お会いしたことも
あったろうが、定かでない。

現在、辰平さんの三男の良平さんら姉弟が、武藤辰平さんの検証、
作品保存管理をされているようである。材木町の自宅に武藤文庫を設立された。

さて、生前ほとんど会話などしたことのないボクの父などは一体どうなるのだ、・・?
どこから入り込めばいいのかなどとおもいつつも、似たり寄ったり、すべての人
に一人一人に人生も歴史もあると・・。
11月3日(火)日韓展3日目
フェリーで一泊して全員無事釜山に着いたと、チャン会長から
連絡があったことを金さんから聞く。
まずは一安心。
会場のお客さんも一日90人と、思った以上に多い。
展覧会にも因ろうが、なかなか足を運んでもらえないのが現状である。
夕方、当番外のなんとなく気になる人たちが会場に集まる。
そして、ちょっと一杯と・・。 

10月31日(土)日韓展前夜
午後日韓交流展の設営、飾り付け。
シミュレーションしていたのでスムーズに終わり、
韓国側の到着を待つ。
2時30分、佐賀市のバスにて19名が到着。
韓国の人たちの作品38点を展示。
これにて日韓の絵画、書、写真、詩画が渾然一体となり、
名実ともに日韓作品交流展である。
市長表敬。
オープニングセレモニー。
お茶会。
そして、一行を第一Eホテルへ。
徒歩にて歓迎パーティー会場・OSへ。
招待者と日韓展作品出品者80人が一堂に集う。
大盛会にて閉幕。
後は・・。 

2009年10月11日 (日)坂本善三7人展/小国への道
当てもないまま、東へ向かっていた。
自然と、通り慣れたコースを選んでいる。
世の中、3連休。また、市長、市議選もはじまった。
祭りと就職合戦が混在する。
八女、黒木、矢部、中津江、小国まで紅葉間近の野越え山越え。
矢部の棚田では昔ながらの大勢での人力稲刈り。
秋の陽に稲穂輝き、おいしそう。
谷間の小学校ではパン、パンと町民あげての大運動会。
小国の信号角の両国うどんで腹ごしらえ。
最近、太り気味だから、腹八分にする。
父、母、娘さんのうどん屋で、二階が住まいのようだ。

街はずれの坂本善三美術館に寄る。
「7人の画家 坂本善三と独立美術協会の画家たち」
他に誰も居ない。
すがすがしいタタミオモテの匂いが迎えてくれた。
畳を新しく張り替えてあった。
海老原喜之助さんの大作を久し振りに見れて感慨深い。
高校生のころ海老原さんの作品をまねて描いたこともあった。
作品点数は少ないが、その時代、その歴史を感じるには十分の展開。
死ぬまで空間探究をしてもまだ足りぬ、絵画空間の深さ。
青春時代の渇望、欲望、苦難の道のり。
それぞれの時代。作品は物語、リアルに共有する観客の時間。
芳名録を見ると一日に5、6人という少なさである。
環境も、外観も内容も優れた美術館である。
地理的な問題はあるのだろうが、訪れる人が訪れる、と鑑賞者には好都合
の美術館ではある。
珍しく別室の縁側が開放してあった。庭からは室内が、室内からは庭が見
渡せる。ここに住んでいるような気分にもなる。
こんなところで畳に寝転んで蔵書の横尾忠則・森羅万象の画集を見てい
るというのもおつなものだ。
御婦人のグループが駐車場から庭を歩いてやって来たところで、
バトンタッチ。
2009年10月8日 (木)P・マッカートニー&ザ・フーのライブ
ロンドンのラウンドハウスで収録された2007年のP・マッカートニーの
ライブと2006年のザ・フーのライブを見る。
ポールは声が少ししゃがれたが、ヒット曲を歌いっぱなしの元気であった。
J・レノンとの共作曲だが、改めて、ジョンは稀なる創造者であったと感じ入る。
どれもジョンの無邪気な感性がほとばしってる。
フーも衰えないね。p・タウンゼント顕在。ギターをぶち壊しこそしなかったが、
とび跳ねたり、大股でふんばり腕をぐるぐる回してのギター奏法は視覚的
にも引きこまれる。照明、美術では圧倒的にアートせいに置いてポールに
勝っていた。というよりP・タウンゼントが前衛アーティストであるのだろう。
オプティカルなC.Gが背景の3つのスクリーンに映し出されるのだが、
「手で描くというこたは・・」と、考えさせられたよ。
音楽も総合芸術なのだ。
努力に勝るもの・・というが、感性にも勝るものなし。
既成の方法に習っていたのでは、感性は消滅に近ずくのではと、ジョンの
破天荒な音感とピートの全身楽器のようなパフォーマンスに触れ思った。
どちらも、ビデオカメラは見当たらなかったけど、カメラやケイタイでの写真、
動画が自由のようだ。撮影する観客も少なく。たのしみで撮り、
配信することは、いろんな角度からも情報が記録されるということに
繋がるだろうし、もう海外は次の段階に入っているのだ。今更、動画や
で録音もないのだろう。多くの観客は両手両足全身でたのしんでいる。
コンサートでの諸々の規制禁止はクラシックぐらいにしといて欲しい。
美術館などとっくに写真も動画もOKなのだから。
著作権と情報とを混同したりあるいは商売と考えるのも時代遅れとしなきゃ。
規制を破ることこそアートである。
2009年10月6日 (月)秋の器 三陶展
日韓交流の会議ということでイバにいく。
”秋の器・三陶展(大島明子さん、田中良幸さん、自覚光子さん)”の初日でも
あって、その上、たこ焼きパーティーなどもあっており、大晦日の台所のような
にぎわいである。
三者三様の日常器が各コーナーごとにびっしりと陳列してある。
小さな物が多くそれだけでも、かわいらしく、気取らない手作りの器にはぬくも
りがある。
どの分野もきびしく、道はけわしい。
好きから始まる創造、ものつくりの世界。進めるものなら前へ進みたい。
後ろはないのだから。そんな人たちがギャラリーイバには集う。
一番ありがたいのは、ギャラリーのイバGさんであろう。
 2009年10月1日 (金)反逆児たちの群像
佐賀新聞の美術月評で県立美術館の野中耕介・学芸員が「反逆児たちの
磁場」と題して磁場(展)のことをとり上げてくださった。
ありがとうございました。その評論は2009磁場コナーに掲載させていただ
きました。
もうかれこれ30年ぐらい前になるのだろうが、美術に限らず、文化がぱっと
しないご当地において、あらゆる文化のジャンルがせっさ琢磨していた。
伝統的路線以外にも美術、音楽、文学、映画、演劇などの新しい波が佐賀
にも起こっていた。
美術においては佐賀西日本新聞記者の池田賢士郎さんや佐賀新聞記者
の原徹雄さん、園田寛さんらが公私にわたり企画や記事で独自の
佐賀文化論的方向を打ち出されていた。
それは、美術だけじゃなく広く文化全般にわたっていた。
県文化課が発行する月刊誌「新郷土」(樋口栄子編集長)は新聞とは異
なりより深く取材された文化特集が組まれていた。
また。池田賢士郎さんが主宰の近代詩研究会「はんぎい」というグループ
があって、池田さんに誘われるまま、25歳のボクは”はんぎい”に参加した
のであったが、そこで学ぶことは多かった。
池田賢士郎氏を中心に文学の勉強会であるのだが、門外漢としては、
美術系の人たちとは異なる洞察力の新鮮なことと、そのあとの一杯を
たのしみに欠かさず出席していた。内山良男さん、弥富栄恒さん、
池正人さん、堤盛恒さん貝原昭さん、古賀宣絃さん、西村信行さん、
吉岡誠二さん、太田照清さん、等々多数の精鋭がおられで盛んであった。
季刊誌「はんぎい」も出ていたし、キムジハのビラ配りを街頭でしたことも
あったな。
美術界には、物言わなくても、絵だけを描いていればいい、という風潮が
あったようで、あぐらをかいているようにも思われた。
「そうじゃないんだ!」「文学も美術も音楽(等)も連動しているんだ」
「佐賀という土壌を捉えなければ・・」と口を酸っぱく吐露されていたのが、
池田賢士郎さんであった。
昭和54年、県展招待制度に端を発し、小川末吉(美術)、中島宏氏(陶芸)、
舟一朝氏(美術、造形)を代表に「県展をよくする会」が立ち上がり、県展
と同時に「県民展」が開催され、俗に言う反県展騒動である。
ボクとしても従来の美術界、制度に対して疑問を感じていたし、意識改革
と捉え賛同参加した。何度にも渉る県との折衝、会談もたのしいもので
あったが、その陰で日夜、中心となり戦略を立て文書等を作成していた
のが、(もう今だからイイだろう)池田さん、西村さんであった。
すったもんだの末、県文化課長で作家でもあられた田中艸太郎さんは
招待制度廃止に踏み切った。英断とも言えるあっけない幕切れであった。
しかして時代は急激に大きく変化していった。
地方にあっても、消えていた催事や祭りが復活し、文化的分野も裾野広く
盛んになっていくのではあるが、運動、活動としての方向性は弱体化して
いったのではないか。
やがて時代の繁栄と共に「はんぎい」もなくなり、池田さんも独自に佐賀の
文献をあたり、知られざる表現者たちの発掘、研究を現在も執拗にされて
いるようで、研究報告としての数冊が出版されてる。
また西村信行さんは、佐賀の群像ともいうべき若者たちの発表や活動を
つぶさに足で見て歩き、自身が主宰する「葉序」にその感想を添え記録
されていた。自らも社会派としの活動家でもあったのだが、体調を壊され
続けられなくなられたことは、誠に残念なことで、判り易い記録が途絶える
ということにもあいなった。
記憶に漠然と残していくことは、容易いことだが、後々も漠然としたことで
しかなく、漠然を埋める作業たるは、記憶の断片があればイイということで
もない。
当然知っていてイイはずの身近な歴史や事象までも、漠然の中に葬り
こまれているようである。見えない部分にこそ、見えることの本質はある。
そこに賢士郎さんの言われる思想があると思う。
2009年9月23日 (水)佐賀県展
Hご夫妻と老舗のちゃんぽん屋へいく。
そういえば、出迎えた日もちゃんぽんだった。
Hさんは毎日でも食べたいと・・。世界を駆けまわっていらしても純佐賀ん者
。皿うどん食して、佐賀空港へ。
空港レストランも奥の部屋まで開けての大繁盛。
こんなこと開港当時以来のこと。お疲れさん、それでは、また、バイバイ。

夕方、開催中の県展を見る。
洋画の部屋でカラフルなモダンな絵があった。
誰だろうとち近ずいて見ると・・真子さんではないか。
ボクが撮った写真が故人としてキャプションに添えられている。
パイプ以降の真子さん、絶頂期の作品である。
この一点・「それでもなお」で真子さんの才能、技術、エロチシズム、時代性
などを見ることができる。
ボクが審査員なら一席にするところであるが、審査対象外の遺作になってる。
山崎正之くんも来年のこの場所での個展に向け始動、高揚している迫力の
「漏斗谷村・三代・円」は充足。本田光男さんのナビ派的「長い時間」は、
分割された色面の畑に牛キャラが配置されユーモラス。ご当地では
ユニークな一点である。松原由佳さんのミクスドメディア「唇から蝶2」も
存在感ありました。発展途上これからまだまだ迫力が増すでしょう。
日本画の一席・桜木淳子さんの「をりかみ」は日本家屋の障子の部屋で
幼子が折り紙で遊ぶ情景をきらびやかに、しかも情念を込めての平面化
に成功。
地に足を着けた今回のエポック的な一点。
佐賀美術界の変革、動向への活力となるだろう。
2009年9月21日 (月)阿修羅展
お寺の法要に行く。
本堂に座っていると♪傷つきよごれた〜わたしでも♪と昨夜の酒が抜けて
いくようである。
さて、急ぎ家に戻り、大行列、大渋滞ということで電車で行く。
二日市で降りると、「現在160分待ち」と看板がある。
西鉄駅まで、商店街や路地を歩く。
小さい街だけどシャッターの下りた店は無い。
路地裏でも商店が個性的に店を開けてる。
歩くこと10分。路地を抜けると視界が開け西鉄二日市駅。
博多から来た満員の電車に乗り二つ目で終点・太宰府駅。
太宰府は人で溢れレストラン、土産物屋、梅がえ餅屋は大忙し。
人をかき分け天満宮を通り国立歴史博物館へ。
これまた大行列。行くか戻るか一瞬迷うが、引き下がるは後悔の素。
同じ敷地内を行ったり来たりと蛇行していく。
2時間以上も並ぶのか・・けれど確かに少しづつ、列の前へは進んでいく。
人間のイライラ感を解消すべく心理作戦が上手く活かされてるようだ。
1時間40分で入場。
阿修羅像の周りだけは絶えずぎっしりと人で埋まっている。
どの像も均斉のとれた美しいフォルムで凛としているが、阿修羅は際立っ
ていた。並んででも見る価値はある。
興福寺1300年祭に向けてのデモンストレーションであるのだろうが、
たいへんな人気である。
木彫と思っていたのだが、布製の張りぼてというから、その緻密な技術にも
驚かされる。南蛮の腕のイイ職人を抱えていたものである。
写真は禁止だから絵を描こうとおもうが紙も鉛筆もなく後悔。
秋日の太宰府のてくてく珍道中であった。
(※65日間終了で85万の入場者があたと)
「2009年9月16日 (水)舟一朝 石積みの風景」(9/8〜9/19 
Gイバにて)を見る。
前回はSM以下の小さな作品だったが、今回は大作(150p×380p)が
画廊壁面を覆うている。
オレンジ主体の画面に石ころみたいな集積が覗く。
白や黒がランダムにあることで鮮烈なオレンジが錆びや岩肌の剥離にも見え、
過ぎ去っていく時間のようだ。
一種、墳墓の洞穴に入ったような雰囲気と空間である。
G・イバが瞬間,ほこらに変えられる。
ここ数年韓国、済州島の海岸や峠などに立つ道祖神的な”石積み”をテーマ

発表されている。
旅の中でたまたま遭遇した石積みに作者は惹かれたようだ。
創造物でもない人と自然のかかわりの中から生まれてきたアミニズムな
石積み。アートと石積みに違いがあるなら「何なのだろう・・」という問いも
背後にあるようだ。
画廊に立つ二本の柱も作品のオレンジの布で完全に覆われ、作品として
新たに設置されているかのごとくで、壁面の作品と呼応する。
普通、画廊というのは壁面の作品を見れば言いものであると同時に鑑賞者
の立つ、移動する空間があるものでるが、ここでは、見ると同時に洞穴にで
もいるような空間自体を感じさせられる。
舟さんが造形作家である所以であり、仕掛けられたものでもない。
この画廊、以前は住居であったため、頑丈な神棚がしつけられており、その
まま残されているのだが、その神棚にも作品が供えてあるというのか、
展示されてる。
石積みはまた、作者の線の集積でもある。石ころを形どるような黒い線が
スピーディーに繰り返され、集積を成しているのだが、念仏のように
おぞましい。般若心経である。
「自分が今日も在るために、創り、発表している」との舟さんのお言葉で
あった。
現代絵画を自分なりに見て(読んで)いくのは頭の健康にイイ。
<ギャラリーイバで19日日曜日まで>
 2009年9月13日 (日)津軽三味線 高橋浩寿&浩寿会
 
佐賀市文化会館中ホール800席が満員だった。
会場の照明が暗転し緞帳が上がると、真っ赤なひな壇にセルリアンブルー
の着物姿の子供、大人、総勢23人がドドーンと三味線を構え出現。わーっ
と会場がどよめくかいなか、浩寿先生の掛声を合図に”あどはたり””津軽
よされ節”の大演奏となった。
 小学低学年の子供たちが頭上にまで伸びる太棹を短い腕で行ったり
来たりして操る大人顔負けの奏法に感心の客席であった。
浩寿先生は民謡も指導されていて、大人、子供の熱唱がたくさん演じられ
、中にはプロはだしの人もおられた。
 高橋浩寿さんはまだ若干26歳。3歳で民謡をはじめられ高校生の時に
津軽三味線の免許皆伝となり、数々の民謡、津軽三味線の全国大会で
受賞され、今もまだ全国大会に挑戦されてるバリバリのアーティストでもある。
 元々、お父さんが尺八奏者・杉原楠童さんであり、恵まれた環境とはいえ
卓越した才能をお持ちのようだ。
 子供たちによる「花嫁行列」は場内に笑いと涙を誘った。
 白無垢の花嫁、紋付袴の仲人、箪笥長持ち等の行列が下手より登場する。
大人の恰好をした子供たちである。場内には笑い声が・・。
パントマイムのようなわずかなしぐさだけの行列。花嫁と母親との別れの
シーンもパントマイム。今舞台で演じられているのは、大人ではなく
子供たちなのである。セリフのない無言劇と言えばイイのか。
 かわいらしい子供たちのしぐさに、孫を見るのか、若かったあの日を
見るのか、観客はかってに想像力を膨らまし、場内は、笑いとも涙ともつかぬ舞台と
一体となったイイ雰囲気なのだ。途中よりお百姓さんの恰好をした
女の子が”箪笥長持ち歌”??を歌い出すのであったが、黒澤さんの
映画「夢」での”狐の嫁入り”のシーンのように、演出にも光るものを感じた。
訊けば演出も浩寿先生とのこと。
 三部・ゲストコーナーでは父娘・楠童さん、浩寿さんの息の合った
民謡デュエットには親子のたのしさをとおして花咲く未来が見えるよう
であった。
 ゲストの村上優山さん(熊本)と匹田大智氏さん(大分の高校3年生)と
高橋浩寿さんのコラボは圧巻。これを見る、聴くまで帰れないというところ
であった。
 叩きつける激しい加速的な津軽(演奏)。三者三様、一歩も引かぬ和み
のコラボにしばし酔う。和太鼓をたたく美波鼓三郎さんは「もう、ついてい
けない・・」と途中で退散。
 真剣な男性二人に挟まれて笑顔なのが浩寿さんである。必死さを見
せない女性としての表現なのであろうが、三味線さばきはご両人に負け
てはいない。表情とは裏腹に強いお方のようだ。
 その静と動のクールさに裏打ちされた品格さえ感じる。
 「よかったね」「すばらしかったー」と興奮の余韻がホールから館外へと・・。
ほっとされたことであろう?
 入場料・1000円!。5時間に及ぶ練習の成果も”あっという間”の充実
したコンサートであった。
 出演の皆様、本当にありがとうございました。

 また、いつか見せていただきたいものである。
2009年8月30日 (日)酔いの打ち上げ
2冊目の芳名録も土、日で一杯になった。作品撤去を前に真子夫人とメンバー
の記念写真、成功のばんざいでパチリ。(50年ぶりの同窓会って言わない
で・・)あっ、今回も一人欠けてる。全員集合写真がまだ一度も撮れてない。
その後今夜はGイバで汗流し会。話も昨日の続きとなり盛り上がった。
事を起こすのは、やはりたいへんなことのようだ。

磁場展にご来場いただいた皆様、ご支援いただいた皆様に心より有難う
ございました
2009年8月29日 (土)磁場ワークショップ。
ボックスアートに20組の親子が参加。
直行さんの軽妙なトーク、ギャグ、直行マジック(手品)でたのしい雰囲気に
なったところで創作開始。
たっぷりと用意された様々な材料を思い思いにボックスに接着したり張り
付けたり。木片をデザインどおりに糸のこでカットしてもらうのに行列が
できる。今回はお父さん、お母さんが一生懸命のようだ。
2時間もあっという間。子どもたちは出来上がった作品を大事に持って
帰りました。夏休みの思い出になったかな。
最終日を前に打ち上げ会。
今夜も話が広範囲にわたり弾んでいた。
二次会では今夜は最高。
それでも酔っ払って見えないメンバー。
あと一日あることだしね・・。
お疲れさん。
2009年8月28日 (金)j磁場で夕涼み
昨日・木曜日も休館だった磁場展。
今日より第二ラウンドといったところか。
夕方、顔を出す。
今日も半数以上のメンバーが顔を揃え、和気あいあいに芸術談義、いや
井戸端会議かなと・・。
毎日出て来て受付を一人でされていた真子さんが偲ばれる。
芳名録も最後の1ページとなり2冊目が用意してあった。
いやがうえにも盛り上がるわけだ。
来年も真子さんにお願いしようか、とか誰か遺作展してとか、
生前葬もあるからとか・・。
それを黙って聞いている真子さんが受付に座っていらっしゃるようである。
磁場展での夕涼みも後2日。たのしもう。
2009年8月21日 (金)真子さんのパイプ
磁場展の飾り付け。
今回のメインは故真子さんの「真子達夫SUNを偲ぶ展」である。
ボクが高校時代に憧れていた真子大先輩の「パイプシリーズ」を40数年
ぶりに見る。日展系的地元画壇の絵の中で垢ぬけた日本離れした平面原色
のパイプシリーズは異端であり、ボクらには未来の絵画に見えたものだ。
それが脳軟化症に倒れ、復活されてからはがらりと別人のように作品が変
わっていかれた。
「怠惰」「生きる」「破壊」収穫」など身近な心情をこれでもかというぐらいに
描きこむ精神の絵画へと向かわれたような気がする。
観念的、無機質、平面なパイプシリーズとはあまりにも路線が違う。
以後パイプシリーズを忘れたかのように、それについて語られる事もなかっ
たようだ。
当時日本にもアンフォルメル、抽象表現主義、ポップアート、コンセプトアート
らが、徐々にではあるが紹介されはじめていた。
その潮流を早くも感知して取り組まれてたのであろう。
それがボクら高校生には新鮮で刺激的であったようだ。
真子さんをはじめ、規制の美術に飢えていた探究心旺盛な佐賀高校
美術部のOBの方々が地方のかた田舎にあっても、世界の動きを捉えよう
と若き情熱をぶっつけておられたように推測する。
その動きは周辺の佐賀大特設美術科の学生にも及んでいたとはおもうの
だが、真子さんがグループ「青いカッチョ」を立ち上げられてからは、
川本達也さんや平方和善さんらが真子さんに続いておられたような
印象がある。
川本さんは今もなおその路線を邁進されている。
ボクにしてもいろんな意味で真子さんの存在、影響は大きく、当時、
パイプシリーズのブルーの色がきれいだったので「何の青ですか」
と訊いたことがある。そしたら「コンポーズブルーよ」と一言。
ボクは画材屋でコンポーズブルーを手に入れると、コンポーズブルー
ばかり使ってアメリカンアートを意識したポップ風な絵を描き出したの
だったが、それも、真子さん譲りだったなのかも知れない。
それでは真子さんの”パイプ”が何であるのか?
菅井汲さんのパイプやJ・ロウゼンクィストのチューブ、チャップリンの
モダンタイムズを想うのであるが、近代、現代のテクノロジーの象徴で
あったろう。
薄い下塗りに一回塗りの薄い色面のミニマルアート(最少芸術)でもあり、
すでに、当時では考えられない斬新さである。ステラ、荒川修作が見える
のであるが・・。
今回展示したパイプの作品で山の断面を描いてあるところから、機械化と
共存するのか否定するのかという・・、門の前に立っておったようにも
見受けられる。
後々の作品にでははっきりと「自然破壊」と言っておられ、草花や弱者へ
目が注がれ、「怠惰」のように自他共にきびしく、流行を追うような表現
からは決別し、否定的でもあられたのではないかと思う。
しかし、表現スタイルこそパイプシリーズとは逆行して見えるのだが、
思想せいはなんら変わっておられないと今回の作品を見比べて感じる。
二律背反であることが真子さんと言えばそれだけに、判ることだが、
真子さんが何を佐賀で起したかったのか、謎の部分も含め検証すべきで
あろう。
若いころの作品をもったたくさん見たいものである。謎の多い人である。

飾り付けが終わり、焼き鳥屋で汗流し会。
妙に酔えないけど磁場酒はうまい。
8月5日(水)ガンダム
お台場にガンダムが出現したというので新橋からゆりかもめに乗って
見に行く。台場も人で一杯である。中でもガンダムのある潮風公園には
人波が続く。 18メートル・等身大のガンダムであるとのこと。見上げるだけ
に確かに大きい。しかし、手足など、一か所として動かないのはガンダム
らしくない。神戸長田でも等身大の鉄人28号が建設中だとか。偉人や
歴史上の人物銅像に変わって漫画の主人公たちが日本中に出現する
時代に入ったのだろうか。
2009年8月3日 (月)大人のための”ふるさとは地球・・”展
今のところ暑くない夏。
脳みそも湯だることなくおだやか。
クマゼミは大人しく、例年になくニイニイゼミがよく鳴いている。
クーラーの室外機の側面にアゲハのサナギがくっ付いている。
木じゃなくて鉄板でもイイようだ。一月が経つようだがまだ生まれない。

昨日、県立美術館にいったら、車があふれており、なんとかレストランの
そばに停めることが出来た。
”夏休みこどもミュージアム2009 「ふるさとは地球!!エコロジー博物館
・美術館」”というのがあってた。
美術館入り口であってた電気自動車の説明会に親子が詰めかけてい
たようで、ゆっくりじっくりたのしませてもらった。
二日酔いには小動物が効くようだ。
佐賀の生きた魚類 と昆虫標本の展示に見入った。
カエルも最近では見ないからトノサマガエルにしても貴重だなぁって
おもった。
子供のように水槽に顔くっつけて・・。
周りを見たけど誰もいなくてしめしめほっほっ。
今度はカメラもって行きヒキガエルを撮らなくっちゃ。
餌にバッタやミミズが入れてあり、本格的、御苦労さん。ありがとう。
虫や小動物が好きなおじさんたちって結構いるんだよね。
団塊世代の遊び相手はまさしく昆虫に小動物だったんだから
「7月16日(木)金子剛古希展」(県立美術館)
を見る。ここ十年間の油彩画、水彩画、版画が整然と展示してある。
水彩画が多いせいもあってか、明るく透明感がある展開である。今回は
サギをモチーフに木版画の大作にも取り組んでおられた。彫りの黒色と
紙の余白が素敵な労作である。若いころは油彩画でも今回の版画の
ような作品を描いておられた(鳩の空間)。余白の取り方が純日本人的
に身にしみこんでいらっしゃる。油彩画の家族シリーズ、凧揚げシリーズ
にしても一貫した共通の絵画空間がある。
7月6日(月)吉田進一近作展
「吉田進一近作展」の飾りつけに行く。
吉田先生は杖こそついてあるが、頭はいたってゴ健康そのもので、
昼から、一人ビールであった。
手伝いの方も多く、また、先生が画廊壁面のシミュレーションをされ
ていたので、スムーズに早く完了した。
油彩、水彩、40点の展開である。
鎧、兜、四天王、ばら、あざみ、ふじ、かに、えび、漁港の朝日、
教会、田んぼ、等先生、お得意のモチーフがずらりの吉田ワールド
であります。
同時期に日展(福岡)、日洋展(熊本)、日洋展(佐賀)も開催との
ことでありました。
7月4日(土)ひとり陶器市
川本太郎「ひとり陶器市」。
「早く行かんとなくなるよ」と言われ、ギャラリーイバにいく。
茶碗、皿などさまざまの器が山ほどでイバは焼き物屋になってた。
およそ1000点という。
陶器市というだけに、たたき売り状態でお買い得となっている。
初日からたくさんのお客さんでにぎわっていた。
その後は宴会とあって、手料理をいただき、ごちそうさまでした。
7月3日(金)二科展佐賀支部
県美で佐賀支部の「二科展」を見る。
数色の麻布をキャンバスに貼り付けて花を描いてある。部分的には
絵の具も使ってある。無邪気でおおらかな姿勢は新しくもある。
受付をしておられたご年輩の御婦人の作品であった。
また、聞いてビックリ。麻布も自分で織られているとのこと。
ここまでは見抜けない。描くということの一貫性がある現代美術だ。
佐賀も美術が盛んではあるが、フェノロサ以後の美術の流れを
踏襲している。芸大であり、佐賀では佐賀大という流れが主流な
のである。
それから外れたり、好きにたのしんでいらっしゃる表現者も少な
くはないとおもうのだが、なかなか報われないようだ。
美協、県展、団体展があたりまえにすべてと思っている人が多い
のである。
こんな特殊な構造は日本や韓国ぐらいではないのかね。
半ばして断念していく才能もあろう。
その創造者を拾い上げないと、ご当地は何も変わらないし、薄っ
ぺらな層のままであろう。美大系でもないおかしな発想や奔放な
表現が増えなければ何も変わらないところに来ているようだ。
7月2日(木)ジョージ・シーガル
「ラッキー・ガール」を見るでもなく点けてた。
彼女(リンジー・ローハン)と彼氏(クリス・パイン)の公園のシーン。
ジョージ・シーガルの石膏の作品が置かれている。見たことある、
あそこに座ってた、まぎれもなくあの公園だ。
そこで昔の写真を引っ張り出してきた。1994年のニューヨークである。
ダウンタウンの小さな公園だが、ジョージ・シーガルの作品が
置かれているのには驚いた。日本では美術館内部でしか見られ
ない。そばのベンチではおっさんが寝ていた。
6月27日(土)トロンプルイユ展Bunkamuraのザ・ミュージアム
渋谷、Bunkamuraのザ・ミュージアムでは「だまし絵展」があってった。
大入り満員である。
入館した瞬間に「やられた・・」」とおもった。
ダリ、マグリッド、エッシャー、など作品としては見れるものもあるが
、企画としては「だまされた・・」というまま10分後には出口にいた。
それでもボク以外の観客はおもしろがり、丹念に見入っているので
あった。
だまし絵でもトロンプルイユでもないモドキであるとボクはおもう。
接近して覗いたのは金昌烈の「水滴」の絵だけであった。
(「水滴」は福岡市美術館にもある。)
本物のトロンプルイユ作品を集めるべきであったろう。
O・ヘンリーの「最後の一葉」のような・・。
6月26日(金)マイクロポップ(原美術館)
朝出て、昼には品川の閑静な住宅街を歩いていた
真夏の日差しに日陰が欲しい。
車も通らない細い道(日曜日には品川駅からシャトルバスがでて
いるというが・・)に突然美術館があった。
一度は訪れてみたいと思っていた原美術館である。
洋風な年代物の建物で、こんもりと樹木が覆っている。
庭には60年代の日本人作家らの石、金属の立体物が置いてある。
「ウインター・ガーデン:日本現代美術におけるマイクロポップ的
想像力の展開」が開催中であった。
作品からも名前も知らない若い作家たちであることは判る。
どれも上手でしょ、とも言わず、現代美術、ビジュツしてないのである。
子供のころの遊びに引き戻されて行くような意味のない空間に
共感するところはあった。”反”現代美術的でさえある。
「マイクロポップ」とは、聞きなれない言葉である。
「美術評論家松井翠氏の造語で、様々な情報やイメージの断片
を組み換えて、新たな視点や行動の方法を構成し、時代遅れで
凡庸な事物や場所に新たな用途を与えてその意義を再生させる
芸術表現の方法を意味している。」とリーフレットにはある。
新しい、古い、上手、下手というのではなく確かに新鮮な感覚で
あった。
これも美術のある方向であろう。
6月25日 (木)コロンコロンコテンコテン
クリニックを終え、「コロンコロンコテンコテン」を見に脊振の
ANPギャラリーまで、田植え真っ盛りの水田地帯を突っ走る。
日本画の大串亮平さんとなんでも屋の西村雅成さんの先輩後輩・
二人展である。
山のふもとにある工場跡の彫刻家アトリエを手直ししてカフェと画廊
にしたもので、鉄骨むき出しの広い空間である。
大串、西村の両氏が在廊していた。
絵における二人の共通せいは見当たらないが、一緒に並べられる
ということはイイことだ。
大串さんの2m×3.2mの大作を中心に大作が展示されており、
街の画廊でもよかったろうに・・、二人が峠の心ある画廊主とその
場所を選択したというのも決断であり、挑戦であったろう。
むき出しの鉄骨、周辺に散在する人工物体らに埋もらされる
ことなく、作品は絵画として存在していた。
西村さんはアーティストの父親の道(心象をコンセプト化した平面
のコンテンポラリー)をたどるとような作風であるが、本人としては
そんなつもりは全くならしい。
その中で有明海の干潟に落ちる夕焼けをプリズムの光のように
捉えてた風景画が異色に目を引いた。ややもすると不安定に陥る
色彩を暗い干潟にうまく溶け込ましており、佳作である。この一点
で作者の資質のよさがうかがえる。ぶちかませばイイ。
花、草、木を着実に描写し装飾化しようとする大串さんもこれから
どこへいくのか、どこを突き破るのかと・・たのしみに二人にエール
を送った。
描くということ・・、覚悟をきめ、足場が判っていれば、それほどに描
くということから乖離することはないとおもわれる。
コテンパーに言うことは何もなかった。
6月21日 (日)美協展
理事会、総会、表彰式、審査講評、講演会、懇親会とまる一日の
行事。
講演会は善次先生の「悲話月光の曲、学徒出陣」
出撃前の特攻隊員が鳥栖の小学校で月光をピアノで弾いて去った
という実話をもとに深川先生が描かれたピアノを弾く特攻隊員の絵
をバックに、学徒出陣、研究家、元特攻隊員らとの交流、2作目が
知蘭の特攻隊記念館に飾られていることなど、そして絵のイメージ
で映画「月光の夏」が創られたこと・・。一枚の絵が人に感動を与え
これまでに人の関係がひろがっていったと、耳が不自由な老体を押
しての1時間20分。賞を取るとか、団体展に出すだけじゃないもっと
素晴らしいことがあると、そして、その関係を絶ったと締めくくられた。
外部からも多くの聴講者があった。
さて、懇親会となり続いて2次会は本体とは別に焼き鳥屋へ。受賞
の学生さん、大学の先生たちと「イノキ・・ダー」であった。
6月9日 (火)辻井伸行さん
第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで盲目の辻井伸行
さん(20)が優勝した。すごいなぁ、えらいなぁ。
子供のころも度々テレビで取り上げていたから、顔には見覚えがあった。
点字楽譜は使わず、楽曲を耳で聴き、「指先に目がついている・・」
と指導の先生が言ってた。
その演奏を拝聴したが、すごいなぁリスペクトである。
多くの人が勇気づけられたこだろう。
5月30日(土)レイ・キネイン写真展
「AKA-red レイ・キネイン写真展」を美術館に見に行った。会場にはお
客さんがいて、レイさんはいなかった。受付の上品な女性の方が「食事
にいってますが、呼びましょうか・・」と。受付のその方はレイさんの奥さん
だった。オーストラリア出身のレイさんは佐賀大学の英語の先生であるが
、ほとんど日本語は話されない。困ると「タカコ・・タカコ」と通訳の奥さんが
頼りのようだ。 2年前のボクの個展にもカメラを持って来られ、
トロンプルイユの絵がおもしろかったのか、その写真を撮って、
後で送ってくださった。元々メルボルンで写真家として活動されていた
ようだが、ご当地では初めての個展とのこと。 AKA-red が今回のテーマ
になっている。 ”西洋では赤は「危険」や「警告」の色ですが、日本では
「福」を表し、昔から病魔や厄よけとして使われています。赤は七五三、
結婚式、お宮参り、還暦等日本人の人生の節目のお祝の場面に使われる
だけでなく、日常生活のさまざまな場面でひろく見られます。本写真展では、
赤のある日本の日常の風景を集めてみました。”(プログラムより)。
とあるように佐賀を中心に札幌、函館、東京、大阪、京都、名古屋、
道後温泉、山口、福岡、長崎の人々の服や着物、看板、商品、遊具などを
鮮やかに活写した(30p×40p)39枚の作品である。それが日の丸の
赤に由来しているのでは・・と大きな日の丸も壁に下げてあった。
モデルとなった赤い番傘、ペコちゃん人形、自転車・手まり、草履なども
置いてあって、退屈させないたのしい会場になっている。日の丸の下には
パソコンが置いてあり展示作品以外の写真を見られるようにしてあり、
またそこに流れるジャズが意外にも写真と合うのだ。焦点こそ赤に絞って
あるけど、一枚一枚の写真は気負いなく普通に撮ってあり親しみ深く、
作者の懐の深さがうかがえる。以前、拙宅に滞在したオーストラリアの
アンドリューは日本の看板の英語の使い方がおかしい、おもしろいと、
レストランや商店の看板に向ってシャッターを切っていた。
文化というものは、異文化であればあるほど違いは明らかで、驚かされ、
興味尽きないものであろう。テーマを置いてあるだけに見る側には見易く、
作者には愉快で意義ある展覧会ではなかったろうか。
2009年5月22日 (金)川本太郎花などのためのうつわ展
川本太郎さんの「花などのためのうつわ」展を旧山口亮一邸で見る。
初めて見る太郎さんの花瓶。
作者も花器を創ったのは初めてだとか。
縁側からの光が花瓶や器を逆光に浮かび上がらせる。
この二十畳ほどの座敷によく似合う。
元々ここに置かれていたもののようだ。
作品の器を見ているようで部屋の柱や壁、天井らを見ている。
出しゃばらぬうつわたち。
庭にはツツジ。花器には茶花一輪。
縁側を見やり、寝ころんで花袋の「蒲団」漱石の「・・猫である」ある。
花器にはコハクの水もイイ。
時間を内包する家屋に抗うことはない。
破棄された建設資材の鉄筋、鉄板、パイプらの断片をりようしてに
小さな器たちが飾れている。
ここではその錆びた断片も竹や板や材木に見えてくる。
さりげない工夫も作者の感性。
面影もない山口亮一翁の時間とがクロスオーバーする。
壁や柱にその痕跡を探ろうとするが・・。
太郎さんが上がり口の仕切り戸をぴしゃりと閉め、「このままの方が
イイですね・・」。
仕切られて座敷の器たちはもう見えない。
仕切り戸の4枚に板戸には花鳥風月の絵が描かれていたようだが、
今は剥離し板目がくっきり、小鳥と花しかわからないが、「そう言えば・・」
と同調するわけにもいかず・・。しかし、本音のようだ。
個展は売るだけでなく想いをめぐらす時間でもある。
そのために作品は存在し置かれている。
主人を離れ物言わぬうつわたちが見ている世界もあろう。
控え目なうつわたち。
器展というよりはコンテンポラリーなアート感覚である。
日本の焼き物の美には本来そのような要素が流れているのである。
今更現代や西洋を持ちだすこともない。
作者が考える新鮮さ新しさを見させてもらった気がする。
2009年5月14日 (木)林田龍信作品展
「林田龍信作品展」佐賀新聞社ギャラリー。
林田さんが生まれ育った故郷の山田や集落が水彩で丹念に描かれている。
同様に有明海にそそぐ河口の漁船や干潟もじっくりと細部にいたるまで
描きこんである。
活動再開に際し足もとの故郷と対峙し、捉え直す必然があったのだろう。
風景に迫るのではなく、従順であろうとする無垢の姿がうかがえる。
「風景に見られにいく」と故井出誠一さんがよく言われていたのを思い出す。
林田さんは学生のころより現代的な絵画を描いており、それを放棄した
わけではない。その流れを汲む作品も3点あった。
故郷の風景と従来の絵画がコラボした風な作品であるのだが、
活動再開がんばってください。
5月9日(土)
吉冨久美子さんの「ピアノミニリサイタル
」がエスプラッツであった。
吉冨さんと言えジョン・ケージ等の現代音楽だが、今回は一曲が1,2分の
「内蒙古民歌小曲七首」やドビュッシーの「水の反映」など心地よかった。
まるで水中に潜ったかのような「水の反映」に浦島太郎になりかけるの
だったが、45分のまさしくミニリサイタルであった。
松原由佳さんの丸三角展
柳町郵便局で「松原由佳さんの丸三角展」を見た。新しい局長さんが
「作品がはずれて落ちるんですよ」と迎えてくださった。今回の作品は
着色した丸と三角の木片を壁一面に張り付けてある。その両面テープで
留めた木片がはがれ落ちるらしい。太陽や月があって無数に三角の星
があるといったところかな。いやいや病原菌の戦いの図のようでもある。
なんでもいいけど開放的でたのしい。松原さんの別の一面が見られる。
それでも丸や三角の木片にはいろんなマチエルの松原カラーが
アクションしている。おぬしなかなかやるな!
4月28日(火)中西夏之展
日暮里で中西夏之さんがここ5年間の「円」の集大成展をやってるという
ので、30年ぶりに(銀座の個展会場で)氏にも会いたくて、でも閉店間際。
画廊に電話したら、火事に遭い閉廊しているけど、5月には再開しますので
是非・・」とのこと。残念だけどあきらめもついた。かつてのハイレッドセンター
の一人であるが、県展の審査員にボクが推薦したことがあった。
県からの報告によると「ぼくなんかが人様の作品を審査するなんてとても・・
と辞退された」とのこと。残念ではあったが、さらに好きになったものだ。
そんな話をしながら若いサラリーマンでムンムン、煙草もうもうのアメ横の
居酒屋で盛り上がった。
4月28日(火)芳年浮世絵展(二木美術館 豊洲)
美術館も確かこの辺にあるはずなのに、その気配さえない。・・と再び別
通路からショッピングタウンに入った。すると目の前に芳年の絵の旗が
立っていた。ここか?これじゃ判らない。ショップや飲食店が並ぶ端っこの
小さなドア。恐る恐る入って暇そうに座っているチケット売りのお姉さんに
聞いたよ。「芳年展はここですか」と。美術館じゃなくて画廊だな。しかし、
お客は熱心に食い入るように作品を見ている。通りすがりの客じゃなく、
わざわざ見にきた人たちなのである。十数名が入れ替わり立ち替わりで
ゆっくりゆっくり見れる。浮世絵最後の絵師。彫り師の発想、技術の奮闘が
見てとれる。いかに大衆に喜んでもらえるかの見せる絵画である。特に
国芳の弟子であった芳年は職人である以上にデザインのセンスが
現代に通じていている。怪奇、残酷ものは芳年の真骨頂である。
日本語の上手な黒人さんが専門用語を駆使して日本人に説明している
のには、まいった。笑えた。浮世絵がいかに国際的であるかである。
また若い女性客が多いのも最近の現象。男よりも情報に敏感で好奇心も
旺盛のようだ。
3月27日(金)瀬戸口朗子個展
「瀬戸口朗子個展(G憩ひ)」心模様というのだろうか、いろんな時の移ろい
を気配のように淡く捉えてある。抽象であっても具象のようである。抽象へ
向かうでもなく背後にはかなり明確な心象がある。見えるものからさらに
説明を排除していこうとする。心はたやすく言葉や色で解きほぐせるもの
ではない、という抵抗でもあろう。スティングのShape Of My Heartに重ねる
と淡い色彩の中にひたむきな女心を感じる。平面画であろうとしながら
フラットでもスーパーフラットとでもない。平面もつまるところ分子や素粒子
の成層である。ポロックは精神と肉体の呪縛、渇望をドロッピングによって
超えようとするのだが、そこも見える地平でもなかった。ポロックの概念と
様式は20世紀の思想として残るのだが、ポロックは心も空気(気配)をも
モノとして具体化していたのである。まだ見ぬものは作家も解らずの時間
の中にあるもののよう。雨だれであったり、卵形であったり自然が作り出す
原初的なかたちである。素粒子を内包する核でもある。輪郭でも外側でも
ないミディアム(中間物)とダビンチは言う。アートと生活の間での行為と
ラウセンバーグは言う。絵の具がくっ付いただけのもの、とマチスは言う。
言いかえれば、絵を描く者の最大のたのしい部分である。瀬戸口さんも今
そこいらを通過しているのだろう。フラットの作品も3点あったが、焦らず
心の思うままにやっていってください

3月27日(金)傘寿記念 染色 小川泰彦展
朝湯ですっきりして、ぽかぽか天気の城内に出掛けた。桜が満開である。
まずは美術館へ。「傘寿記念 染色 小川泰彦展」を見る。日展初入選の
作品(今回は写真のみ)から現在に至るまでの作品を一堂に展示してある。
堂々たる作品群である。有明海をテーマに潟の海を淡いブルーのトーンで
美しくも切なく詩ってある。引き潮、満ち潮があるように、動と静が反復し、
何をか言わん、唯一つ、永遠の海が不動である。絵のネルギは過去のもの
であろうと額にはいっていようと、太陽のエネルギーを内包している。
核エネルギーともちがうそれ以上のものである。創るのがたのしくて
たまらないという展開である。ここに小川先生が画集に書かれていた
言葉を引用する。

 ”ー独り言ー広々とした海の堤防には人の姿はなく、ただ一人スケッチ
していると、いつの間にか独り言の癖がついた。「あ、シギさんストップ、
いま描いているから・・・」「むつごろうさん、そのままで穴にもぐらないで・・・」
などなど。勝手ないいぐさである。そんなある日、昼間の空に淡い月の姿が
あった。「あ、お月さん、ここまで降りていらっしゃい・・・。海は鳥たちのショー
で楽しいよ」このイメージが宙シリーズのきっかけとなる。”

 傘寿とはとても思えない、いつお会いしても若々しいままの先生である。
馬力パワフル、重厚な作品が先生に老ける余裕を与えないに違いない。
表現形式も長い時間の中で様々に変化しているのが、伺える。
変化はまさしく、飽くなき探究と葛藤の表れである。回顧展ならではの
よさである。日展初入選の作品だけが、題名も「裂」といかつく、また黒い
色面に白く裂け目のはいった抽象表現なのである。時代がそうだったのか、
有明海を抽象化するところから接近していかれたようだ。ボクも僕の
有明海を見つけたいとゆるやかにおもった。

3月1日(日)松原由佳・スプリング展(菊水堂ギャラリー)
小さなスペースの壁、床にところ狭しと作品が飾ってある。メジロ押し、
すし詰めも松原さんの個展ならではのよさである。整然さよりも雑然、
騒然の方が統一感あるというのも特異な作品たちである。無謀とも言える
この作者の不可思議な世界である。合板、紙等にいきなりアクリル、ポスター
カラーをぶちまけ下地を作るのだが、そこはもうアクションペインティング。
そのままで抽象表現として成立する下地も生まれるが、それにさらに
手を変え品を変え、汚し破壊していくかの行為。そこが彼女の真骨頂で
一歩も譲らずない松原ワールド。花が好きな人で、花を主人公に、
目、唇、手、グラス、人形などを組み込んでいく。空想ではなくモデルを目の
前に、クレヨン、アクリル、ポスカ、スプレー、建築塗料、化粧用品等など手当
たり次第の素材で描いていく。自身もハンディを持つが、どこかにフリーダの
ような痛さがにじむ。愛読書は山田詠美さんとか。イメージよりも常に手が先
に動いてしまう本当の作家なのかも知れない。ニューヨークでの個展も夢
じゃない。この先どうなっていくのか、おそろしくもたのしみである。
佐賀錦展2月28日(土)
エスプラッツ・ホールで「佐賀錦展」を見る。佐賀錦の伝統を伝えていこうと、織に取り組んでいらっしゃる皆さんの、バッグ、財布、鼻緒、等などが展示してあり、美しさに魅了された。実演制作コーナーもあり、来場の女の子たちが見るに大変そうな佐賀錦織に取り組んでいた。子供たちにも魅力な佐賀錦織のよだ。代表の井出美弥子さんは「後継者の育成と佐賀錦の素晴らしさをもっと広く伝えていきたい」と遠慮勝ちに語っていらした。
2月27日(金)山田直行ふるさとスケッチ展
山田直行さんの個展を見に行く。ヨーロッパと佐賀の風景の水彩画と
油彩画の展示。どれも緻密にじっくりと描いてある。冠雪の天山、
秋月の楼門、サン・ミッシェルなどに新しい展開を見た。逆光でもないのに
天山、楼門、サン・ミッシェルが陰として捉えてある。暗い陰のマッスは
機械の部品の集積のように複雑で黒光している。基板や迷路を
まさぐるように氏の心は動き、何かを物語るようである。今まで氏の
作品にはなかった方向せいである。陰のマッスを画面全体とした作品も
可能だろう。還暦迎えても衰えぬ友人たちがいることは、ボクにとっても
心強い。
2月8日 (日)画布200号 大作でつづる善三の世界
八女から黒木に入ると例の
「黒木です ひとみが見ている交通マナー」の看板を見やり、矢部、中津江と
山越えで小国(おぐに)の坂本善三美術館へいく。
片道2時間。久し振りとはいえ、こんなに遠かったかと思う次第であった。
[画布200号 大作でつづる善三の世界]
善三さんの200号の大作がずらり。お客は我々だけ。
善三さんの作品展にしては、たいへんさびしい。
抽象画の中に一点、抽象前の200号の具象画があった。
農家と牛とクワやスキをもつ逞しい3人の農夫が渾然一体となったプロレタリア
絵画風でもあり、また海老原喜之助さんに通じる労働する人体の謳歌のような
骨太の具象画である。
それから抽象画家としての坂本善三が始まるのだろうが、あの時「抽象と
思われようが、僕は具象をやってる」とはっきりと言われた。その逆でも同じ
ことなのである。
抽象表現の「連帯」「構成」「空間」の一連の仕事に芸術家のその追求と
方向、変化がよくうかがえる展開になっている。
「空間」の頃の作品が最も充実されているようにおもう。以前から感じては
いたのであるが、ジャスパー・ジョーンズらの抽象表現と通じる絵画空間
であると確信する。
善三さんにそんな意識はないとおもうが、国は違っても同時代というものが、
J・ジョーンズをも小国化してしまうのである。
小国という山間地の農村がもつ「空間」でもあるに違いない。
しげしげと見るでもないが、善三さんの作品に触れることは、安堵と
なだらかな高揚を喚起される。
帰路の景色の中に善三先生と出会った日のことが浮かぶ。
2月1日 (日)平方和善絵画
「平方和善絵画(村岡屋ギャラリー)」
「K一郎くんがおとおといやったかな・・、来てくれたよ」
平方さんの個展での第一声はいつもこれのようだ。
Kとはボクの兄で平方さん川本さんと佐高美術部の同期である。
そこいらの悪影響から「ボクも絵をやろう」と思うのでは、あった。
150号の大作からカトレアやアッシジ風景の小品がずらり。
先生を辞められ、気楽に描かれていらっしょるようでも、大作への取り込み
は青年であり、常に大先輩であることには変わりない。
真子さん亡きあとの暗黙の個展である。
奥さんがカトレアを育ててあるとかで、カトレアの絵が多く、ビュンビュン
絵の具が走ってた。

2月1日 (日)菊水堂絵画教室展
「菊水堂絵画教室展」(2月1日から2月28日まで)が今日から始まった。
画材屋さんのプチギャラリーに皆さんの12点の作品が飾られた。
背後の空間創りに意欲的な勢山さん。風景、静物を毎回1点は描きあげる
徳永さん。個展も多く、素材は何でも来いの、クレヨン画家の松原さん。
写真からの具象画を好む金さん。いきなり自分流、独自のスタイルで突っ
走る松尾さん。小さいながらもたのしいギャラリー。
1月17日(土))アンドリュー・ワイエス逝く
20世紀を代表する画家の1人で、田園風景を忠実に描写する手法で知られる
米国人のアンドリュー・ワイエス氏が16日朝、ペンシルベニア州
チャッズフォードの自宅で死去した。91歳だった。ワイエス氏の絵画を
多数保有するブランディワインリバー博物館の広報担当者が明らかにした。
最近健康が優れなかったという。『ニューヨーク16日時事通信』
御冥福をお祈りします。
20代後半、ワイエスの作品に触れ出口が見えた。
そして先月もワイエス展を見たばかりだった。
現在も、名古屋市の愛知県美術館でワイエス展が開かれている。
J・ジョーンズ、D・ホックニーは顕在である。
結構みなさん長命のようだ。
1月6日(火)「黄美展」(ギャラリー久光)を見に行く。正月早々、みなさん
がんばっていらっしゃる。大作もたくさんあった。林田龍信さんの水彩画群に
足が止まる。従来の観念的表現からがらりと変わって、身近な野山の
風景画である。山や棚田を高所から俯瞰的にとらえ、棚田、山林、部落の
細部まで血がかようよう丹念に描いてある。すがすがしくほほえましくおおら
かな野山の詩。場所が本来持つ強さを作者は見付けている。見慣れた
平凡な風景の中に。作品を見ると同
時に、山腹に座り写生する作者にもなっていくみたい。鉛筆も筆もリズミカル
な筆致に迷いはなく、従来の空間意識が逆ににじみ出、新たな表現を
可能にしている。峡谷を抜け新たな地平が見えて来たというところ(位置)
ではないのだろうか。
技術を越えたアルチザン的なワイエスが、ミュシャが、モローが、ターナー
がいる。


2008年
 2008年12月11日 (木)ピカソ展
ピカソ展はサントリー美術館と新国立新美術館の二か所で同時開催。
今日はメインでもある新国立新美術館見る。
いやー、マイッタ。ものすごい人の群れ。
作品はデッサン、エスキースから多種多様の代表作までと、きめ細かな充実の展開で、見ごたえ充分。これほどのピカソ展は過去に日本ではあってないのではないかとおもう。
しかし、この国際空港ロビーかデパートのバーゲンかとおもう人の多さに、ボクの集中力がなえた。
自由奔放のピカソのほんの一部をこれだけに見せつけられ、「狂人か天才」という他ないと改めて確認実感したのであったのだが・・。
狂乱の人の多さは博覧会なのか、文化水準高いのか?一体なんなのさ・・でありんす。

ミッドタウン公園にある安藤忠雄建築の「21-21」を見学。風はあったが公園をぶらぶらとニュータウンの中にうまく公園が融合している。

2008年12月10日 (水)太郎とワイエス展
渋谷駅の井の頭線の連絡通路で岡本太郎さんのメキシコで発見されたという大壁画「明日の神話」(幅30メートル、高さ5.5メートル)を見る。
こんなに巨大なものを日本で見るのは初めてのようだ。
連絡通路とはいえ、一日30万人が行き交うという巨大空間であり、作品がマッチしている。
その隅で汚れた旅行バッグを置き、座りこんで壁画を模写しているおじさんがいた。S子さんはそのおじさんと仲良しになり、絵の話をしたり似顔絵を来てもらったりと1時間もしゃがみこんだ二人だった。
何でも青森でキウイ栽培をしてる農家の人で、青森から電車のフリーチケットでやってきたという。絵は下手ですが・・、専門は版画、とかで、人懐っこく話す71歳のあきらめない風来画家であった。

BUNKAMURAの美術館で「A・ワイエス展」を見る。
過去に見た作品も3割ぐらいはあったが、描写の迫真力には現代人をふと立ち止まらせるモノがある。一点一点を指差し顔面接写の観客のゆっくとした長蛇の列。世界でも日本人に特に好かれるワイエスの世界。かなりの作品が日本の美術館等のコレクションであったが、ワイエス夫妻所蔵の作品もあった。91歳・ワイエスはおじさんは映像で「対象に瞬間、閃きを感じると、すぐにでも描きたくなる。それがエネルギーと孫娘に語っていた。

2008年12月9日 (火)安藤忠雄建築展・住吉の長屋
東京は雨だった。
安藤忠雄さんの個展を乃木坂の「ギャラリー・間」で見る。
氏の出世作・原点でもある「住吉の長屋(76年)」が原寸大に再現され、内部まで味わえる。
間口2間、奥行き7間の小さな家だが、平面を3分割した中央に中庭があり、光や風がここを介して入る。夏は暑く、冬は寒く、雨の日は傘をさして移動するという不便さもあるようだが、狭いながらも宇宙があるという安藤流の建築思想がある。
心が解放されていくようなうれしい体験をしたようだ。
世界の最先端の安藤建築を見ようとギャラリーに若い男女が次々に訪れていた。
そして、そこからすぐのミッドタウンのサントリー美術館では「ピカソ展」を見る。ピカソの多種多様の作品には、何を見ているのか判らない淵へと追い込まれる。
夜、渋谷、オチャードにてオーケストラによるコンサート。

2008年11月24日 (月)日韓芸術人交流展
雨、8時30分、ビートルで博多港から釜山へ。
3時間後、釜山港に入る。
山々の上までビル群がへばりつき、湾岸にはクレーンの林立、コンテナ、漁船、大型外遊客船が入り乱れる釜山港。
写真のチャン会長らが出迎えてくれた。
国際新聞社のホールに作品を展示。
レンテイク区庁にて区長訪問。
新聞、テレビの取材が例年より多い。
展示会場でオープニングP。
再会の友人たちとハグハグ。
再度場所を代えて焼き肉屋でオープニングP2。
ホテルはレンテイ区のDモンド。
レビューディスコもあるが、30歳以上入場禁止。
訳が判らん。
S氏とM氏を誘うが、すでに寝ていたのでN氏とホテル前の屋台に行く。
訳の判らんおでんでビールとチンロ。
やっとほっとして呑める。
ここで釜山へ来たという気分になる。
客は二人だけ。
日本語だめだけどニコニコとかんじのイイおばちゃん。
振り向くとホテルがギンギラギン。
地上から夜空へとホテル全体がイルミネーション。
ほとんどがレビューの電飾である。
白いリムジンが屋台の横丁に駐車。兄ちゃん一人が降りてきてホテルへ入る。
客かタレントか。
屋台のおばちゃんのリムジン前に立ち駐車係に携帯で写真撮ってもらってる。
寒くなってきたので、屋台を引き揚げることにする。
二人で10000ウォン(¥700)。
お金を払う度にビックリする韓国。

11月22日(土)高畠輝明・輝子・親子展(杉町菊水堂・11月29日まで)」
輝明さんの透明水彩の風景画と輝子さんの茶を基調にした日本画、十数点が飾ってある。
輝明さんは公園の林や並木通りをパースペクティブな風景として切り取ってある。
その左右対称の風景画は、真正面から取り組もうとする作者の姿勢であろう。
輝子さんの日本画は達者なデッサン力で植物と犬、サイなどが心象的に描いてある。
2006年7の「英展(田川美術館企画)」で大賞を取るなど、実力派の若い才能である。
小品ながらちゃんと見せてある。

11月2日(金)塚本猪一郎 作品展
塚本猪一郎 個展(G久光とG憩いの2ヵ所)今まで塚本さんのいろんな作品を見てきたが、新しい線の絵画に注目する。改めて線を描く作家だと思う。線にもペンのように細いものから筆で描く太いものまで様々あるが、塚本さんの筆致は泥だんごを壁にぶち当てた時のような連続せいであり、線が面に面が線であったりする。たどたどしくも原初的な骨太の線である。それは初期のころより一貫して作品に見え隠れする。作者の体質と言っていいものだろう。 50歳を境にますますその方向が顕著であるよう。何も加工しない白いキャンバスに黒い絵の具で一見、無造作に日常の諸々が描かれている。黒が余白の白より美しく見える。日本的余白の美ではなく余白と黒が等価な西洋の思想だ。そこには情感はないが選りすぐられたエスプリの解放がある。細くても描かれた線は鋭利ではない。無情にも日常を日記のように線でつないである。キース・へリングの日常の衝動にも似た記録であり、感情は抑えられ、楽しさと自由さおかしさの絵となるようだ。その裏、逆は見てはいけないというほどにつらさが見えない訳じゃないのだが、所詮どちらの方式であろうと変わらないとはおもう。時代をどうとらえるか、捉えているかということだろう。画廊のウインドウから外に目を転じたら通りに設置している作者のランタンアートがみえる。これも仕掛けだったのか?たのしい。美術のゆくべき道を示唆しており、概念をもマーケットの商品とする方向に挑んでいる。
11月15日(土)江口彰個展・三次元の日の丸
「江口彰個展・三次元の日の丸(G久光)」日の丸が大小の立体作品として床におかれている。日の丸作品の組み合わせが全体としてもオブジェであり、丸、四角、赤、白が原初的な雰囲気である。ここ10年ぐらい画廊の床だけを使った展示、表現をいろんな角度から提示されてきた。迷える人間というか、常に人間の位置を問、確認するかのようである。今回の日の丸は日本人・作者自身として捉えてあるようだ。デザイナーでもあった作者が70数年生きてこられた”日本”と”デザインとしての日の丸”が今回ここに出遭い重なったような展開である。最終章のはじまりなのかも知れない。日の丸の球体には時事的写真が全面に貼り付けられ、その上から赤く塗り込められている。メッセージせい抑えられ、パロディーやキッチュとも違うあくまでオブジェとして留めてある。こういったメッセせいや日本人観、精神せいをもって海外へ場所を移した作家も多くいるのだが、時代は流れ急変していくようでもある。村上隆は浮世絵、アニメをを今日の日本の美術とし、自身がやってることは、ピカソの方式と変わらないという。江口さんは、60年代美術を引きずるよに自分の位置を探っている御当地では無比なる表現者である。「ひもまる」という作品に興味をもった。白いボードの上に紅白の祝ヒモが円を描いている。ただそれだけだが、猥褻さ、か細さ、虚実の空洞、怨念、情念を内包する輪に見えてきておもわずニンマリ。ここに江口さんを見た。反復、虚実、拡大収縮、連動、メタファなどもの派のコンセプトをからめながらも新しい表現を模索する作家である。記号論ともいうべく解読と謎解きは見る絵画とは別の感性をくすぐられる。描くということの精神性、シチュエーションはいつまで経っても定まらずだだをこねるものである。
11月6日(木)武藤辰平資料展
旧山口亮一宅に「武藤辰平資料展」を見にいく。タイトルは絵画と資料展にすればよかったとおもう。武藤辰平さんは佐賀市材木町に明治27年生まれ、東京美術学校そして、パリに5年遊学されたボクと同町の画家である。 1965年、71歳で亡くなられた。子供のころより同町であるだけに氏の存在は存じ上げる。うちの姉は毎日のようにそこの友達の家へ遊びにいってた。会場には御子女がいらして、その話となる。一時間ぐらいびっしりと虫眼鏡で古「いアルバム、手紙らを見せてもらい時の経つのもわすれっていた。2002年の武藤辰平の世界展」(佐賀市立図書館)ではトークショウにも出さしてもらったが、また改めてその時代を知り、今の自分に無縁でなく、やわらかく影響を受けていると氏の存在が大きく感じられた。この企画を立てたのもボランティアのTさんら女性によるものと知り、さらによかった。Tさんも美大出だが、今は絵を描かれておらず、この仕事が楽しそうである。そのつどその時の限られた資料を資料としてまとめていくことが、後々の研究者なり、鑑賞者の強い味方となり、存在を消さないことにつながるとおもう。美術館、画廊などで見るのに慣れてると、畳の座敷で座ったまま資料に触れ、めくれるってことは、超美術館である。ぽかっと降ってきたような一時でした。サンキューーーイエッ
11月4日(火)真子達夫遺作展
柳町郵便局にいったら真子達夫さんの遺作展があってた。局長コレクションとYさんコレクションの油彩、水彩、色紙らの十数点。予期せぬ突然の展覧会となった。修行僧のようなひたむきな一念でどれも妥協することなく描き込まれている。真子さんの一途な芸術感がにじむ。描き過ぎではないかとおもうくらいに、氏はその場しのぎの評論家目線と無縁に生きたのではないか、とか、いろいろ考えさせられる。これも真子さんのほんの一摘みの部分を見てそうおもうのだから、全貌たるやいかに。
11月1日(土)山田直行・水彩画展
家にもどるとすぐさま、「山田直行・水彩画展」のオープニングPにギャラリーイバへいく。もう、おっさんたちがワイワイイイ気分である。直行さんの新聞連載の「ふるさとスケッチ」はじめ新作らが二段掛けでびっしり展示してある。佐賀のいろんなところを描いてあるが、まだ直行さんとボクは現場で遭遇したことはない。ふるさとをやさしくあたたかく明るく描き出してある。外でスケッチしだすと癖になり家にはいたくなくなる、と言った感じたのしんでいらっしゃるようだ。水彩も奥が深すぎる。これからの展開も期待したい。Tさんのハーモニカ演奏もあり、宴は深夜にまでおよび芸術談義、多くの人が酔いつぶれた。個展の成功を祈念してカンパイ。
9月27日(土)東京ブリジストン美術館
雑踏の地下街を抜け地上にでる。ビルの間に空がある。オフィス街だけに土曜日は静かである。ある美術館に入るとそこには西欧の光と風が漂っていた。モネもルノワールも素敵だ。淀んだ絵の具が、距離をとると澄む。作家の立つ位置が判る。再び雑踏のリアリズムに押し込められる。交わらず純粋孤立の美ってないのだろうか。唯我独尊、マイウエーも他があってのモノ。本物に触れたときのコワサ、のウソはつけない。
2008年9月10日(水)街角の写真とポピンレース展
夕方、商店街のカフェ・トネリコにいく。園田克成、久枝ご夫妻の展覧会・「街角の写真とポピンレース展」が開催中。元建築設計士の園田さんはバイク、漁船、AD,ハンティング、茶道など多趣味な方である。このところは写真とADといったところで、写真撮影にチェコのプラハをご夫妻でよく訪れられている。奥さんの額装されたヨーロピアンポピンレースは糸による幾何学的デザインでもあり、伝統の貴品に満ちている。何よりも繊細で根気のいる仕事のようだ。克成さんの写真はプラハの路地や路地から本通に出た瞬間の空気をを感じ、画面のどこかに人が捉えられている。日本の路地でもよさそうなものだが、今は煉瓦や石の建造物、石畳に魅せられていられるのであろう。生活の臭いというよりは、景色の構造をクールに美しく切り取ってあるようだ。風景と人とが一つに合致する瞬間。カルチュラ・ブレッソンの心境にも類似する作者の視線が見える写真展である。
2008年9月1日(月)柳町郵便局「中尾和紀個展」
午前、柳町郵便局の「中尾和紀個展」をのぞく。昨日までトネリコで開いていた個展の場所を変えての展開である。正三角形のキャンバスの作品・14点。前後の距離もあり、ゆったりと見られ、たのしい雰囲気になってる。ただ、(土)(日)は閉店である。柳町郵便局は新築当初より壁面を人々の発表の場として開放してある。年間を通し絵画、写真、書などの展示がなされている。地元の古い写真展などユニークな展覧会もあり、必見である。ずっと続いているというのも、絵を愛しコレクターでもある局長さんならではのことだろう。地元文化の一助になってる。
2008年8月31日(日)小川泰彦個展
小川泰彦個展(村岡屋ギャラリー)を見る。小川先生は年々カラフルになられるようだだ。有明海も深いブルーで、シギ、サギがいて、空も様々な色に変化する。よくよく考えると有明海をテーマにするとはたいへんな目論見である。染色も作業がたいへんそうだが、81歳になられ、ますます精力的であられることは、すばらしい。佐賀城の石垣をスケッチ。「真子さんのお別れの日」と書き込む。それから、家にもどり、普段着でもイイのだろうが、正装して、メモリード佐賀会館へ急いだ。
2008年8月28日(木)四人展
ギャラリーあーとえるへ「四人展」を見にいく。意欲的な女性・吉田さん眞崎さん汐待ちさん小池さんの洋画展である。経路、スタイルも異なる4者4様の個性の展開、味比べとも言えますが、たのしい雰囲気であります。みなさん、ちらっと、次への展開の試作をご披露。キャリアに裏打ちされた確かな表現にけれんみはない。気持ちも若けりゃ作品も若々しい。前向きに取り組んでいらっしゃるからだろう。意味あるグループ展である。
2008年8月19日(火)中尾和紀展
中尾和紀展を見にトネリコにいく。S田さんと和さんがいたのでびっくり。正三角形の大小の作品が壁にランダムに展示されていた。従来のひし形から三角形に変わった初の展開である。アクリルから本来の油彩にもどっての制作でもあり、油彩の方が「こんなにも自由に気持ちよく描けた」と言わしめる「楽」・演奏者らの瞬間を軽快に表している。ふり出しにもどり見つめ直そうとするのか、・・キャンバスだけは変形していく。 その足で日韓展の会議にいく。今回は釜山で開催される。こちらの代表も書道の米倉先生にかわった。準備が遅れたが、うまくいくでしょう。
2008年8月18日(月)アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶
オリンピックの最中にもイイ映画はやってるもんだ。「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」2003年/ スイス= フランス 、監督/マティアス・カリン。1908年フランスに生まれ、2004年に没した写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンが、自身の作品をふり返りながらインタビューに答えたドキュメンタリー。世界中で撮影した数多くの作品や、著名人のポートレートも多数収録されている。アンリ最晩年のインタビュー。日本で撮影された丹下健三らの作品もある。アンリ・マティスと親交が深かったようで1952年に出版された写真集「決定的瞬間」の装丁はマティスであり、マティスの写真に始まりマティスの写真で終わる。彼は語る。「写真とは息をこらして一瞬を捉えるため、自分の才能を集中させることだ」と。
2008年8月15日(金)磁場展搬入
磁場展の搬入、飾り付けである。午後、雨が来る前にと、車の屋根にF100/3点を積んで市立図書館に出発。ところが佐賀銀行まで来たところで、西の空がにわかにガス状の雨空ではないか・・。やばい、急きょ佐賀銀行の屋根付き駐車場に避難するも、瞬時にキャンバスは水浸し、タオルで拭くも、キャンバスが再度張りはじめ木枠が湾曲し張り裂けんばかりである。「ああ、後はどうなろきゃーなろだい・・」。土砂降りの雨嵐。30分雨宿りして、図書館へ向うが着いたところでまた土砂降り、ああぁん・・。すでに磁場のみなさん展示作業をしていた。西村さんが例の如く後ろからひやかされながら現場で制作していた。ボクの「ドラゴン」も最上部の1枚が濡れ変形したに止まり。木枠が変形したその作品を床に置きパネルで重石をして帰る。夜、居酒屋にて汗流し。Muuちゃん以前のように吠えだして、元気になってよかった。
2008年8月13日(水)国立近代美術館竹橋の国立近代美術館へいく。竹橋を渡り美術館までのほんのちょっとの距離が暑い。ミンンミンゼミとツクツクホウシが鳴いてる。常設展である。40年前からふらりとここへ来ては時間をつぶしている。明治から現代までの常設の数々。自分の作品がないのが不思議なくらいだ、とおもったりして自分の通って来た道のように確認と修正が可能である。WWM(世界はボクを待っている)のあのころと何一つ変わらない現実世界はおもしろい、やりがいがある。観客の半数が外国人というのも意外。観光案内でも有名なのだろうか。ビデオや写真を撮ってイイというのも進んでいる。ボクにとっては原点の美術館と言っていいだろう。
2008年8月12日(火)フェルメール上野まで来てしまった。改札を出ると公園から駅へとすごい人波が押し寄せてくる。真夏でも西洋美術館、国立博物館、科学館、芸大美術館といろんな展覧会をやってるやってる。そこで一つ、かつての団体展のメッカ・都美術館の「フェルメール」をのぞいた。フェルメールの本物・7点と同時代の作品群の展開。観客が多くなかなか作品の前に近ずけない。照明も落としてあり見ずらい。手にとって見たいところ。本物であることを信じつつ「やっと本物に出遭った」という慰めに似たもの。かつて、ヨーロッパの美術館でもフェルメールの贋作を贋作と知らず本物として展示していたという(ベンヤミン、複製の芸術)くらい、本物を超える贋作もあるらしいのだ。日本で言えば「永仁の壺事件」だな。何であろうと、ただ者ならぬビシッと響くものがあった。
2008年7月24日(木)探険美術館
クリニックを終え、吉野ヶ里町の「アートエル」へ。舟さんのサムホール展を見て、ショッピングモールの食堂でラーメン定食、クリゴ、そこの駐車場で隣の工場をスケッチ。県美術館にて、「緑光展」と「探険美術館」を観覧。「探険美術館」は毎年たのしみにしている。今回は現代的なおもしろい作品があまりなかった。昼の時間帯ではあったが、子供、大人の探検者がだれもいのは残念。無料である。家族で探検する親子があってもいいのに、広報と言うより、文化程度の低さを感じざるを得ないる。いつまで経っても底辺は埋まらない。野山にいかないならせめて探険美術館しよう。
2008年7月15日(火)青春のロシア・アヴァンギャルド
留の33階からウォーターフロントされた東京湾にレインボウブリッジ、フジテレビなど、超近代的な景色が広がる。直ぐ下には築地市場が見え、その水路を白い遊覧船が行き交う。たまにはこう言う景色もイイだろう。また汐留の超高層ビル群は近未来都市。マトリックスの内部のようで実に建築物はデザインとイイすごいものがある。新橋から電車で「青春のロシア・アヴァンギャルド」を見ようと渋谷へ向かう。ハチ公前交差点がスクランブルではなくなってる。御行儀よく横断歩道をわたるのである。 109を曲がればBunkamuraザ・ミュージアム。前回は見られなかったので、念願かなった。最初にカンジンスキーの4号ぐらいの風景画がかかっていた。各コナーの監視員も席からたち警備員並に観客を監視している。こんなの初めて。作品自体見えやすく、または接近して見ることが出来、イイのだが、監視員が気になってしょうがない。この裏には何があるのだろうとろ思いめぐらすが判らない。 1900年代初頭、ヨーロッパの影響を受けながらも独自の道を歩き始める、ロシア絵画。人や動物を看板や挿絵風に表現するピロスマニはルソーを彷彿とさせられる。それとして見過ごしてしまいそうな現代感が気になるところ。やはり、今回の展覧会では、マレーヴィッジだろう。立体未来派とも言われ、農民を多く描いているのだが、キュービックに傾倒しながらも、ある日突然のように農民が鎧を付けたロボットになる。今回の目玉とも言える農民3部作は、「思想」が生まれた瞬間を見ることができる。キュービックを下敷きにはしたのだろうが、新しい考え、概念が生まれた瞬間の絵だと小生にはみえてくるのであった。こう言った出会いは滅多にあるものではない。以前、モンドリアンの風景画の雲にそれが見えた。そのごモンドリアンも一連の「ブロードウェイ・ブギウギ」を生んだのである。マレーヴィッジを「農夫」「農婦」を見ていると、現代美術、コンテンポラリーアートの全てが見てとれる。ダイナミズムな強烈な思想である。美術館を出ると円形テラスのカフェがあって、その上だけに空が見えるのである。陽は射すけれど、ビル内の冷気が流れ出るのだろうが、涼しいのである。マレーヴィッチ様様である。
2008年7月14日(月)代官山
銀座の「ギャラリーしらみず美術」にいく。吉武研司氏の個展があってた。佐賀でも見ていたのだが、東京メトロ、北参道に設置された陶壁画の原画をメインに新しく作品が追加してあった。外は暑く、大都会の人間のるつぼなのだが、ビルの一室では秘めやかに絵画展が行われているのである。吉武くんは不在だったので、電話で話した。後で一杯やりたいところたが、時間がとれなかった。夜、代官山にいた。駅前の小さなビルの地下にはライブハウスやレストランやカフェで埋まっている。もちろん外からは判らない。知ってる人がやって来るというところだろうか。ライブハウスには長い行列ができていた。そのカフェの横の吹き抜けでコック服の男がタバコをプカ〜ッと吸ってた。俺も吸いたい、カフェに入ってタバコを一服、そこへ先程のコック服の男が注文を取りに来た。うっ、大丈夫だろうな、饅頭に糞が入ってるなんてことないよな・・と、生ビールとマルゲリータを頼むが、これが手焼きで美味いのであった。ライブ帰りの女性の一団がその興奮をたのしげに談笑している。しゃれた店でもないのだが、若い客が多い、そしてカレーを注文している。メニューには確かにいろんな種類のカレーが載ってる。鉄鍋にルーが入って出されている。オーダーに追われ、コック服のウエイターも、しばらくはタバコを吸えないだろう。
2008年7月6日(日)二科展
心にぽっかりと穴が開いたようにすがすがしい。梅雨が明けたのかも知れない。佐賀支部の二科展を見に県美術館にいく。二科には二科の雰囲気スタイルというものがあるが、時間を割いて取り組まれた熱意がうかがえる。S待さんがプロヴァンスを描いた300号を出されていた。納得がいかない様子で「どうしたらイイでしょうかね」と訊いて来られた。いつも積極的に熱心な方である
2008年6月15日(日)宮崎大治郎個展
新天町のアーケー街にある「ギャラリーとあーる」に行く。「宮崎大治郎個展」朝、美協の搬入の時すれ違っていたのだが、宮崎先生も博多に出て来て、ギャラリーにちょこんと座っていた。例の花びらのような形が淡く描かれた130号からSMの作品16点。白いキャンバスに描いたというよりは内側から浮かび上がってくるように奥深い画面は、さほど広くないギャラリーを豊かな時空に変えているようだ。従来の流れの中でかなり革新的に変化したと見える。照準の合った統一した個展になっていた。
2008年5月31日(土) 冒険王・横尾忠則
東京に来たからにはとインターネットで調べると世田谷美術館に「冒険王・横尾忠則」があった。あいにくの雨。それでも横尾さんに会えるかも知れない、と用賀から美術館行きのバスに乗る。木々の多い閑静な町だが、道路が狭く渋滞になかなかバスが進まない。はじめての世田谷美術館は森のような公園にあった。ケヤキの巨木を配した正面入り口付近の確かな空間に来てよかったと感じ入る。日本離れしたたたずまいである。観客は99%若い人たちであって、次々にやってくる。世界の名画をユーモアにアレンジした模写の小品群。Y字路絵画。雑誌に挿絵を描いてた頃の原画、校正指示画。瀧、ジャングルジム、冒険王の世界に少年探偵団が入り込む最近の大作品までがズラリ。ボクらが横尾さんに憧れたのは赤テントのポスターや平凡パンチや太陽のイラストや挿絵であった。そこいらのことは糸井重里さんが度々書いており、似たような出会い感想であり、当時の若者文化を先導(扇動)した寺山修司さんらと並ぶものである。映画では「初恋地獄篇(羽仁進 監督1968年)」新宿泥棒日記(大島渚 監督1969年」「書を捨てよ町に出よう(寺山修司 監督1971年)」などを見たころであった。銀座で淡いピンクのスーツを着た横尾さんがタクシーから降りて来たので後を付けたことがあった・・。高価な洋書を買い漁る横尾さんをただ見守るしかできなかった日・・。後に県展の審査にみえた横尾さんを囲んでの料理屋で訊ねたところ、「あれは、・・のテレビ収録の帰りだったのでは・・」ということだったが、ホントにすごい記憶力の人である。当時は限られたイラストレーターやデザイナーにより若者雑誌は飾られていた。横尾さんの仕事量の凄さは尋常じゃない。その印刷屋への指示も徹底していて妥協がない。精密なペン描き原画に詳細にインクの色やグラデーションらの指示が書き込まれ、版元になされているのである。そこで解ったのだが、その方式が後の「曼陀羅シリーズ」を生んだようだ。分業することで印刷を版画とする新しい方式で、アートディレクターなる存在も出現した。今回「曼陀羅シリーズ」は出されてなかったが、組むことで作品を作り出すという共同作業をすでにやっていらしたのである。「印刷はぼくを離れた新しい僕の絵・・」と言っておられたのがうなずけた。今なら、一人でパソコンで済むところなのではあろうが、もの創くりは人とのつながりと広がりも肝心なのであって、ボクも外注の依頼はそう心がけている。かく言う横尾さんは1936年生まれというら71歳。若い。精力絶倫にエロチックに活動する疲れを知らない子供のような人。表現も明らかに子供時代から発しておられる。子供時代の宝島は途絶えることがないのだ。横尾さんの西脇高校時代の集合写真があって、一人の女生徒が歌っているように校歌が書きくわえてある。そのふざけっぷりがボクらと重なる。会場では若者たちが真剣に熱心に一つ一つの作品に見入っている。もの音、ささやき声さえしない静まり返った展示場が、不気味でさえあった。うつろにロボットのように注視している。ニヤッとしたり、うなずいたり、ふふーんぐらいあってもイイのに、なにを見てるのやらと観客がおかしくなった。これでは横尾さんも困るのではないかいな・・。最後の部屋にかつて横尾さんからもらった年賀状の原画があった。写真では解らなかったのだが、包帯のような布が従横に貼り付けてあった。会場に横尾さんはいなかった。明日トークショウがあるらしいが時間的に無理。横尾さんに一目会いたかったが、残念。足早に見て回ったのだが、足が棒のようになった。横尾さんには横尾さんの世界、そこに付き合うことはない、見習うべきは若きエネルギー。足が棒になったなんぞかわいいもの。
2008年5月28日(水) 本田光男 個展

ラジオが「梅雨入りした」と言う。三田川のギャラリーあーとエルへいく。「本田光男 個展(あーとエル)」 100号クラスの作品がずらりと展示してある。赤頭巾のキャラや仮面ライダーの顔があるカラフルな画面は、先端のコミックアート風でもある。おもしろいと言えばおもしろくもある。しかし、自由奔放な稚拙な表現も、どこか吹っ切れない。突き刺さった包丁も縛られた鎖も、説明的な痛み、アブナサの範疇。常識が邪魔してんのかな・・。別室にドローイングやアクリルの小品が数十点展示してあった。大作に比べこちらは自然だ。日記のようにてらいがなく、肝心な骨格があるのであった。ご当地には稀な表現スタイルだけに今後がたのしみです
2008年5月20日(火)舟さんの石積みドローイング
夕方、舟さんの個展を見にギャラリーIBHへいく。昨年のギャラリーあーとエルでの個展ではカラフルな彩色で石積みが人(キリスト)に見えたのだが、今回のドローイングは彩色が押さえられ、サイズも葉書の半分ほどのかわいらしい40数点の展示となっている。石そのものも形があり、立体物である。その石を積み上げていくだけで、別の大きな立体物が生まれる。ピラミッドしかりである。造形物を町や自然の中に置くことでその状況や環境をとらえ直そうと試みる舟さんならではのアートからすれば、済州島で舟さんが遭遇した海や山の石積みは原初的な人々の願いの形であったのだろう。形は信仰や神がかり的に生じ創られるものでもある。原初的に造形することを見直そうとする氏のポジション、また逆には石積みに造形することを問われた瞬間とでもいうのは昨年の個展と合わせ見えるようなのだが・・。また、大きさではかなうものではなく、最小の画面にしたというのも計算とエスプリからであろうし、ギャラリーIBHのスペースのたのしみ方も見えるようだ。何をやってイイか解らず羅列する若い人たちへの最小のアンチテーゼではないのか・・。
2008年4月30日(水)2日目
昼まで、K高さんがいてくれた。見送りもできぬまま、K高さんは東京へともどっていった。手伝いに来てくれたような結果に申し訳ない。しかし、おいしい酒は飲めたね。本日も入場者が途切れることはなかった。ありがとう。
2008年4月29日(火)初日
一堂に並べられたら・・」「・・どう見える」そんな個人的な領域を超えていく・・。ボクの緊張と不安を払いのけるような見に来てくれった人々のよろこんでいてくれるような感触。想像、予想をはるかに超えたお客の反応にそれを信じてイイのかどうかとまどっている。午前と午後に渡って西高の生徒さんたちが見学に来て、何かプリントに書き込んでいました。放課後には今度は美術部の生徒が来てくれて熱心に見ていました。K島先生の現場での美術の授業なのである。ボクも質問を受けたり、高校生と接することで美術が膨らんでいくような幸せを感じられました。K島先生ありがとうございました。お客さんの入場は5時まで途切れることはなかったが・・。 終日、K高さんが受付をしてくれ心強くも助かりました。そいで、二人でイバまで歩いていく途中向こうからやってくる集団が見慣れた集団に変わりお互い立ち止まる。F田求くんとK場さんらであった。 60男らが狭い小路で立ち話。彼らはボクの隣ぽ班の小料理屋へ、ボクらは天神のイバへと・・。イバのとっちゃんがビール冷やして格子戸の座敷で待っていた。棚にはお祝いの酒類がぎっしり、まるで酒屋だ。画廊と6畳お座敷が同居するおかしなギャラリーである。隠れ家ととればたのしいのだが・・。おっちゃん、今度はも一つ本気だし。
 2008年4月28日(月)設営そしてオープニング
朝、北高芸術コース出身の若きO串くんとO宝くんが来てくれた。F運送のトラックも8時に到着。30分で積み込み、そして親戚の家へ移動。ここで制作した200号1点と過去の作品1点を積み込み、美術館へといく。9時30分、予定通り4号展示室へキャリーでどんどん運びこむ。展示室では学芸員のNさんが前の展覧会で使ったの可動式壁面を動かし、ボクが以来していた形に整えていた。そこへS田さんが現れ、眠気眼のつんちゃんが来て、美術部OBのM田くんY崎くんが来てくれ、ボクが事前にシィミュレーションしていたレイアウト通りに作品を並べていく。作品を置き変えるいてこともなくピタリとおさまったかに見えたが、一か所、空きの壁があり、作品が一点足りないのである。ツんちゃんの車で家に取りに戻ると、出品しない作品群に入れられ額もついてなかっので付けてもどると、全ての作品の上にはワイヤーが下がっており、びっくりこれなら早い・・。若手二人も慣れたものだ。高いところへはO宝くんが一人で身軽に上がっていた。指示するまでもなくおっさんも若者もそれぞれに持ち場を決め動いた。さすがだ。完璧な連携である。ほとんど午前中に作品47点はつるされ全貌が見えてきた。予想よりはるかに早いのであった。そして、県庁裏のちゃんぽん屋で昼食。M田くんとK高さんとボクはビールを軽く。午後にはほとんど終わりとなるが、壁面中心の空間が広く冷たく感じたので立体作品を置こうと、再び家へ取りに行く。最初にあったのはお化け屋敷の雰囲気だったが、準備設営に時間がかかり過ぎるのと、同空間での平面作品と猥雑なものとの競合が無理と判断し断念。平面中心としたがやはりさびしい。 3年間のセミの作品を運びこんだ。若手二人にそのセミを好きなように展示するよう任す。意外性を期待したのだったが、やはり意外に彼らは箱などを使用してオブジェとして表現してくれた。そこへ駆け付けたM局長、先輩・W天皇も瀬見のオブジェを手伝ってくれた。それにて、4時過ぎ、すべて設営完了となる。みなさんの協力の元無事見事な展開となったとおもう。K高氏、O串くん、O宝くん、S田さん、M田くん、T本くん、Y崎くん、W天皇さん、M局長さん、心よりありがとうございました。また、ここに来れなくて気にしていてくれたみなさんありがとう。夜、天神に移転しリニューアルした「ギャラリーIBH]にてIBHとボクの個展のオープニングパーティー。40人ぐらいいたのかな・・、後はもう・・・。
2008年4月21日(月)時代感覚
3
軒のホームセンターで15枚分の仮縁60本を何とかかき集める。寸法に合う板を縦に3等分にカットしてもらったのだが、それぞれに上手下手があるようだ。さしもの細工をするわけじゃないけど・・。板の反りや鋸の厚みを微調整する必要があるのである。それに、一軒は車まで運んでくれた。画材にしても同じく通販店は素早い。大体注文して3日で届く。それにくらべ一般店関連のシステムでは倍以上の日数をようする。はっきりと勝負はあり、そこに淘汰されていく原因もある。ボクの場合もまず余裕をもって注文することはない。でもなじみの店も大事にしなくちゃいけないんだけど・・ね。夜中、ほろ酔いのKくんが陣中見舞いと称し、ひょっこり現れた。彼が言うには、ある画材店に額を頼んだらしく、「こちらの依頼を面倒くさがるんだから・・やるきあんのかねぇ、考えられん・・」と憤懣やるかたないのであった。一般店も時代と共に研さんし向上していってもらいたいものであります。
)2008年4月20日(日)材木
200号のたるみを張り直す。左手首がだるい。仮縁の材木も買いにホームセンターをまわる。 15枚分だからかなりの量である。一か所ではそろわないのである。
2008年4月19日(土)キャンバス張り
枠からはずしていた作品のキャンバスを張る。 100号6枚もあり、張り器を持つ左手親指付け根が、もうガチガチ、力が入らぬ。最近は張りキャンを購入するからねぇ。
2008年4月7日(月)ゴールドメダリスト
旧作の制作年を調べてた。これが、簡単には?・・面倒なのであるが・・、高校2年の時の県展作品の冊子を見ていたら、審査員に香月泰男、坂本善三の名前があった。へぇー、おどろいた。香月さんも善三さんも17歳のボクの作品を見てくれてたのか・・、とめぐりあわせというか、出会いというかうれしくなった。東京オリンピックの年でもあり、県立図書館で初めて開いた美術書が岡本太郎さんの「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」 (今日の芸術:岡本太郎著)だった。そこからボクは太郎さんの「泣く子」を文字って「ゴールドメダリスト」を描いた。円谷幸吉さんアベベさんへのオマージュであったろう。「今審査があってる」とおもうと、体が熱く授業も上の空だったのを昨日のことのようにおもいだす。
2008年3月2日(日)37年前の200号
37年前のロールにしていた200号キャンバスを張るが、1日ごとにたるみが生じ4回張り直した。最終的にはもう一回張り直さねばなるまい。その一点を塗りつぶしたのだが、半日で乾くはずのファンデーションが1週間かかり、その繰り返しを数回やり、乾燥まで1月がかかった。気温が低く絵の具が眠った状態になるようだ。それにしてもこんなこと今までにない。 37年前、意気揚揚と謀画材屋に200号2点を注文したのだが、なかなか届かない。そこで友人のK君が画材屋に「・・描く気になってるのに・・」と苦情の電話をしたという曰くつきキャンバスである。ふと、「今日は何の日」とおもいが巡った。ひどい二日酔いで頭が回らぬ。家に電話してスケジュールを訊くと美協の会合だった。 1時間遅れで会議に参加。ぐじぐじぐちゃぐちゃと3時間の会議終わって、5月半ばにする個展のDMを配る者がいた。こちらは今からというのに。早けりゃイイてもんでもなかろう。
美しき戒名
ろころ、S新聞に滝口さんが「美しき戒名」という短編を掲載されることになり、その挿絵を描かしてもらったのが私でありました。
”--松寿院殿信操浄節大姉。
ある女性の戒名である。松に寿、信義の信に加えて、古い時代の女にとって命ともいうべき操の文字、さらに清浄の浄貞節の節とくれば、これはもう、女性の戒名としては最高に近かろう。--”と始まる。夫もある勝姫の不義密通のの考察であった。
古文書のたった一行の「竹光・・」から異聞浪人記(映画・切腹)が生まれたと滝口さんから聞いた。イメージはふくらむものである。
ただの挿絵にしたくなかったので、紙パレットに油絵の具をスキージでひっかいて、どろっとしたおぞましきドクロの女性を描いたのだが、これが、エログロにも見えたのか、S社で掲載につき議論になったようだが、見事新聞の一面を飾ったのでありました。べんべん・・。
後に滝口さんにその話をしたら、「へぇ、そうだったの」で終わり。
滝口さん51歳、私28歳の甘酸っぱいおもいででありました。
その挿絵原画、その直後、気に入ったという友人にやった。
ので、スクラップを開いたら、その新聞は馬糞色を通り越しカレーライスなってた。
小説はもちろんだが、挿絵も今見てあれでよかったのだ。べんべん。

3月27日(木)DRAGON for A・C・クラーク
ACクラーク氏がいつの間にかなくなららていた。三島、大江、夢枕、ら文学にもそのイメージは影響を与えた氏の宇宙、人減観。ボクにとっても氏の比重は大きい。といってもキューブリックかも知れないが・・。期せずして、現在制作中の作品は氏へのオマージュであればイイ。土井さんらが宇宙でかつやくしようが、すでに2001年オデッセイで見てしまったような、チョウ現実、ルネッサンス。遅ればせながら、御冥福をお祈りします。
3月12日(水)ぺた展
午前、美術館で北高美術部の「ぺた展」を見る。 43年前、北高美術部2期生の連中がはじめた。へた(下手)、ぺたぺた塗る、を文字って「ぺた展」としたと言ってた。ここまで絶やさず後輩が続けるとは、当時ちゃらんぽらんの悪童2回生もおもいもしなかったろう。さて、作品だが、みんな粒ぞろいに上手い。難点は突出した個性が見えないこと、おりこうさん。芸術コースの先生方は「周りに遠慮しないでやりなさい」と指導してほしい。ぶちかませばイイのである。道のりは長い、おりこうさんはいらない。左のフィギュアーもありました(作者の名前をひかえていなくて申し訳ないです)。
1月31日(木)上滝泰嗣洋画展
上滝泰嗣洋画展(村岡屋ギャラリー)油彩ヨーロッパ風景展であった。フランスの農村の澄んだ空気を感じる明るい作品である。「もう、好きなように描きたい」と上瀧さんは言われた。スタイルや形式に結構、囚われていらしたようだ。いつまで経ってもはたして、何にも囚われず自由であるか、は自問であるようだ。中でも、30号の作品4点は、スキッツと空が抜け、爽快であった。
1月17日(木)野中瑛碩80歳作品展
「野中瑛碩80作品展」(県立美術館研修室)はじめて見せてもらった。書、絵、篆刻、石彫など多様な表現の展開。一般の書道展とはかなり異なる。型にはまらず、おもいついたことは何でもしてやろうである。こんな書画があった。自画像が3点の脇に「怠け者だからクローンをつくったが、クローンも怠け者だった」たのしんでいらっしゃる80歳。権威や肩書の外でおもしろ人間・自由人というところなのだろうか
2008年1月5日(土)黄美展
久光ギャラリーに「黄美展」を見に行った。小城高OBのおじさんたちの展覧会である。 1階、2階のスペースに大、中の作品がびっしり。美術の先生やプロの人たちだけに見せてくれます。オーソドックスな絵画から現代アートまでと表現もテーマも多様。一回一回の発表の場が出品者にとっては互いの勝負でもあろうし、見る側にとっては、新鮮なよろこびや衝撃と出会える場であろう。全員が絵画という言葉を持って、ゆるやかに、また激しく語っている。疲れを知らぬ切磋琢磨する素敵なおじさんたちである


2007年
2007年12月23日 (日)北高芸術コース20周年記念展
「北高芸術コース20周年記念 美術、書道 展」を県立美術館で見る。
4号展示室に卒業生、在校生、関係した教職員・210名の作品が飾ってあった。
書道と美術の現代のあらゆる様式の作品がたくさん並んでいるのだが、
すんなりと見ることができた。
質も高くバラエティーに富みたのしませてもらった。
在学当時を基礎に独自のスタイル、径を切り開いていってる。
中央でも地元でも独立してその道を進んでいる卒業生たち出てきていることは、
確かな歩みであり、県にとっても宝であろう。
「さすが、北高芸術コース」が20年にして明らかになったようだ。
しかし、芸術コースもない、そのずーっとずーっと前にはボクらも汗にまみれ、
しもやけカイカイでやっていたのである。
佐高が東、西、北の3校に分離したときにはどうなるものかと「不安」な時代
ではあったのだが、こうして見るとうれしくもあり、皮肉でもある。
また、その時代時代の指導をしてくださった諸先生を忘れることはできない。
さらに質の高い芸術コースを目指してほしい。

2007年12月21日 (金)九州派再訪-2
雨ん中、山越えして博多にいった。
閉館前の福岡市美術館で「九州派再訪-2」(1960〜1968)を見る。
当時の九州派は存在さえ知らなかったのであるが、彼らの運動、活動には興味あるところだ。
「東京へ殴り込みをかける素敵な野郎たち」と言うだけで刺激であった。
その後桜井さんやオチさんとは面識があるのだが、九州派時代を継続し発表しているのは菊畑さんだけのようだ。
桜井のおっちゃん最近個展もないようだけど、パリで元気にしてんだろうな。

2007年12月18日 (火)松原由佳SICK展
そうだ、今日は由佳さんの個展の手伝いに行く日だった。
昼も過ぎそろそろ行ってみるか、とおもったところで??あれっ!
新聞を見れば火曜日・・。
なんでこうなるの・・?飾り付けは普通月曜日である。
とりあえず会場であるギャラリー久光へいく。
ギャラリーからはみだすばかりに作品がつめこまれ、並べられていた。
妹さんと好きなように並べたというが、狭い空間がたのしい空間に変わっていた。
画材店も顔負けのにぎやかさである。
これだけ大量の大小の作品をよくも押し込んだというか、全てをおさめようとすれば、こうなるしかなかったろう。
それが効を奏したかのように由佳さんの女の部屋なのであった。彼女独自の内面世界が表出した個展である。
もともと花が好きな人で今回もたくさんの花の絵がある。
それが数年前から、花に唇、目玉が加わわり、香水の瓶や、そして手足身体がバラバラに入り込んで来るようになった。色彩は以前に比べ、明るくカラフルにはなってきたけども、題材からしてもおどろおどろしいグロテスクな不気味さは増していくようだ。
マチエールはさまざまで、下地造りはポロックのアクションペインティングさながら、身近な絵の具、画材を手当たりしだいにブチまき、流す。その偶然の下地自体が美しかったり、作品よりよかったりすることもしばしば・・。
その上にクレヨンを多様し、何でも材料とする。
人体がばらばらであることは、怖く、痛く、フリーダに通じる狂気さも感じるのだが、甘さも目につく。
尋常に絵画しているのに尋常ではなく見えている。本人の意識するところではなく、人間性も、やさしさも痛々しく表現され、本質を突いている。
玄人受けがイイようだ。
指絵、足絵も描くのだが、手足は道具であり、肉の中から子宮の中から何かに描かされているという神がかりな側面も感じる。
草間弥生さんにも通じる。
文学では、唯一山田詠美さんが好きで、いろんなインスピレーションを享受しているようで、今回のサブタイトル「SICK」も病気という以上に「宇宙」へのつながりを意味しているとのこと。
フリーダよりは山田詠美の解放へ向うべきとボクはおもっている。
デッサンのマズさを埋めようと、デッサンをやり直していた時期もあったが、作品を作る意欲の方が、それを遠ざけた。やれるものなら、描画上のデッサンに未練はない。
絵画のグロテスクせいばかりを言ってるようだが、「Sick」皮肉を込めた女心であり恋心でもあるのだ。非凡な恋多き女性なのである。
半ば、入院により流され中止になりかかった個展を、強引にも年内に開いたのはよかった。
ギャラリーにもつめている妹さんや家族の協力もあって可能となった。
本人にとっては、賭けだったのかも。来年に持ち越さず、今年を消化しようと言う意思決定が今回の個展にも表れている。
体調への不満、長期入院のいらだちがふつふつとほとばしっている。欲も捨て「どうにでも見て」と初めて開き直ったようにドンと座っている。
新たな地平とは時にはそんなものだ。
足の骨折により予定より半年遅れの個展となったが、
創造という表現のデッサンを手にいれようとしている由佳さんである。
個展おめでとう。

12月16日(日)韓国美術のリアリズム
R子にチケットがあるからと誘われ、博多へいく。
まず、腹ごしらえは昆布塩ラーメン。
博多座でわらび座のミュージカル「天草四郎」であった。
観終わって、隣のアジア美術館で「韓国美術のリアリズム1945〜2005」が開催中だったので、娘らと別れ、覗いてみた。
リアリズム絵画かとおもったが、当然韓国の歴史を踏まえてのリアリズムであった。
貧困、差別、弾圧、虐待の苦悩する戦後韓国の姿である。
韓国と言えば、前衛的現代美術としては、世界的にも知られるところだが、戦前戦後生まれの若い作家たちの時代絵画であり、初めて見る世界でもある。チラシにはそこのところを「民衆美術」と表現してあった。
ボクらも韓国との交流展をやってるけど、彼らの作品にその微塵をもたどることはむずかしい。
日本とて今日においては似たようなもので、言うに及ばぬ。
かも知れないが観客が少ない。ボクの他に男性が一人いただけ。
切符売りや監視員の方がはるかに多いのである。
ましてや、日曜日である。
こんな人のいない画廊を歩くのは、内容のヨシアシに関係なくイイものである
12月5日 (水)一ノ瀬泰造写真展
「一ノ瀬泰造写真展」
以前にも何となく数回見てはいるものの、今回はこのために来た。
写真の他に家族や友人への手紙や日記、遺品の数々が展示されており、
タイゾーさんが少し見えてくるよううだった。
ボクとは全くの同年である。
東京でもどこかですれちがって居たかも知れない。
彼がベトナムに向かった頃、ボクは北欧へ向かっっていた。
同時代に殺戮の戦場と牧歌的田園なのである。
せきたてられるように列島を出るのであった。
イージーライダー」ワイルドでいこう。
「真夜中のカウボーイ」うわさの男。
「明日に向かって撃て」雨にぬれても。
3本ともストックホルムで見た。
夜は皿を洗い、昼は観光客が多いガムラスタンの小路に絵を並べた。
孝孝二年の時、「ベトナムの叫び」を描いた。
どうなったのか?その作品は今はない。
この歳なって、はじめて正面からタイゾーさんの戦場写真と対峙した。
随分と時間がかかったものである。
毎日が刺激的でエネルギッシュでそこにいることで、二つの自分が一つになれた。
涙一つ流さなかったタイゾウーさんも後に、ワーわー泣きながら地獄絵の
シャッターを切っていたのであった。
そして、26歳であの世の人となったのである。
”・・うまく撮れたら、東京迄持って行きます。
もしうまく地雷を踏んだらサヨウナラ!
今から同居している大勢の供達と写真を撮ります。
アカツへ   11月18日  タイゾー”
映画のタイトルにもなった友にあてた最後の手紙(となったの)である。
日記や手紙の文章もリズミカルで躍動していておいしい。
しかし留まれば考えた言葉しか出てこないのである。
開高さんがペンを折ったのも判るような判らないような・・リアリズムは
方法論でしかないのか。
画学生がピカソやマチスに憧れるように、タイゾーさんも沢田さんら報道写真家に
憧れ、武者震いでベトナムに飛び込んだようだ。
一つ一つの日記や手紙の1ぺージにちりばめられたモノは写真と同等に重い。
「撮る」「描く」ことも、時に、書くことを一体となすようだ。
タイゾーさん、ありがとう。
 2007年11月26日 (月)アニョハセヨ
時計を見たら、9時30分を過ぎてた。
韓国の人たちは電車で佐賀を離れたろう。
見送りにいかなかったけど、博多港からビートルに乗ることだろう。
あわただしい交流であった。


2007年11月25日 (日)観光案内
朝、韓国の文化芸術人を乗せた6台の車はホテルをスタートした。
ボクの車には昨日の凧チームの3人とN事務長が乗り込んだ。
ぽかぽかと今日もイイお天気。
思いのほか紅葉の佐賀の町が美しい。
佐賀城本丸を見学。ここで還暦同窓生の久保君、すんちゃんらにばったり。
チョーさん、ペグさん、チャンさんら4名はY倉先生の車で吉野ヶ里、
そして博多へと向い、バイバイ、アニョンハセヨ。
そして、5台の車は有田へと向かった。
山内町のドライブインで昼食。バイキングの待ち時間にベンチで韓国の連中は
早くもさきイカで焼酎をやりはじめる。
ボクにも勧めるが、運転手は呑まない。
丘陵の陶器卸団地にいく。
観光客であふれている。
その通りで異色な苔玉を実演販売があってた。
遠くから見ても古賀くんだとすぐにわかる。
一服するヒマもない商売繁盛のようである。
すっかり、植木屋のおじさんだな。お客さんとのやり取り、
おしゃべりもたのしそう。
金子さんとボクは茶碗に目もくれずチェッカーベリーの苔玉を買う。
九州陶磁館を見学。
3時前、陶磁器のからくり時計の前に人だかりができた。
陶磁器の文字盤が開き陶磁器の歯車が回り、陶磁器の
童子たちが踊って
3時を告げた。珍しいものを見せてもらった、よかったよかった。
佐賀にもどり、夜、韓国のみなさんと焼肉屋へ。
連チャンで、おじさんお疲れ、いぶされて燻製になりそう。


2007年11月24日 (土)
日韓文化芸術人交流展
そして今日は韓国の釜山からお客さんがみえる日。
「日韓文化藝術人作品交流展」
ぽかぽかとイイ天気である。
昼、市立図書館にいき、出品者のみなさと設営、展示。
そうしているうちに韓国の皆さ23名が到着。
「アニョンハセヨ」握手、ハグハグ。
「外の広場に凧が上がってる!」という声にベランダへ出てみると、
何とカラフルな連凧250枚が600メートルにも連なり、凧糸の途中には
「日韓藝術人交流展を祝す」?とあり、先端はもう空に消えている。
どんどんの森から韓国側の凧チームが日韓展のオープニングを
祝ったのである
が、市民も何事かと秋の日贈り物にみいっていた。粋な計らい、
It is ハプニングであった。
韓国側の展示も終わり、オープニングテープカット。
来賓の佐賀市長、国際交流室の吉野さん、韓国側の来賓の
方々に作品の
解説をする。
そして、はがくれ荘に移動して、みなさんお待ちかねの呑めや歌え
の親睦大宴会
へと突入したのであった。
2次会は事務長お気に入りの霊の店へなだれこみ、カウンターの
中まで
ぎゅうぎゅう詰めの日韓合戦。
韓国だと朝までだけど、韓国の皆さんは遠慮してか早めに引き上げる中、
引き留めたチョウさんだけが最後までいてくれて、へべれけ
フラフラにたのしんでた。
事務長とKちゃんがチョーさんをホテルまで送りお開き。
11月11日 (日)横尾尚 写真展
阿蘇を止め湯布院に向かった。
ゆふいん駅舎の待合室兼ギャラリーで「横尾尚 写真展」を見る。
佐賀でも見たのだが、ところ変わると再び新鮮に映る。
中国、雲南省のハニ族、ミャオ族の棚田の田植えから刈り取りまでが
詩情豊かに活写され、なつかしくも忘れてきたものをおもいだす。
機械の入らない農業現場のスケールの大きいこと。
水と大地と棚田の織りなす荘厳の美しさ。
その中に点となり、うもれるように自然と調和して生きる人々の
目の輝きは生きる証。
行楽の日本人も多くが見入っているが、何を見るのであろうか。
シャングリラを過去とおもうなかれ。

「ゴミ屋敷か!」と見まがう骨董屋があった。
爺ちゃんが入口に座り、軸ものの山を開いて番していた。
駐車場にまで壺、カメが溢れ、野積み山積み、絵画、本、春画、刀、仏像、
ツバ、キセル、巾着、集めに集め、店舗をはみ出しゴミ貯め状態。
どこに何があるなど判っているのだろうか。
外国のマダムが値段をメモして漁っていた。

夜、「ウルルン」でハニ族をやってた。横尾さんの写真の世界の動く
映像でありながら、横尾さんの写真の美しさには達していなかった。
数日間を撮っただけのテレビと、数年をかけじっくり取り組む横尾さんとは
おのずと異なるのである。
しかし、稲刈り、長街宴と番組としてはたのしめた。
11月7日 (水)真崎太仁子個展
真崎太仁子さんの個展を見に村岡屋Gにいった。
黒っぽい画面に渦巻きがあったり、テーブルがあったりする従来の作品があって、
新しい取り組みとおもわれる「窓辺」の連作と花や風景の小品が並ぶ。
「窓辺」シリーズには人の足が登場する。何なのだろう??
「窓辺」と言うが開かれぬ閉ざされた空間なのだ。
室内でものを考え室内が好きなのだろうが、開放的な秋の田園風景もある。
まっ、人の心象風景、判りきれなくてもイイだろう。
11月日3日 (土)江口彰展
「江口彰展 ALUMI ON TRAUMA インスタレーション」
江口さんが表でたばこ吸ってた。
10時過ぎとあって、本日の最初の客となる。
フロアー一面に鍋焼きうどんのアルミ箔の器が碁盤状に50数個並べてあっり、
その中央部分に手作りの飛行機が4機と缶やペットボトルのつぶれたフタが置かれ、
一つの器に赤で「トラウマ」と書かれている。
それが、作品の全である。
銀色に塗られた缶や、飛行機もあるが、「飛行機の機種にはこだわってない」
ジュラルミンのイメージのようだ。
1機に日の丸がついていた。
「製品はゴミになり、ゴミは製品にリサイクルできる」と言う今日的問題が
下敷きにされている。
しかし、それから先にテーマ(言いたいこと)はある。
「トラウマ」である。
氏が生きてきた70年・戦前戦後を通して変わらぬゴミ貯め、旧態依然の現実。
フロアーの諸々がゴミ貯めであったり、戦場であったり、ポストゴミ貯めはどうなる?
とたたずむ現実。電子時代が来たけれど、ストレスとトラウマが増殖するだけ・・。
フロアーに並べられ、また、ばらまかれた品々をヒントに答えを
見つけていくことになるのだが、普通目には、ちょと判りにくいかも・・。
いつまでも現代アートをたのしんでいらっしゃるようだ。

簡素に見える江口さんの表現は、「見えればイイ」という現代のスタイルとも違う。
見てくれとは裏腹に結構、理屈っぽいのである。 60年代をまだほじくってあると
言った感じで好きだ。ご当地においては貴重な作家である。
2007年10月14日 (日)聞きしに勝る大原美術館
岡山から倉敷まで快速電車で15分。
駅から歩くこと10分、くらしき美観地区。堀割の両側にナマコ壁の蔵や商家が並ぶ。
江戸の町に入ったような美しくもなつかしい。
「大原美術館へ一度は行くべし」と昔より美術雑誌などで見ていたのだが、
この歳なってやっと来た。期待は膨らむ。ワイエスの「薄氷」も確かここにあるはず・・。
ギリシャの神殿のような正面玄関両サイドにロダンのブロンズ像が立っている。
その一つの後姿・髪型がボクにそっくりとS子さんが言う。
館内の作品もルネッサンスから現代まで教科書や美術雑誌で目にはしてるが
原物はお初である。大原さんのお抱え画家・児島虎次郎が収集したという作品だけに
一点一点が見ごたえがあり、観客も多いが、ゆっくり見ることができた。
4時間ぐらい見ていたようだ。疲れもなければ、こんなこと初めて・・。
隣の加計美術館にも入った。
現代絵画を集めてあって、現役の日本人作家の部屋もあった。
その中に佐賀大出身で塚本猪一郎くんらの後輩になる東島毅の
200号の作品が展示されていたのには驚き、またその迫力に心乱れた。
もっといろいろ見るところも、見たいのもあるのだが、そろそろオラが郷へ
帰らなければばならない。時間がない。また来ると言っても、もう多分来ないだろう。
やらねばならないことの時間も多くはないから・・。

後ろ髪引かれるも、逃げるように倉敷駅に向かった。

9月26日 (水)舟さんの個展
午後、吉野ヶ里のGアートエルに舟さんの「石積みの個展」を見に行く。
銅板に済州島の石積みを題材にアクリルで彩色した小品が数十点飾ってあった。
舟さんの大型、立体のイメージからは質素である。
済州島では山や海に石をドーム状に積み上げ、山や海の守り神にしていると言う。
そのシンボル性と形状に閃くものがあったのであろう。
それをカラフルに点描、線描にて描きだしてあった。
指であったり、男根に映るのだが、見ていくうちに恐山のイタコになりマリアの母子像、
そしてキリストその人に見えていき、指も男根も島ではなく半島であると、
ボクには見えてきて面白かった。
舟さんは、かつて銅板を釘でひっかいたり、たたいたりした縄文線刻風のレリーフを
作っておられた。
当時の未使用の銅板が残っており、その表面が自然に腐食していたと言う。
「放置し腐食した銅板の<時間>に現在の時間を重ねる」試みであったようだ。
しかし、画面は色で覆いつくされており、銅板だとは判りずらい。
ボール紙かとおもっていた。
点描、線描だけにその筆致のすきまに薄黒く腐食した銅の色が覗いている。
舟さんが現実に心通わすのはその隙間との交信であろう。
さらっとカラフルな作品の隙間には、閃き、思いつきでもない熟成した思想が
ひそんでいるのである。

9月23日 (日)高橋浩寿
「はがくれ支部・高橋浩寿・五周年記念大会」を見に文化会館へいった。
高橋浩寿さんは20代前半の女性でS子さんの先生でもある。
子供のころより三味線、民謡が天才的だったよう。
数年前、エスプラッツで高橋浩寿さんのリサイタルを見て聴いて素晴らしかった。
抑揚が激しく叩きつけるような曲弾きは男顔負け。
東京から駆けつけられた浩寿さんの師匠である71歳の高橋裕次郎さんには参った、
恐ろしくすごかった。プロの余裕と迫力。
氏の演奏とトークは圧巻で、唸り、惹き込まれ顎がはずれるくらい笑わされた。
最近の若手三味線弾きとは及びもつかぬ。
「津軽はじゃじょんがら、病は気から(わけわからん)」
「普通の三味線はこう・・」と静かに平坦に弾き、
「津軽はこう・・」と抑揚をつけ激しく叩きつける。
それだけで、違いは判り、津軽が楽譜のない自由奔放の三味線かがよくわかり、
また、観客を一手に惹きつけてしむのであった。
「東京キュウバンボーイズとの三橋美智也さんの三味線がかっこよくて、
津軽をはじめた・・」と当時の三橋美智也の演奏形態模写を披露、かとおもうと
高橋地竹山、吉田兄弟などの奏法、しぐさを軽々とまねられるのであった。
90歳の尺八奏者にむかっては「○○さんまだ生きてたんですか、
あんまりあわないものだから亡くなられてるとおもってましたよ」と。
とてつもないおっちゃんである。
一芸を極めるとは微塵も必死さやきつさを見せないことのようだ。
9月15日 (土)高橋孝コンサート
ホテルに荷物を預け、秋葉原からつくばエクスプレスで20分、八潮に着く。そこで、
また用足しに駆け込むのであった。
開演30分前、メセナホールには大勢の人が入口に待っていた。
「高橋孝コンサート」
照明が落ち、ピアノとギターの間に孝さんが緊張気味に登場し、
スポットライトを浴びて歌いだした。
いつもに比べ今回、音響のヒズミが気になったが、熱唱と三味線を堪能し、
2時間は短くもあった。
終演後の孝さんとの再会もおたのしみ。
記憶力がよく、ファンを心から大事にする好青年である。
S子さんにつき合いこれで僕も3度目、すっかり孝さんとも顔なじみになった。

東京に戻りH田夫妻と合流。
虎ノ門「NOBU]の天才的な創作料理に舌鼓を打ち、麻布のライブハウス{ALFI]
(まだ、昔ながらにやっている)にてジャズとジンに酔う。
長い一日であったが、さすがTOKIO。
8月28日 (火)昨年に続き「もっと、探検!!美術館」があってた。
所蔵作品の虫干しにもおもえるが、非常におもしろい。
作品のキャプションに軽い説明やクイズが仕掛けてあり、子供でなくてもたのしくなる。
楽しさにプラスして作品一つ一つがそれなりに素晴らしいのである。
(故)山口亮一さんの「鮭」、「炉ばた」、「麦と黒」の油彩が並んでいた。はじめて見る
作品だ。
最近、山口さんの「家族の写真展」を見ていた。その写真と今回の油彩3点がダブって
見えてきた。
視点が同じなのである。
風通しのいい場所につるされた鮭と鶏卵2個、鍋のぶら下がる無人の囲炉裏ばた、
土間の麦わらと黒ネコ。
それらを写真にはせず、描かれたのである。
写真にすれば、現代写真というところであろうが・・。
意識してあったかどうかはわからないが、身近な日常を見る目は同時に現代を
見られていたようにおもう。
当時でさえ、だれも持たない高価なカメラを持ってあったのだから、
それからしても、伺える。益々おもしろい人のようだ。
探検した甲斐があった。
8月27日(月)人間国宝
K高さんが来佐賀したときはたいがい武雄の中島さんのところへいく。
近々人間国宝の認定を受けられる青磁の中島宏さんである。
30年ほど前、県展騒動が起こったときのリーダーのお一人で、
以来ボクも同志ということになっている。
いつもアポもとらずふらっと訪れるが、快く迎えて下さる。
弓野の家並みを突然それて急な坂道を上る。
モウソウダケと樹木の木陰に武家屋敷風な門が見えてくる。
玄関脇の青磁の水盤がいつも凛として迎えてくれる。
芙蓉の花が5輪浮かぶ・・。
お祝いの蘭が玄関から座敷まで重なり並び、花屋をはるかに超えている。
「王貞治」監督の名前が目につく。
「やぁやぁやぁ、どうもどうも・・」
楠の香のする縁側で昨日の続きのように話がはじまる。
ばっさばっさと切りまくる速射砲の中島節健在である。
1時間30分もあっという間。
一匹狼、九州の荒武者、武雄の暴れん坊など呼称は多いが、
帰りにはいつもわざわざ奥さんと門前で見送ってくださる。
改めて、おめでとうございます。
8月26日(日)ボックスアート
1時30分より「磁場のワークショップ」恒例の子供とそのお母さん、
お父さんとのボックスアート制作。
申込が少ないと聞いていたが、満杯。用意した25のボックスがなくなった。
何から何まで、こちらで用意する。希望あれば木片の複雑な形でさえカットしてやる。
手ぶらで来てイイのである。
指導は磁場のメンバーだが、多くは面倒なことのお手伝いおじさん。
口下手が多い中、直行さんの快調な司会ではじまった。
「何を作るか、材料は何がいいか、その材料を何で接着するか・・、
考えながら作りましょう・・」
「木をくっつけるには何がいいですか?」
「はーい、ボンド・・」
「そうですね、ジェームズ・ボンドです」?!!
「金属クリーナーをだれかクリーナ・・」
部分的には笑いをとるが、子供たちにはおかしなおじさん。
それが、場を和らげ、緊張を解く、直行さんの前に出れる者なし。
今回は糸鋸がなかったので、電動鋸で中尾さんが大奮闘。
年々ややこしい注文が増えてるようだ。
2時間、親子が実に楽しそうに木箱に海、宇宙、遊園地、部屋、迷路、公園を作った。そして、
ありがとうございました、と誇らしげに大事そうに作品を抱えて帰りました。めでたしめでたし。
ボクはおもう「こどものころこんなワークショップがあったなら」と。

そして、磁場展のかたずけ。最終日はかなりの来場者があっとようで、
まずまず、そして、出直して打ち上げ会。ちゃんちゃん。
8月25日(土)大竹伸朗展
「大竹伸朗展」が明日までというので福岡市美術館へ急いだ。
美術館正面入り口の屋上に「宇・和・島・駅」の文字。
美術館が宇和島駅に変わっているのであった。
11時ということもあって観客は少ない。見る方には都合がいい。
というより、一般に受けないようで、お客も若い人ばかりである。
すごい、何というヤツだと圧倒され続けたものの、
会場をでると「納得、彼は彼・・」と引きずるものはなかった。
彼の原点は度を超えたおびただしい数のスクラップにある。
その数、内容たるは半端じゃない、オタクと呼びたくなる。
時代を超え時代、オタク文化を凌駕する。
壁の端にちょこんと展示してあった小学5年生の時の作文は必見。
「・・造船技師になれそうにないから・・日本的なもの・寺社ある宝ものを
大切にする仕事をしたい・・」と大竹少年は書いている。
そうは見えない作品群の根底にはそれが隠されてるとおもうとたのしい。

8月20日 (月)磁場展飾り付け
「磁場」を忘れるところだった。
今日は何の日と聞かれたら、磁場の飾り付けの日だった。
冷房も入れない休館の図書館で地場展の飾り付け。
全員、全身ずぶぬれのリンダリンダのどぶネズミ状態。毎年のこと。
どうしても全体の方向が甲子園にゆれながらの夕方まで。
佐賀の町で前夜宴。
ここには北高もよせつけず、しっかりと磁場の話。
こんな痛快な芸術会話してるとおっさんたち、若者に見えてしまう。
いやいや、背景に北高があるのかも・・。
朝が早いんでお先vに失礼。
というよりは「早く帰らんば・・」とはじめて聞いた言われた。
あんたたちも男やねぇ。
磁場の初日。スタンドでは磁場のこと忘れてるから、よろしく。
かなり、縁起担ぐ言葉ひかえてる。キビシー。
早く楽にして・・。
8月15日 (水)園田克成写真展
喫茶トネリコに園田さんの写真展を見に行く。
プラハの街角の写真が11点。
レンズを通し、ガラス窓越しに渋くシックな風景が切り取られる。
園田さんが見ているのは郷愁かな。
「せっかくだから、ちょっと一杯・・」と居酒屋に入る。
積る話もないのだが、どこを切っても話になる。
8月13日(月)矢ケ部明彦個展
これまた、美術部の同窓生・矢ヶ部くんの5年ぶりの里帰り個展というので、
飾り付けにいく。
矢ヶ部くんのお母さんと兄さんもいらした。
お母さんは91歳と足が不自由のようだが、息子の晴れ舞台とならば、お元気。
ところ狭しと梱包を解かれた大小の油彩作品がが置かれている。
これを展示するとなると大変だワイ、と一瞬おもう数の多さ、額装された40〜50点。
二段掛けにするしかない。
展示するのが、矢ヶ部くんとボクと画廊の井出嬢。これまた、KITAKOの同窓生。
今回の甲子園に縁があるのかもしれない。
意外とスムーズに展示は終えた。
日本から消えていく古民家、農村の風景が壁に張り付くと整然とすっきり落ち着いた。
東京で教員の傍らというか、彼は寸暇をおしんで描く絵人間である。
「呑んでるぐらいなら、絵を描くよ・・」とちょっとつれない。そんなまじめな農村風景が
現代に古き良き時代を問うているようでもある。
古民家つながりで、山口県から、古民家鉛筆画の先生とパーキンソン病の
古民家写真家のお友達も駆けつけ、お二人の作品コーナーも出現した。
高校時代より7人いた「グループ7F」の面々も一人、二人と絵から遠ざかり、
今では矢ケ部くんと二人になったようだ。
これも、宿命というのか、あの熱い暑い夏の日の北高美術部室をおもいだす
8月12日(日)団塊展「団塊展」
佐賀・4人、関東4人の8人による構成。
30号と小品の展示となる。
「服部くんのと僕のを並べたけど、よかったかな・・」とは吉武くん。
カラフルな吉武氏の作品とモノクロの服部の作品は遜色なく違和感なく並んでいた。
それだけである意味イイのである。
それぞれ、表向き路はちがって見えるのだが、二人並んだ作品は
団塊の証のようでもあり、団塊を認めざるを得ないのか・・。
当時、高校生であったボクらは、東高、西高、佐工、龍谷高と交流しながらも、
強く意識し合ってた。
龍谷の白浜、東高の武藤、西高の吉武、とそしてその背後には佐高、佐大の憧れの、
コワイ諸先輩がズラリ。
怖い先輩たちとは「磁場」を結成できた。
白浜くんとは浪人時代、同じ高円寺の研究所だったし。
(千葉で教員してると聞くがどうしてるだろうか)
吉武くんは東京を拠点に、その活躍は佐賀にも響いている。
関東の伊吹を佐賀にもと、パイプ役をもになっている。
人生60年。無駄なものはないように見事に円環となっていく。
ウルボロスの円環ではなく、マチスの「ダンスする人」のサークルのようだ。ここまできて、
なかよしクラブもないだろう。
遠回りのような、長い長時間がかかるものだ。
そして尚、誰もが「これからだ・・」とおもっているから、うれしいようなコワイような・・、
いつまでも未来を延長さしていく。「絵」はイイね。

8月6日 (月)アミーゴ展
アミーゴ展は吉武氏の呼び掛けによるもので、今年で3回目。
関東と佐賀の作家26人が参加。
吉武氏の恩師・ 野見山 暁治さんも出品されてるのがユニーク。
人数が多いので、作品はすべて小品。
それぞれの表現スタイルが競い合うでもなく整然と並んでいる。
「佐賀のコナーはイイですよ」とは中尾さん。

スポーツニッポンの記事によれば吉武氏の長男・大地くんが、
和製イル・ディーヴォ「エスコルタ」のメンバーとし7月にデビューしていた。
東京芸大、東京音大のエリート声楽家・平均身長178センチイケメンソリスト4人組。
聴いて見てみたいものだ。
5月26日(水)憂鬱なる小説家・開高健
美協の日直当番にいく。
当番と言っても、特別やることはない。
写真、ムービーを撮ったりしているうちに一日も終わった。
今日を見る限りでは以前にまして、観覧者がぞろぞろと、うれしいことだ。

「開高健のオーパ!冒険旅」をNHK教育で見る。
画塾教師とその教え子の母親との恋、
その子供は「ふんどしに刀差した殿様がお城の前を歩いている絵」を描く
芥川賞の「裸の王様」に始まり、
ベトナム従軍記以後、開高さんは小説が書けなくなる。
自殺にまで追い込まれる。
そこで、例の映像が流される。
井伏鱒二翁に「書けないんですよ、どうしたらいいんですかね」と
居酒屋で一杯やりながら乞うシーンである。
「何でもいいから書けばいいんだよ、いろはにほへとでもいいから・・」と
井伏鱒二翁はとつとつと答えるだけ。
また、書斎でのインタビューでは。
書斎にバーバリーのシャツを着て、あぐらをかき、机にはワインのボトルと何故か
レモン片の入ったウイスキーグラスがあり、タバコにジュッポで火を点け、
もう一杯入ったような風呂上がりのような顔で煙を吐きだしながらしゃべり出す。
「見えざる危機は自分の心ですね」
「自分の心を異常に危機をはらむものはないですね」
「外側からくる危機に対しては、人間は割合に抵抗のすべを死っているんですね」
「自分の心に生じてくる危機に対しては手の付けようがない、なかなか」
「これが最大の問題です」
「私にとって最大の危機は私の心です。生きてる限り」(40代のころであろうか)
やがて、開高さんは書くのを止めたかのように呑み喰い、世界の釣りに明け暮れる。
文字なない中国やモンゴルの河にイトウを追った。
現代社会で培ったものを捨て、生まれいでた時のように未踏の地平に立つ、
それが最大のウツから解放であったのだろうか。
6月22日(金)第90回・佐賀美術協会展を見る。
90回という記念展にしては、例年通りのおとなしめの展開。
佐賀には「若者がいない」のかという風潮がそのまま反映しているようだ。
生きのいい、フレッシュな作品が見あたらない。
気に入ったのが洋画部門にあった。2階の画廊研修室に展示してある。
老人のようなスニーカーを履いた人が、ブロック塀の前で石に腰掛けてるモノクロに近い作品。。
よく描き込んである。
何よりも、作者の執念を感じる。
「描く」という行為の焦点がはっきりしている。
時代性もある。
年齢らは定かでないが、期待できる人だとおもう。
2007年6月20日(水)山口亮一画伯「家族写真名作展}
美協創始者・故山口亮一氏の生家である山口亮一記念館にいく。
清和高校前の路地を入った一角に忽然と藁葺きの民家があった。
修理改築される前にも訪れたことはなく、本日が初めてとあいなった。
<山口亮一画伯「家族写真名作展」>
S吾さん、K代さん、M子さんがいらした。
氏が戦前戦後に架けて撮られた家族の写真・数十点が座敷に展示されてた。
アルバムに貼られた5センチ、10センチ足らずの写真をフォトジャーナリストの
大塚さんがパソコンに取り込み引き延ばしたものである。
A3,A4ぐらいに拡大されているのだが、まったく画像の荒れがない。
いかに精度が高いかである。
写真技術にもたけていらしたようだ。
絵一筋の人かとおもいきや、家族の団らんなどをあたたかく撮る反面、
モデルにおかしなポーズとらしたり、
ご本人もふざけたり、ずっこけたりと芝居か映画を撮っているつもりでいらしたのか・・。
木陰に走る雨の一筋一筋が繊細に収められているのにはオドロキ。
あの時代にしては、ひょうきんでモダンなおっちゃん、カメラ小僧が見えてきて、
創始者といういかついイメージとはほど遠いお方のようである。
それからすれば、今の美協はまじめすぎないか・・。
少なくとも写真から、画家の背後や時代の背景が浮かび上がってくる。
本業のきちんとした洋画からは伺えない、写真ならではの背面側面、
バックドロップ、ブレインバスターの語り口。
5月9日(水)作品が静に語る時
作品を枠からはずしロールにしていたり、重ね合わせていたりで十数年。
汚れはともかく、ヒビ、剥離、変色、化学変化、物理的変化は
完成時の姿を知るものからすれば悲惨だ。
ある意味その時点では見捨てた感がなきにしもあらず。許してね・・。
その時は、駄作、失敗とおもえた作品でも、意外や、それとは逆。
未熟さや考えの薄さはあっても、嘘は言ってない。
また、それらの傷、破損が時間という味を加え、新たな作品に進化したと見えないこともない。
宇宙船のカプセルに冬眠していた宇宙飛行士が数年の眠りから覚めるのだが、
実は数十年の時を経た
顔に変貌し衰え崩壊していくシーンのようだと・・。
究極には完璧さしかなかった当時からすれば、自分も変化したのだ。
当時の不満の原因が今明らかになっていくように、傷つき汚れた作品がボクの前に立つ。
過去の作品を見るというのは、その時は見えなかったものが見えてくるということ、
描き進めただけの情報や英知が潜在しているようだ。
大作60点あまりのビデオ撮影と写真撮影がひとまず終わった。
長い日数がかかった。
カメラのフレームから覗くごとに個展をしているような空間に突入していた。
やはり、自分が創りだした作品はないがしろにできない。思い入れ以上に責任がある。
意志をもった命と言ってもイイ。
2007年
2007年5月6日 (日)美術館にて「AIS展」を見る。
出品者・九人、大小の作品が広い4号展示室にゆったりと展示してある。
太田朋江さんの(本人が漉いたとおもわれる)和紙を素材とする作品が目を惹く。
黒っぽく着色された和紙を数枚づつ重ね、赤や白の筆触が着物の襟のように粋に覗く。
その10点あまりの作品を大壁面に展示してあり、コンポジションのようでもある。
紙を重ねることで厚みを持たせてあり、より素材的に紙である。
黒い色から、のし昆布のようでもあり、鉄(くろがね)のようでもあり、
軽さと重さが共存する。
紙なのに強い。障子、ふすまと元々紙はさりげなく、生活に溶け込んで生活を支えていた。
紙の家とも称された日本家屋。自然界の生き物が作り出すのもほとんどが紙の棲み家である。
「3匹の子豚」でわらの家がなまけもので、煉瓦の家が強いとする教訓も(原本は知らないが)あやしい?
ヨーロッパ的思考は判るが、物量、環境という肝心な部分が欠落、あるいは後ろに隠されている。
と言わば、人間の営みの自然な感覚を紙に着色することで、紙本来の力を復帰さしているようにも見える。
白くフラットであろうとする紙を黒くし、重ねることで捉え直そうとするアクションに現代を感じる。
それは、森永昌樹さんの作品にも言える。
過去の概念的であった表現からすれば、ベニヤ板を細く切り、組むというやり方は、ものが新しく生まれ変わるというストレートな創造である。
中島節子さんの合板を胎児のように切り抜いた作品群も、愛嬌を見せながら(女性ならではの?)むごさ、まがまがしさが全面に出ていた。
皆、それぞれにたのしい展開であった。
2007年5月1日 (火)宮崎大治郎個展 村岡屋ギャラリー
正面壁に100Sが3点、両サイドに小作品がずらりと並ぶ。
全作品のタイトルが「HANABIRA」。
タイトルからすれば、確かに花びらが3つ4つと重なりあってるようだ。
従来の線のストロークの上に花びらが落ちて被さったというか、線が透ける。
線の実体がより霞む線に時代のリアリティが合うのだろう。
当初より線と面を融合、調和さす手法で「思念」であるとか「情熱」であったりと感情を表出しているかに見えるのだが、作品はクール、以後、タイトルも記号的になった。というより元々記号的作品であった。
腕を振り下ろす線のカーブは「HANABIRA」よりも人体の尻や股のラインにも見えてくる。
それも女体。花と蝶。エロチシズムが覗く。作者はそんな狙いは微塵もないと。
限りなく透明に近い白の向こうには?、
白が消失していく、その先は何なのだろう。
イワシの群れが収縮、拡散するように空間の粒子が集合してある実体を創る過程のような
マクロとミクロを合わせ持った絵画感覚といってしまうほど単純なことでもなさそうなのだ。
画面の端にわずかに赤、朱、青がのぞいている。
描き加えたのではなく下層の色でである。
白い画面に鮮やかな色を置きたくなるのは変化である。
花びらが包むミクロの世界に潜在的な生命のエロスが浮かび上がってきたとしてもおかしくない。
私感でいえば、白い化粧の花魁や遊女の顔や肉林に見えて仕方がない。すぐに想像力がそちらへと加速する。
層を重ねていくことは正に時間である。
仮にフィルムを3次元とするなら、フィルムを重ねるた高さは時間になる。
その原理である。
位相、空間、時間それにエロティシズムまで楽しめる。
2007年3月31日 (土)石本秀雄展」県美術館
人物、家族と晩年の桜島の作品が並ぶ。
石本(先生)さんの強引な造けい美学が、今回は大人しくまた、違和感を残照とした。
時代を超えて普遍でなければならないものが、「あれっ」とズレをもった。
何故にと考えるとキリがない。
当時、石本イズムとまで言われ、佐賀の美術界はよしにあしきに元気だった。
それを引き継ぎ活動されている多くの師弟がいらっしゃる。
後々は、ボクも酒席に限ってぞっこんにしていただいたのだが、
口角あわの端々に焦燥や葛藤、ふがいなさ、寄る辺なさがにじんでおられた。
あれだけの方があの年齢でも無になる前の焦燥感においかけられていたのではなかろうかとおもえてきたのであった。
「道半ば」とはよき聞くが、いつまで経ってもそうなのかも知れない。
一人の人間のどこを切り取るかで、その見え方も変わってくる。
一貫して金太郎アメの人もあろうし、不連続に波打つ人、尚進化していくケースもある。
そう見えたと言うことは、自分がある年齢に入ったということを暗に示しているのかも知れないし。
戦後の佐賀美術を元気にし、かつ外へひろめた人として記憶に新しい。
きしくも、同時に開催されていた3つの展覧会に現代の流れと佐賀大の流れがリンクしており佐賀という風土の円冠になった。
2007年3月31日 (土)彫刻集団・佐賀21回展」県美術館
出品者14人の具象塑像25点がフロアーに林立する。
佐賀大を昨年退官された成富宏さんがいらした。
地元の彫刻界やこの会のリーダー的存在でもいらっしゃるが、いつ会っても
「いやぁ〜」と照れた表情をされるのが、はぐらかされるようにニクイ。
成冨さんや古賀義治さんの重臣に混じってひときは目を惹いたのが、
光山照行さんの「かっくんちゃん」の全身像である。
かつて、何かの展覧会に発表したものだとおもわれるが、ボクにはお初である。
保存状態がよくなかったのであろう、肩や腹部が割れ破損して空洞の内部が見える。
それがかえって風化した年月を感じさせ味付けにもなっており、仁王のような迫力で立っていた。
最近の光山さんは、テーマを同郷の「かくっちゃん」に置いた舞踏、音楽のパフォーマンスに向っているようだが、立体作品も見せて貰いたいものだ。
 2007年3月31日 (土)「21回ハチロクアンデパンダン展 」県美術館。
101人の絵画、立体、工芸等々がところ狭しと並びにぎやかである。
書家の野中瑛硯さんの大きな絵馬は「世界で活躍するスポーツ選手や芸術家は大きな夢をもっていて努力した人たちあきらめないことが大切です 瑛硯」と書かれ、その文字の輪郭が線刻されている。全体に遊び心があふれており、おもわずほほえましくなる。書が気ままに遊んでいるよう。
20回記念ということで、県外の作家・10人ほどが招待されている。
その一人・アバンギャルドに肉感的に戦後を見つめられてきた池田龍雄さんのグレーな絵画4点は圧巻。エロスのうめきと惨殺の叫びを背後に肉感的なグレーなテクスチャーが時空そのものに見えてくる。
戦前戦後を通した自分の居場所、時代というものを皮肉を込めて見つめ直されているよう。
この会の代表でもある小野天山さんは、カーテンやむしろを張り付け、その上にびっしりとカラフルな絵の具をぶちまけてた大作。
60年代のアンフォルメルを生きてこられた若き日の血が尚熱いようだ。
廣末勝己さんの抽象、武藤三恵子さんの表現も光っていて、みなさん会派の垣根を越え表現をたのしんでいらっしょる。
今一番おもしろい展覧会グループのようだ。
展覧会の在り方を考え直される展開であった。
島日出夫さん土師一也さんら故人となられた方々も多く、懐かしく見せてもらった
2007年3月30日 古賀悦子・ボツワナのおもいで展
家でする仕事が一段落したので、自転車でイバにいく。
「古賀悦子・ボツワナ展」
原色が塗り込められた大小の作品とボツワナのおもいでの品(書籍、雑貨ら)がぎっしりとつまっている。
草原と空、動物、床屋、花、少女が主な題材のようである。
狭い画廊で空を広く見せる工夫もなされていた。
赤い大地と空だけの10号?のキャンバス6枚が間隔をとって並べられている。
これだけでも何となく雰囲気は伝わる。
どうしようもない広さ、何処を見ても空という抗いが沈静していく開放感。
その連作の中央のキャンバスに唯一白くコウノトリが上昇気流に舞っている。
どこにいてもそうなんだろうが、古賀さんの自然と空間に対する思い、あるいは接近法なのだろうとおもった。
潟や田んぼにいても、際だって色彩は迫ってこないが、寝ころんで空を仰げば、コウノトリも赤い砂漠もまぶたの外に広がっている。
自分の色になったとき、赤が青にも緑が赤にも成りうるのである。
我々の社会のように自由にカメラをむけたり、写生をすることがお国が変われば、いかに難しく、危険な行為であるかも聞けた。
しかし、目や心に焼き付けたおもいでを絵にすることは、できるのである。
カメラ、紙、筆に頼るのも人間の知恵ではあろうが、そんなものなくったってという、原初的な”見るとミルク”や”乳の海”を忘れてはならない。
”人間の創り出すすべてのものは、自然の偉大な著書の中にある。ガウディ”

I田N子がボツワナの乾燥イモムシを水で戻し、そのスープを皆に飲まそうとするからこまったやっちゃ。
ひからびたイモムシは水を吸って膨らみ動いているようである。
さすがにイモムシを肴にはできないが、参集のみなさんと我を無くして飲んだ夜。
舟一朝・「三角布プロジェクト」「現代美術と史跡の共生」
2007年3月4日 佐賀城跡において行われた。
一日だけの展覧会である。
完成エスキースは舟氏の頭の中にあり、命綱をつけての設営は、
エスキース通り、30分で完了した。
巨大な台形の石垣は長年待っていたかのように三角布を受け入れた。
”古城よ 一人 なに 忍ぶ〜”。
今までにも国内、海外と色んな場所で三角布アートを展開している。
時にゲリラ的、またあるときはベトコン的に神出鬼没な参入、展開もある。
今回はお役所に再三通い許可を得られたと聞く。
門前払いのところを辛抱強く説得し「1日間」を勝ち取ったと、
よろこんでイイのか、その逆なのか。
通常、数年を掛けて交渉し許可を取るという大プロジェクト作家・クリストもいるのだが・・。
クリストは申請、折衝もすでにプロジェクトであると言う。
舟氏もクリストの延長線上にはある人だ。
ただ、予算上、一人で行動、実行されるだけに、作品の軽量化、携帯化はやむを得ず、
紙、藁、布という素材に絞られるのかも知れない。
美術館を発表の場としていたころには、金属のレリーフやオブジェの作品も多かった。
なによりも、基本的に流れているテーマは、室内であろうと野外であろうと、
作品と空間との関係にある。
物が在ること、空間が在るとういう相関にある。絵画の基本源基でもある。
クリストもそうであるように、モノをおくことや人工物を加えることでその空間にズレを与え、
改めて意識することであろう。「環境」と言うことでもある。
四季の移ろいも空間のつかの間のズレなのであるが、日常が日常過ぎるが故に見えにくくなる。
人工物、あるいは(人が)そこに石ころや草花や便器であろうと闖入させれば、
人為的な意志をもってしまう。
「2001年オッデッセイ」のモノリスは90度の直角を4つもった完璧な矩形として提示された。
モノリスという矩形の「意志」を存在さすことで、宇宙空間をより身近に生き生きと感じさせた。
それからすれば、舟氏の面的三角布は、Tバックであったり鳥の翼の意匠と
おもうほどにうすっぺらで風に揺らぎ、羽ばたき意志を解消していく、モノのようだ。
意志を持つとすれば、イエロー、オレンジ、ホワイトの原色にあろう。
3つの城壁に張り付いた三角のカラー布は環境との調和、共生でもあるのだろうが、
作者の意志と空間が意志を持つ瞬間の現れである。
それが、また理屈抜きに心地よいのである。
舟氏の現代アートが城壁と融合する確かな手応えは、
「現代アート」が「日本的」をも内在さしている証であろう。
「現代○○・・」と言うものの、「日本的」ではくくれない普遍さ多様さの言い回しに過ぎない。
なんの先入観もない子供や屁理屈を捨てた大人には見えるものである。
作者は「たった一日で終わる展覧会」などまず考えないものである。
ところが、結果的に一日という制約があったことが、
見る側におもわぬ緊張感を触発し、たのしめた。
「見た者儲け」というところ。
作者にとっても、意外なイイ体験であったのではなかろうか。
ご当地では野外プロジェクトを実践する作家は舟さんを除いて皆無。
遊びや思いつきで、一回ぐらいはできようが、氏の孤独な闘い(たのしみ)は
真似できるものではない。
遊びでもかまわないから、また、一般の人たちも出来るよう、
公共の場を集会のみならずどんどん解放してほしいものである。
人々が集まる広場や華やかなスポーツの場であろうとも、
空間(トポス)は、田んぼ、干潟、佐賀城跡と等価である。
それが、見えぬうちは町創りもあったものじゃない。
農業、漁業、街、人間、文化が融合した町が西欧にはいくらでもある。

2006年
2006年12月27日 「障害者の性佐賀の同人誌「ペン人」30号をいただく。
 顔ぶれも年々変わっていったようで、初版の「廃夢」1号(1980年)のころからの投稿者は現在の編集長・中島虎彦さん一人である。
 ボクもちょっと関わったことがあるが、地道に26年も続いている。
中島さんの「障害者の性」は興味深い。
 中島さん自身も車椅子の障害者であり、中島さん自身の問題でもテーマでもあるようだ。
 近年、障害者の性について書かれた出版物から様々の告白、現状を抽出し、おもしろおかしく言及されている。
 第21回佐賀県文学賞入賞作品「無限」(車椅子作家・池田英之)や乙武クンを終生のライバルとする「お笑い!バリアフリー・セックス」のホーキング青山などなどがびっしり列記してあり、書くモノがなくなった健常者の文学に対しここには書くモノがたくさんあるようだ。
 それに乗じて興味本意、フリーク的に見てしまうのだが、その底にあるものは計り知れない。
 中島さんの文体は当初より、一貫して強靱、痛烈で、作家としても益々飛躍されるでだろう。
 また、氏の短歌も
 ”キスをして煙草の名前当てられるほどのひとりの夜は更けてゆく”
 ”ダビングをくりかえすたび劣化するビデオのようなあなたや私”
 ”動かない指でもついていればこそペンを引っかけうたなどを詠む”
 ”寝ころんで好きなところをぱらぱらとめくられるような歌でありたい”
などのように型にはまらずたのしめる。
 何よりも興味ある人は一読されたい。
 中島さんのHPにも作品がいっぱい。
2006年12月10日 (日)
古賀亜十夫(あそお) 遺作展」を伊万里市立図書館に見に行った。
 
今日が最終日であった。
 44歳で教職を辞め画家になろうと上京。
 その後35年間、挿し絵師として多くの児童書に作品を書き続け、八十歳ごろ引退、93歳で伊万里に帰郷され、3年前、98歳で亡くなられていた。
 遺品の中に油絵170点、挿し絵1、100点、デッサン、スケッチ400点、彫刻7点があったという。
 それを、市民有志の方々がと地元民に「保存を問うアンケート」のため「保存運動の起爆剤にしたい」と展覧会を開かれたもよう。
 挿し絵原画、児童書、油絵など200点が展示してあった。
 問題はいろいろあるにせよ、有無なく、もちろん、流出なく全てを地元の財産として保存すべきである。
 デッサン、描写が優れた人で、画家を志望されたことは判る。
 初期の油絵の自画像、母の像にその片鱗が見える。
 しかし、食べていくには描写力を生かす挿し絵の仕事もしなくてはいけなかったろう。
 油絵の個展も開かれているようで、夢はすてきれず、基本的には画家でいらしたようだ。
 描写力を生かした児童書の挿し絵は正に職人肌。
 一念発起、戦後まもなく伊万里の地から憧れの東京へ。
 挿し絵師として膨大な児童書の挿し絵を描き、合間には海外旅行をし、油絵を描き、個展を開き、
 高齢とともに、ふる里へ帰郷、そして、ひっそりと亡くなられた。
 地元の人はもとより誰も古賀亜十夫さんの存在を知らなかったようだ。
 作品を通し氏の生き方、人物を検証することで、伊万里、その時代から見えてくる現代があるはずだ。 
 2006年12月7日 (木)しとしとと雨。
 午後、「
塚本猪一郎・カレンダー制作20年記念展」(県立美術館)を見る。
広い4号展示室に額装されたシルクスクリーンのカレンダー20年分と
油彩、アクリルの大作、鉄板のオブジェらが一堂に並ぶ。
 一見、インテリアルームにいるような楽しい展開である。
 ソフィストケートされた作品が醸し出す雰囲気なのだろう。
 油彩らの大作は平面的である以上にテクスチャーにも時間を割いている。
 色紙を切り抜いて張り付けただけのような版画作品にしそれは同じことだ。
作者の苦しみは画面からは見えない。
 いかに「たのしく、自由に」というのが作者のコンセプト、モットーであろうが、カレンダーのキャププションに添えられたコメントにちらっと作者の苦渋が見えている。
 黒、赤、青の原色が独自の塚本カラーとなって色彩をはなつ。
 スペインの鮮烈な色彩は影を潜め、より日本的に消化したのだろう。
 コンポジションであると同時にオリジナルな顔料の強さがあるようだ。

 いかに自由であるかは、画家であろうと人々の願いである。
 見る側に、それが届けられるなら。
 氏の作品は理屈っぽくなく、小難しくない。
 ピカソやミロが自由であろうとするように、氏の作品もあどけなく、むじゃじやきなこどもであろうとする。それだけに、見る側にはつかみどころがないもどかしがあるようだ。
 しかし、そこは、作者の望むところのものではなく、説明はしない。
 日常の一瞬のとちょっとお隣さんと言う感覚。
 荒々しい骨太の線が走る大作群も距離をとれば、整然と静寂の時を刻んでいるようだ。
 真っ白の紙、キャンバスの中に黒だけという作品に氏のスタート在り方が見えるようで、好きだ。氏の真骨頂は黒だ。
 余白は日本的西欧的でもない、もう一つの意識、無意識。言ってしまえば、子供が紙を前にしたときの空間意識とでも言おうか。
 解放されていこうとする作品のたのしさと同時にボクは苦渋を捜していていた。
 すばらしかった。
2006年11月29日 (水北島治樹個展(Gやすらい)
びしっと引き締まった空間。
 塗り壁のような重厚な画面だが、質感に変化を与えた形、亀裂、色彩がハーモニーとなって、解放てきでもある。
 コンセプトとしては土俗的な因習、祀り道祖などアニミズムが在るのだろうが、ソフィストケートすることで、コンポジションにも見せている。
 自然の風景を描いた水彩画も同時に展示してあった。
 2つの接点は見えにくいのだが、理想とするアートと在所の在り方なのか。
2006年11月29日 (水M展(県美術館)
 Y田C行さんの絵画教室のみなさん。
 M原Y佳さんはベニヤ板にクレヨンとアクリルによる顔面画3点とベニヤ板を縦に帯状にカットした数十本に足で描いた足絵を6,7メートルに渡り並べた。
 作品一つ一つより、組み合わせることで、より作者の世界が垣間見れるようなユニークな展示であった。

2006年11月12日 (日)「ファンタスティックな野郎たち」展の飾り付け。
 唐人町のギャラリー久光にファンタスティックなお嬢、野郎の面々が作品持って集合。
 急遽決まったグループ展、にしては19人・全員が参加、おもしろい作品が集まっていた。
 抽象、具象、オブジェ風の多様な表現スタイルで、一見バラバラだが、バラバラの融合がファンタスティックでもある。これぞ現代とおもしろがったりして・・。
 メンバーの意気込みがうまくハーモニーしたようだ。

2006年11月10日 (金)一騎打ち ポロック、クリムト
今日の新聞にも、またNYでクリムトの作品4点が競売にかけられ、
合計で1億9千2百万ドル(約227億円)で落札されたとある。
このうち、「アデーレ・ブロッホ・バウアーU}は8千8百万ドル(約100億円)で史上3番に高い値段である。
これでクリムトは2位、3位になったわけである。
ナチの略奪品を、オーストリア政府が遺族に返還したもので、遺族が売りまくっているもようだ。
アメリカにしてはうれしいことだろうけど、オーストリアとしては裏切られた気持ちであろう。
さて、こうなるとポロックも黙っていないだろう。さらに水を空けておきたいことだろう。
大富豪たちの一騎打ちか!
そのうちの一つまみでイイからボクの作品、どうにかして。
まあ、新たな思想なり、概念が定着するには、作家も死んでからと言うのは変わりないようだ。
ポスト ポロックは誰かと言う推理も美術史的にはおもしろい。
だれだ。
2006年11月7日 (火)ポロック、クリムト
クリムトの名作「アデーレ・ブロッホ=バウアーT」をニューヨークの大富豪が購入。
美術作品としては、史上最高額の1億3千5百万ドル(焼く155億円)と聞いて驚いたばかりだが、
今度はポロックの作品「NO.5,1948」が一億4千万ドル(約163億円)で売買された、と各紙で報じている。
ポロックの作品なら不思議じゃない。
ゴッホやピカソは時期を過ぎたようだ。
売買によって作品の価値、美術史はつくられていくと言っても過言ではない。
骨身を削って血がにじむおもいで作者が生み出した表現スタイル=概念を君臨さすものが、やはりお金なのだ。
だから、底なしにおもしろく、止められない要因でもある。
井の中のカワズで「どうの、こうの」言ってる日本の現状は論外。
60年代、牛ちゃん(篠原牛男)たちが、何の方策もないままニューヨークに渡った受難の時代があったのだが、
今はニューヨークの画商が日本の若いアーティストを狙っている時代。
牛ちゃんでもなく、若くもないボクとしては、指をくわえていてイイはずない
 2006年10月29日 (日)現代中国の美術展」を見る。
 今日が最終日。あぶないところであった。
 中国最大規模の公募美術展。受賞作597点から厳選された中国画、油彩、水彩、版画、漆絵、年画、連環画、漫画の作品95点の展開。
 世界のアートシーンでも中国絵画が高値を呼びブームになっていると言う。その予備軍と言うところであろうか。世界指向の作品から伝統的な自然主義的花鳥風月まで、驚くには足りぬが技術力は高水準である。
 ロン・ジュンの「モナリザ 微笑のデザイン」は、少女を克明に描いたハイパーリアリズム具象画はスーパーリアリズムでもなければ、ワイエスでもないリアリズムがあった。筆致や筆跡が完全に排除されてるところは無機質なスーパーリアリズムに通じるが、有機的に作用し、質感の追求はワイエス的であるのに絵画的にあらず。それでいて写真でもなく、それに触れる概念が見あたらない。
 だから、へーっと感心するも、おもしろがるも、あるいはどうでもイイと素通りもあろう。ポスト「モナリザ」はないとおもうが、ここまでやるとは、感心するよりボクはイイ意味で笑った。
 幼児や歳時記を題材にした「年画、連環画」といわれるイラスト群は日本の戦前の少女雑誌のようでもあり中国版・横尾忠則と言ったところで、これも、破廉恥に俗っぽくおもしろい。ただ一点あった。コミックの絵。日本の漫画の主人公がぎっしり書き込まれていた。フラット アートがすでに存在している。
 多くが上海で活動している画家たちである。一攫千金を夢見てそれでも流されず底力を見せつけていた。
 アートマーケットとしては日本(東京)は上海に先を越されていくようだ。
 早く、世界参入の方式を持った画家なり画商なりが現れないと、まずは相手にされず、現状維持がつづくだけ。
 好き勝手に描いてればよかったボクラの時代。が、それでは戦えないと言うのがようやく解りだしてきている。美術学校でもそこまで教えない、教えきれない。
 マーケット参入の目を持った、視点の学問も必要だろう。本来、描けばイイだけで、お金が動いたり、美術史ができたり、していないのである。
 新たな評論家、キュレーターの出現の時代でもあろう。

 
2006年10月29日 (日)「マドンナたちのフィリッピン展アジア美術館12月25日(月)まで。
 九州大学文学部美学美術史研究室の学生さんたちあ(ほとんどが女性)のプロジェクト「AQA」によって企画、構成、広報された展覧会である。
 フィリピンの女性、キリスト教、歴史、文化に照準を合わせ、ヨーロッパのキリスト教がフィリピンの女性たち(マドンナ)にもたらしたものの観点から構成された作品17点の展示。学生さんたちのトークでも聞かなければ、「ヨーロッパとキリスト教に侵攻されていく・・」と言うキーワードを知らなければ、日本人にはちょっと分かり難い表現スタイルである。
 かつて、アジア美術家展に所属し諸外国との交流展にも関わったことあるけど、絵を見るだけでは、力がないと見えないものばかりである。韓国との交流展もやはり、酒のレベルから一歩すすめないと、いかんだろう。そうなると現実的にはいよいよたいへんなのであるけど。
 美術館が九大の学生さんに企画を依頼したと言うのも新しい発想だし、
 学生さんたちのトークは見事なものであった。未来の学芸委員として合格だね。どこかの美術館でお会いしましょう。
2006年10月25日 (水)小池絵美子さんの個展をあーとエルで見る。
 S100号5点と小品数十点。
 平面作品ではあるが、60年代のラウシェンバーグやJ・ジョーンズのようなコンバイン方式である。それが、またすこぶる土俗的日本の祭り・因習やエロスが漂う作品となっているところが、東洋的日本人たるところかとおもう。
 作者は「工作をしているようなものです」とおっしゃる。正にコンバインである。
 日常の時間が有効に可動し作用しているのだろう。
 止めどもなく画面狭しと言葉(イメージ)が塗り込められ、消され、はげ落ち、張り付けられ、雑然とはしているが、一つの思想、世界へと旅だっている。
 原稿用紙の絵画とでもよべそうなひっかき、張り付けが文脈をつなぎ、作品の地平へと向かっている。
 感性の切れ味のよさは、小品のクレパス画、貼り絵にも見られる。
 小品で解放さし、大作で閉じていくというようにバランスがイイ。
 日頃の時間の使い方がイイのであろう。
 日常と作品とが一体化された無理のない理想的な姿と、お言える。
 「工作をしている・・」と言う感覚が新しいことでもあるようだ。

2006/8/30(水)ジュリアン・シュナーベル
バクに寄るとつんちゃんがいた。
 1時間ほど映画の話をして帰る。
 
 その夜、シュナーベルの「夜になるまえに」を仕事しながら見る。
 ジュリアン・シュナーベルの作品を見たのは
「美術手帖」1983年07月 Vol.512の特集であった。
 「皿の上の絵画」皿を張り付けた異様で巨大な画面に衝撃を受けた。
 ボクよりちょっと若いが、20代に皿の絵で一躍有名になった現代美術作家である。
 その彼が1996年には麻薬により1986年27歳の若さで亡くなった
「バスキア」の映画を撮り、2000年にはキューバの亡命作家レイナルド・アナレスの純粋にも壮絶な生き様を書いた「夜になるまえに(BEFORE NIGHT FALLS )」を映画化。
 「バスキア」もそうだったが、アーティストだけに映像美がアートである。
 「夜になるまえに」はカストロ政権に弾圧されるホモ社会とアメリカに亡命したホモの結末。ホモホモホモ。もう一度見直してみなけりゃ。

8月12日(土)ボックスアート
 磁場展の目玉・ワークショップの日。
 30個用意した木箱も残りわずか。ボックスアートの工作である。
 おとうさん、おかあさん、子供たちで大入り満員。
 ありとあらゆる材料が用意され、使いほうだい。
 立体、平面、木くず、紙、針金、綿、絵の具。
 曲がるもの、角ばったもの、重い物、軽いもの、固いもの、やわらかいモノ。
 無意識に平面から立体を体験し、そこに生まれるオブジェはまぎれもなく、
 現代的アクチュアリティーがあり、アートと呼べるものである。
 大人もはまります。何の制約も決まり事もないのですから。
 しかし、ボクはそれ以上に深入りしない。じゃないと身体がいくつあっても足りないデス。
 ボクは板片でハトニワトリの置物とピストルを作るが、あまりに欲しそうなので、ピストルを横尾だいち君にあげた。
 参加者の皆さん、図書館のスタッフの方々、磁場のみなさんご苦労さん、ありがとう、楽しかった。
 後片づけもせず、ボクは絵画教室へとT永さんと急いだ。
 キムさん親子が久しぶりに現れた。
 ヒューサン君がボクより背が高くなっいて、柔道もしているので、
がっちりと引き締まった身体で、見ちがえるようだ。
 夜、お盆を前に佐賀ん町は同窓会などで人が出て異様にぎわっていた。
 2006年7月29日 (土)田川美術館で「英展・高畠輝子」を見る。
 中央展示室に過去の大賞作品数十点があり、今回の大賞・高畠輝子さんの作品もあった。きれいな色使いの女性像。気負い、饒舌さのない素朴な落ち着きが評価されたようだ。審査員の織田広喜氏は絶賛していた。
 抜けるような現代感覚は少なく、全体的に内省的、うっ積した人間の業みたいな表現である。
 「青春の門」の田川と言う地を改めて思い起こす。
 テーマはちがうが、過去に二度ボクの作品もここに掛かったが、同じような印象だ。作品も他県から集まって来るわけで、審査員も変わるのだけど、よそから来る審査員も空港や駅から降りて来るウチに田川に染まっていくようなのだ。
 それは各地で催される様々の展覧会にも言えることでもあろう。
 次回は炭坑博物館で故山本作兵翁の炭坑絵図を見たい。

2006年7月28日 (金)ポンコツ倶楽部の模型展市立図書館にいく。夏休みとあって、盛況な閲覧者である。その中で年輩の男性が目立つ。
 閲覧、ビデオ、囲碁、将棋と60過ぎの男性ばかりだ。
 朝ご飯食べて、図書館にきて、夕方帰る。
 常連に限らず、涼むにはかっこうの場所のようだ。
 二階のギャラリーで「ポンコツ倶楽部の模型展」を見る。
 模型愛好家たちの自慢の労作の数々が展示してあった。
 戦車、戦闘機、ガンダム、機関車らがズラリ。
 細かい作業と本物に近づくきれいな仕上がりは、好きと根気そのものであろう。
 ボクも子供のころから大好きであったが、その時間とたいへんさを考えると躊躇してしまう。
 はまれば絵をかくなどなくなるだろうし、3日坊主にもなりかねない。
見せてもらうだけで十分。
 SF映画で本物のようにスクリーンを飛び、汚れ、破壊し暴れるメカを見るに、少年もかつての少年も憧れを持つもちものだ。
 ボクもかつて、円谷プロに入ろうと面接を受けに行ったことがあったな。
 それこそ、裏方としての根気の要る地味な作業なのである。
 2006年7月26日 (水)TPN写真展」Gふじやま。10名からなるグループ展。
 ほとんどの人が題材を海外に求められている。
 S田さん曰わく「ヒマと金のある人たち・・」
 S田さんも、”人と路地”をテーマにプラハと釜山をショット。
 「下手な鉄砲さい・・」。
 ボクは撮るのはダメだけど、好き。そして、ちょと、きびしい。 
 アンリ・カルティエ=ブレッソンが大好
き。
 2006年7月26日 (水)
緑光展(東光会の佐賀支部)」 県立美術館 
 ガサガサ、べたべた、ごてごて、絵の具がぬりつけられた画面。
 物理的に重い。重厚ではあるが、迫力とはちがう。
 その中でも田代利夫さんの作品はそれらを消化し、洗練された迫力がある。

 2006年7月26日 (水)探検!!美術館」県立美術館
 県立美術館収蔵の作品・120展が展示室や通路に並ぶ。
 毎年夏休みに開かれてる青少年を主眼にした企画展だけに楽しい工夫が伺える。
 大きなキャプションには見るヒントになる程度の解説が添えられ、クイズ形式になってる。
 ボクの作品「作品R」(F100)にも会えた。
 ボクの手を離れ立派に生きていてくれてるようだ。

2006年7月21日 (金)塚本猪一郎新作版画展 ギャラリー憩い>
 ソフィストケートされた形と色。それでいてユーモラス。

 2006年7月16日 (日)光山照行誕生會
「藝能光組組長・光山照行誕生會」 白石町の稲佐神社 午後5時
 新緑に包まれた山の中腹に稲佐神社はあった。
 かつて、ふもとの橋本白道氏の窯場を訪ねたときに一度きたことがある。
 山を背に白石平野を一望にする荘厳な神社である。
 社務所の脇に樹木に囲まれた30メートル四方の広場(サークル)があり、傍らの樹齢600年と言う楠の巨木が原初的風景を形どっている。
 その周囲に長椅子、ゴザがおかれ、およそ30人の老若男女が腰を下ろし開演を待つ。舟さんの姿もあった。
 オーストラリアで見た古代のアボリジニの集会場跡をおもいだす。
 時折、小雨が落ち、風ざわめき、ヒグラシの連呼、木の葉舞い散る。
 5時30分にどこからともなく、遍路鈴がチリン・・、チリンと鳴り響く。

 ”土方巽{故人)は1960年、「暗黒舞踏」という新しい表現形式を確立した。〜これまでの西洋舞踊の多くが、肉体を発展的にとらえ、力のダイナミズムで踊りを構成するのに対して、土方は解体され衰弱に向かう肉体の動きに美しさを見出した。これは画期的な視点というべきもので、文学、美術、哲学、演劇、音楽など、他分野の人々にも衝撃を与えた”。(アスベスト館 土方巽 〜 バイオグラフィー 〜より抜粋)。

 演技者・光山氏が遍路鈴を鳴らし、駒送りのような歩で山門から境内に入ってくる。
 どこか60年代のなつかしさがある。
 眼前の高い階段上の本殿に高々と両手を広げ、ひれふし、入念な参拝の儀式(パフォーマンス)。
 そして、お遍路は観客と黄色いTシャツのスタッフの前を通り、ゆっくりゆっくり広場に入場する。
 遍路とスタッフが重なるTシャツの背に{光」の大ロゴが神々しい。
 やがて、遍路は受胎し、赤ん坊が誕生する。
 地に臥し、巨木に臥し、大気に翼のように両手を広げ、自然への感謝を表す。
 スローな動きに身体の線の美しさが際だつ。肘を折り両腕を開閉する形は千手観音でもあった。
 突然、ザザーッと青葉の風が吹き、見上げる木立にまたしても「お葬式」をおもう。
 それから野球、剣道、エレキギター、パーカッション、それに前回の公演での  「ミッカックンチャン」の一味線などのパフォーパンスが延々と続く。
 生まれてから今日までの半生の表現である。
 舞踏と言うか一人芝居と言うか、土に生まれ、土に帰るまでの1時間は短かった。舞踏でもなく、一人芝居でもない「ネオ表現者?」の誕生日になった。
 その間、風のざわめきがあったり、ヒグラシの合唱があったり、木の葉が舞い散るなどの日常がここでは、表現者に呼応し交信しているような神秘的雰囲気を享受するのであった。 
 剣道、野球の場面で表現が現実過ぎ、前後の脈絡から浮いて見えり、人間の背負う業やハン(恨み)といった部分の表現が足らない課題は見えたが、全体には判りやすくまとまっており好演であった。
 終演後、「何故かわからないけど、泣けてきた」というご婦人がいらしたぐらいみなさん満足のようだった。
 このタイプの表現が、ご当地では皆無なだけに期待し見守りたい。
7月8日(土)北川春重絵画展/武雄市立図書館。
 49歳で亡くなられて今年で25年。
 三年前にも回顧展を見ているが、今回はさらによく見えてきた。
 速い筆致、単純化、技術の3要素を駆使した構成を30代で確立されてる。
 それは特に水彩に顕著。
 武雄や佐賀の名所を好んで描かれているようだけど、絵はがきに終わらないところが非凡だ。
 色んなスタイルの持ち主だけに、その後の展開をもっと見せてもらいたいとおもいつつ・・。作品から鼓動が聞こえてくるようだ。
 ボクが北川さんにお会いしたのは、20代後半のころ。
 菊水堂画材店で絵画教室をされており、度々会うようなるが、話したことはなく、挨拶するくらいであった。
どこか 疲れたような風体、風ぼう,しかし眼光が鋭く、佐賀の美術界には背を向けた唯我独尊とでも言いたげな人であった。
 友人のU川君がする喫茶店にたまに見えたらしく、ボクの絵の批評をされてたみたい。
 バスの車窓から数回、北川さんが堀端にイーゼルを立て自転車の荷台に絵の具箱を置きキャンバスに堀端風景を写生されてるのを目撃した。
 後にそれらは中央画廊での個展で披露された。
 当時、北川さんの訃報を聞き、また、その死に様の非業さに我が身を重ねるも、不条理のまま。
 作品だけが残っていると言うのも酷なような気がする。そして、穴が空くほど見ようとしている。見えるモノは、何んなのか。北川さんか、時代かそれとも単独に作品なのか。
 北川さんは本物の作家である。
 土曜日の午後と言うには、あまりにもお客が少なすぎる。

2006年6月28日 (水)中尾和紀ジャ個展
吉野ヶ里町のギャラリーアートエル。<6月27日〜7月2日(日)まで>
 5M四方のギャラリー中央に箱形のオブジェがあって、そこから数本のビニールチューブが天井へと伸び、触手をひろげ、画廊全体を覆っている。
 一体これは何だ?
 チューブを液体が流れているようでもあり、血管にも見える。「ミクロの決死圏」か!ブレイン(脳)の中に入ったようだ。
 まんまと作者の罠にはめられたのではないだろうな。尚も何かを探そうとする。
 壁面には中尾氏の分身的キノコ雲のような脳みそのような樹の絵が飾られ、また、切り抜かれた樹が別個の作品ともなって、飾られ、再び樹はタブローとして
キャンバスに収まっていく。
 あるいは、その逆の過程でもあり、コンバイン的樹の作品は平面を越え、機械化され、電飾され動きだそうとするが、
いずれにせよ、風景(現実)の反転と反復と言うことのようだ。
 イルミネーションも蛍光管も中央のオブジェ・原子神母の頭脳に照らし合わすと血液、神経系の現れにも見えるのである。
 インスタレーションと言うより、思考の反復はコンセプトアートである。
 自分で在ると言うことは、感覚的にも目に見える外からの情報であり、自分の位置を知ろうとすればするほど、位置は混沌と最低二極間で揺れているものである。
 描くと言う意味でのゴッホ、セザンヌ、ピカソがいるなら、そこからの啓示、情報はより感覚的、頭脳的な表現を必然的に含んでいた。
 氏のアートも限りなく遊びに見せて遊びではない。事実、遊びたいと誰しもおもってはみても、遊びをやってる訳ではない。
 遊びと言う概念のたのしさ、おもしろさに限りなく近づこうとする方法なのである。
 メインとなるオブゼは十数年前から中尾さんの家の前に飾られていものである。
風雨を耐えて天空と対峙していたと言う意味では、時間そのものである。
「2001年オデッセイ」のモノリスであってもイイのだ。
 一種のコア(核)、時間を内包するブレイン(脳)。
 本来の「ゴトンゴトン(車窓の人)」「家族」や「楽師」らのアクションペインティングとはちょと異なったここ10年ぐらいの思考経路の展開。
 おもしろさの中にも皮肉があり、反復は癒でもあった。

2006/6月25日(日)雪舟から源平まで
久留米の石橋美術館へいく。
 石橋文化センターには他にも図書館やホールがいくつもあり、それぞれに催し物があってるとみえぞくぞくとお客が入園している。
 「雪舟からポロックまで」2006/6/15〜7/2(日)入館料800円。
 かつての美術の教科書に載っていた名画のほとんどがある。
 東京・八重洲の石橋美術館でもその時々に見ては来たが、日本の美術教育は石橋コレクションの上に培われていたもののようだ。
 ロココのコロー、室町の雪舟からポロックまでが簡潔に一堂にそろい、500年の美術史の一端を1時間30分で見ることができ満足。
 雪舟の山水画・軸物4点に男と女、男根、女体が隠し絵のように配してあるのを発見するが、独りよがりの独眼だろうか。
 本日の目的はこの展覧会に合わせての赤瀬川源平さんの講演会である。
 敷地内の共同ホールで行われた。聴講券¥1.000.
 450席のホールの9割が埋まった。
 「名画は蘇る」テレビで聞く声といっしょだ。顔はよく見えないが、しぐさからして老人ではない。若々しい。
ボクが、20代のころ憧れ、お手本にしたアニさんの一人である。
 日本美術をちゃかしたような偽札事件、ハイレッドセンター、桜画報らから少なからず影響を受けてる。
 文章もおもしろく、「父が消えた日」はボクの自伝とも重なるような源平さんの全てをここに見ることができる。
 少年時代、中学、高校と美術や名画との出会いを語られていくのだが、あまりに普通に喋られ、内容も飛ぶので、かなりの予備知識がないと、解りにくく、退屈するかも。現に見渡すと眠っているいる人が随分といる。源平さんを紹介した館長も後ろの方で眠っている。
 講演では文章のようにはおもしろく、おおげさに喋られない。普通の言葉で喋ろうとされているよう。
 普通であることが、本当はそこからおもしろくなったりするのだが、どうもおもしろくない。困って、先に自分で笑われることもあり、いよいよ苦しい。しかし、源平さんに焦った様子は微塵もない。
 講演、喋りとは大変むずかしいのだ。そうと解った上であえて、脚色を避けてあるのかとおもってしまうほどである。
 休憩で2割の人が帰った。2部はスライドを使っての、路上観察。トマソン、老人力の紹介。
 街や路上に放置されたものにも「はっ」「おっ」「おやっ」といった超芸術(トマソン・ベンチをぬくめるだけの、あってもなくてもイイもの)があり、その時の感動の仕方が名画を見るときの言葉にできないような感動と同じではないのか?と言うのが講演の趣旨ではなかったかとおもう。
 演題「名画は蘇る」とはトマソンとなって町中に蘇るという限りなく洒落た真実なのであろうか?
 ボクらが呑んで話しているようなもので、そばで聞いている人たちはなんの事やら解らないのである。多分。
2006年5月2日 (火) 萩原俊樹回顧展
 「萩原俊樹回顧展」を見てきた。
 ボクより二学年後輩。C型肝炎で入退院を繰りかえされていたが、昨年帰らぬ人となった。享年55。あらためてご冥福をお祈りします。
 高校は西校だったが、ボクはよく西校美術室に出向いていたので、名前、顔は知っていた。
 ボクは4浪、彼は2浪(?)の夏だったとおもう。
 日比谷公園の噴水の前で会った。もう一人北高後輩のK嬢がいた。
 萩原さんは南周りの船でフランスのパリに行くという。
 ボクは船と鉄道でソ連からフィンランドのヘルシンキに入ると、お互い他人ごとのように不安よりも期待ばかりだったようだ。
 噴水にカラーの照明が点き夜空に美しかった。
 ボクが9月に出て、その一月後に萩原さんが出たとおもう。
 個展やグループ展で見た作品もあるが、ほとんどが初めて見る作品である。
 キャンバス地を生かした淡い原色ののバルールが湿気のない澄んだ空間を生む。
 佐賀の地においてはあか抜けし洗練された画風は新鮮かつ異質であった。
 そこが、萩原さんにとっては打破したいキツイところではなかったかとおもう。
 彼もボクと同じくらい個展をしない方で、どちらが最後まで個展しないか、冗談にも競ったことがあった。
 作品の数が少ないと企画委員の塚本くんから聞いていたのだが、奥さんによれば「展示できなかった作品がまだたくさんあります」と言うことだった。
 ボクとしては、逆に「隠していたんですね・・」とのおもいであった。
 一堂に集めての展開はより萩原さんの世界感、絵画感が伝わってくる。
 ブルーやイエローやピンクが白いキャンバス地と微妙なハーモニーを醸している。張り付いているようで、張り付くのを避けているような具体的な色たち。
 絶筆となった「城原川風景」は、プロバンスのラベンダー畑とも重なって見えてくるのだが、その先の展開を見せて欲しかった。
 萩原さんの自信は不安な佐賀の自身でもあったのでは・・。
 時間を経て今一堂に作品を見るに、皮肉にも違和感なく佐賀の風景に溶け込んでいるのである。 「萩原さんを偲ぶ会」が当夜、市内の旅館であった。
 恩師、同窓生、絵画教室の生徒さん、絵の関係の友人など90人が、氏を語り呑んだ。
 ありがとう。
2006年5月1日 (月) 吉田進一個展
10時に吉田進一先生の個展の飾り付けの手伝いにタマヤへいく。
 のぶおちゃんと教室の生徒さん3人がいらした。
 先生は前より少し小さくなられたように見えるが、お元気ではある。
 展示は全て昼前に完了。
 大作の兜2点、自画像一点。それと油彩の薔薇、風景、水彩の小品が並ぶ。
 美大にいって画家にでもなろうかとおもいはじめたのは吉田先生が中学から北高に赴任されたときである。
 先生の芸大のよかチンや気ままな貧乏生活に憧れたからであった。
 「日展の審査は今もされてますか」
 「いや、しよらんよ、あれは一回だけで、後は肩書きの上がっていくだけさいね・・」どこかさびしさを感じた。
 北高、龍谷短大を退職され鎧兜で特選を取られ佐賀美協理事長を辞められ何年が経つのか。
 北高のころ休み時間に色紙に体育の女性教師らにせがまれてアザミをよく描いておられた。早くて上手いなとおもったものだ。
 そんな色紙も並ぶ。
 有明海の朝日、薔薇、根子岳、イチゴ、伊勢エビなど日常のたのしい油彩画。
 圧巻は戦国武者兜の重厚な作品。
 鈍い光を放つ兜自身が先生の姿であることは当然としても、分厚い絵の具の筆致は、かなしさなのか、つらさなのか、うれしさなのか、何を語らん。
 「オイたちは暑か夏が勝負たい、秋に描いとっても間に合わん」とよく高校時代に聞いた。教職に身を置いた者の言葉であろう。
 二足のわらじを一足にしたいと言う風でもなかった。いや、そんなことはなかろう。そせざるを得ないつらさは誰にもいえぬものだ。
 最近は、静かにゆっくりとアトリエの自画像を描かれている。
 まだまだ、最後まで描かれるだろうが、おおいにたのしんでください。
2006年4月26日 (水) 吉野ヶ里展誕生展を見て
意外な顔ぶれである。出品者は舟さんをのぞいて神埼地区の人たちということのようだが。
こんな顔合わせもありか。それぞれ2から3点の大作が並ぶ。
 「吉野ヶ里展誕生展」ギャラリー「アートえる」吉野ヶ里町
 画廊に入って、驚いた。勤務されてるお二人をのぞいて4人の出品者のお姉さま方が在廊であったことだ。
 最近では、グループ展となると当番をのぞいて出品者が顔をそろえることはあまりない。
 ボクらのグループ「磁場」も出品者が気になるように足繁くその場に顔を出す。
 それだけ、みなさん熱があると言うことだろう。でなくば、グループのよさも、面白さも継続もないとおもうのである。
 ボクはこの画廊では舟さんのオブジェ、インスタレーションの展示を多く見ているので、舟さんのための画廊か、とおもっているフシもあり、絵画の大作がこれだけびっしりと展示されているのには、もちろん空間が違って見える。
 内容、展示のしかたで当然空間は変わる。逆に言えば無限に空間を変えることができるとも言える。
 個々の作品が展示方法でよく見えたりそうでないということもあるかもしれないが、重要ではない。スーパーの肉や野菜とはちがう。
 もし、ゴッホやピカソの絵が条件のよくない場所、空間にあったとしても、贋作を見れる目があるとしたら、どこにあろうと関係なく、惹きつけられるのではなかろうか。
 正面、右に下村さんの空き缶を擬人化した油彩3点。
 日展作家のエキセントリックな側面ではあるが、確かな描き込みはやはり日展である。
 左壁には眞崎さんの黒を主体にした静物、とは言っても抽象化されており具象の域を超えている。
 そこに彼女の長年の模索を感じる。部分的な工夫でうまくいったかに見えるのだが、手探り状態の現実の方がリアル。
 手前、奧に小池さんの黒い抽象絵画。真崎さんの黒は微妙に変化さしてあるのに対し同じ黒でもフラットな黒。情緒はその隙間からのぞく赤や緑、白と言った断片にある。そのための無機質な黒であるのだろう。
 お二人の黒を足して割れば済むと言うことでもない。お二人の黒への狙いもこだわりも全くちがっていらっしゃるとおもう。
 アートのおもしろいところである。見る側としては見付からないパズルのゲームのようでありおもしろい。グループ展のよさもそこにあるのでは。
 手前、左壁には牟田さんの相変わらずと言うか、淡い紫を基調にした変形するキューブの作品。ここまでくり返し連作を続けると言うのはボクの裡にはない。
 しかし、人それぞれ、わからなところとしておこう。
 側面にカラフルな汐待さんの心象風景画?。
 退職されベニスを度々訪れられ、すっかり気持ちはベニスと言ったところであろう。
 たのしんで描かれているのはわかるけど、散りばめられた色や挿入イメージの数々が本人もお気づきのようにハレーションを起こしているようにおもわれる。
 画面上でのどうだ、こだの処理よりもイメージの断片の一本化ではないでしょうか。言うは易しでもうしわけないけど。
 石ころ一つ、空き缶一つがイメージ(風景)の断片らを凝縮内包することも可能であり、問題は散りばめられた点(イメージ)の集積が緊迫した、あるいはおだやかな整った顔を見せることだってあると言うようなところでしょうか。
 舟さんの作品は?と言うと外。玄関周辺に無造作にいろんな氏のオブジェがおかれている。
 とは言うものの(舟ギャラリー)常に置かれているようで、改めての感はなく、 この画廊の顔にもなっているとおもう。
 氏の明るさ解放さがあってイイのではとおもう。ボクなんかも氏の軽やかさに大部影響を受けている。佐賀人よりも佐賀の風景は軽やかな風とおもうこのごろ。
 皆さん長く絵画をやってこられた方がただけに、美術のながれを垣間見れる。
 よく言えば重厚だが、油絵の具と言う物理的にも物質的な素材は時として、制作者の範疇を越え狙い以上にどんよりと重さを露呈してしまう危険な道具たちである。
 ボクが知る範囲では海老原喜之助にはじまり坂本善三、香月泰男の流れが脈々とながれている。とすれば、それは、九州の風土的なDNAであるのだろうか。あるといってもよい。
 明治から昭和と生きられた壁の画家たちではあるが、壁は時間であって、その時間は正しく重いもの以外のなにものでもないようだ。
 その中でも坂本さんは「壁」を絵画的に解放さす地点にいらしたのではないかと今となってはおもえる。
 解放は重い色彩でも閉塞感を解き軽やかなものへと移っていく。正しくポロックの苦悩の力も解放である。
 西欧でも流動的重厚な抽象表現主義の作家たちが苦闘していたのもポスト印象派、ポスト表現派であり、ポップアートが起こることになる。
 西欧でも流動的重厚な抽象表現主義の作家たちが苦闘していたのもポスト印象派、ポスト表現派であり、ポップアートが起こることになる。
 日本の美術教育はその時点で遅れた。きちんとその時代の変貌変革を伝えきれなかった。
 ボクらはその時代にいた、しかしその意味で渦中ではなかった。
 極度な情報化のうねりの中で、ながれも変化も一緒くたに情報であり藻屑であったようだ。
 その分、重さばかりが重要課題のようにDNA化されたように肉体と精神から弱まることはなかった。
 風景も時間も起こる歴史や事象(場所)とは関係なく常に不動で変わらないもの。
 そこに、光と目を当ていければと今はおもっている。
 お姉さま方に囲まれ、いささか緊張気味ではありましたが、コーヒーとお茶、吉野ヶ里饅頭をいただき、絵を見せていただきありがとうございました。
 よって、ついつい長文になってしまいました。
 失礼の談、一笑一蹴してください。
 4月6日服部大次郎 三瀬りんご園スケッチ展
 ありふれたりんごの絵と見てもらって一向に構わない。
 セザンヌのセオリー(理論)としてのりんご。
 岸田劉生のりんごはコア(核)であった。
 今回のボクのりんごはトポス(場所)である。
 田んぼや潟にいると作品ではなくダヴィンチやゴッホやセザンヌが見えてくる。
 農夫だって、景色だって描くはずだ。
 人間の生命力、風景の美しさばかりじゃないモノを彼らも見ていたのである。
 それを語ればあまりにもお粗末な人生。

2005年
2005年11月27日 (日) 唐津の大治郎先生
 まだ、頭がぼーっとしたまま、家をでた。
 佐賀新聞唐津支所の前を通って街に入り市役所から左に折れたら
 小さいけど「宮崎大治郎個展」の看板が目に入った。
 ギャラリー楽の前に停めて、入場。
 古い商家の壁を剥いだような土間と木造むきだしのギャラリーである。
 変わっているが悪くはない。おもしろい空間と言うべきか。そこで、よくぞ、宮崎先生は個展をしたものである。大治郎先生を触発さしたものは何なのか。
 唐津の小杉さんがいらした。大治郎先生の生徒の奥さんがみえてた。
 このところ、線・ラインが消え、面に変わった。
 重なった花びらを光りに透かしたような絵面である。
 しかし、作家のイメージに花はないとおもう。
 その曲線はやはり、作家がながく続けている肩から振り下ろすストロークである。
 幼児が腕を振り最初に円を描き出す延長線上である。面に変わってこそいるが、意識しているのは、ラインであろう。ダヴィンチが言う線ともつかぬ、中間物・ミデュアムであろう。
 題名の「きら・・」は雲母の輝きだろうが、雲母を染めているらしい。
 印象派の画家たちが色彩で光を表そうとしたけど、物理的に雲母は輝き、線と面があるとすれば、現実の点ということにもなる。
 岩絵の具の日本画とは一線を画すべきであろう。
 年齢と共にハードな平面から温かみのある平面に向かい出しているのかも知れない。
 その足で唐津から博多に入って、大野城のコンビニで寝て、佐賀までもどってきて、体調も落ち着き、我に返った。
2005年10月6日 (木) モンドリアン記憶の残滓
 ニューヨークの都市空間を想わせるモンドリアンの
最高傑作・「ブロードウエイ ダウンタウン ブギウギ」。
 白地に赤、青、黄の色が鮮やかに走る線と面の絵画。
 モンドリアンはこの絵を完成させた翌年、1944年になくなる。
 同じ年、ムンク、カンディンスキーも亡くなっている。ちなみにボクが生まれる3年前。
 ベルギーから亡命したたモンドリアンの表現スタイルは絵画の原点でもある点、線、面による都市空間的抽象表現に移行していった。
 「私の芸術は自由を表現して、ファシズムが横行する時代にいっさいの抑圧に抵抗する精神的砦である。私の絵から何を感じるかは、見る人間の自由なのだ」と書き残している。
 今もどこかで紛争や戦争はあっているが、戦時下の意識はない。事象や対象が判らないまま、自分とは戦っているつもりで
いる。

 2005年8月26日 (金)
「森和幸 個展」(村岡屋G)を見る。ミニコンサートは終わっていた。メルヘン調の大小の作品が壁に並ぶ。毎年やっているそうで、バイオリンと絵画の二足のわらじ。別のたいへんさがあるのだろう。
背景のおもしろさは、聞いて判った。和紙であった。和紙に影絵みたいな手法は色数が少なく強く感じた。

2005年8月23日 (火)磁場展日記
自転車で佐賀の街を通って市立図書館に向かう。10時前にしてはほとんど商店は閉まっている。街を歩く人もほとんどない。朝が遅く夜が早い街ともいえる。
 図書館には多くの人が行列をつくって開館を待ってた。ボクも一番に二階に上がる。それから直ぐ、クリニックの人たちがたくさん磁場展を見にきてくださった。
 トイレにいってもどってきたら川本さんが座っていらした。真子さん、西村さんと当番でもない人が出てくるのも当初からの磁場のイイところ。午後当番の陣内さんもきて、観客以上ににぎわう。
 画家のKおんじいさんがニコニコ階段を上がってきた。じっくり見てからそれぞれの作品の感想をいってくれる。いつも見にきてくれるだけに的確な指摘であったり、賛辞である。佐賀の全体を捉え得る数少ないお一人である。感謝。
 ご当地にも団体、グループといろいろあるが、了見が狭い。全体を見てないし全体の中の一つであるという認識もないから、井の中のカワズにもおよばぬ。恣意的な自己満足の井戸である。垣根はないのに架空の垣根をつくって広く見ていないようにおもう。交流もなければ、切磋琢磨もなく、そりゃ埋没するしかない。
 それからすれば、磁場の人たちは案内状が来ようが来まいが、垣根もなくどこへでも見にいく人が多い。だから見逃していてもその情報を知ることはできる。と言うのも気になるとか、問題外ということに留まらず好奇心と興味が表現、描くことの原動力と知っているからかも知れない。それがおのずと現実であり状況であり、自分の位置、シチュエーションでもあるのだから。本気である。
 図書館の正門ベランダから雅ちゃんと公園、佐賀の街を眺めていた。雨があがりさわやかに雲が流れる。池をのぞく少年たち、黄色の本袋を下げて自転車で図書館にやってくる人、公園を散策する人、となんだかゆったりと目に入ってくるのだった。
2005年8月20日 (土)
G憩い」で吉武研司個展を見る。吉武くんは東京に帰っていたが、カラフルなよろずの神々が迎えてくれた。雨の画廊に客はなく、ゆっくりじっくり見れた。
 彼の自由奔放さはさらにどこへいくのであろう、と自分をも見ていた。

2005年8月4日 (木)
「中学校美術部合同グループ展」を見る。
 10校の合同展。
 初々しい男子中学生が受け付けで丁寧に応対する。荒れた中学校など微塵も感じさせない。Y子ちゃんの作品も4点あり、的確に描いてよかった。
 イイ企画だとおもう。指導者に負うところ大の年代ではありそうだが、上手い子もいればわずかながらおもしろ半分の子もいた。
 合同が、レベル的競争になると危うい。技術と同時に美術の面白さ、不思議さ、魅力らを教えていけたらと指導者に望むところ。
 美術の崇高さと背中合わせのばかばかしさを彼らの日常とつないでやる。
 ボクが中学生だったらそうけしかけてほしい。

2005年7月29日 (金)
「東光展」 「理科室の住人展」
ザーッと久しぶりの雨後曇りに気分良く、美術館へ東光展を見に行く。
入館するとかん高い聞き覚えのある声が響いていた。展示室に近づくにつれ声の主は判明していくのだったが、あのお方は入院されているのではなかったのかな?
間違いなかった。佐賀東光会筆頭のK氏が受付で喋っていらした。病み上がりにしては相変わらずのご様子、以前に益して元気のよでなにより。
田代さんの「呼子の漁船シリーズ」は勢いを失わず洗練されていく。小森のおばちゃまに「以前に見たのと同じ作品?」と失礼なことをいってしまった。みんな一生懸命描いてあった。
 いっしょに同回主催のスケッチ大会・幼児、小、中、高、一般の水彩も展示してあったが、上手だけど色彩が同じように鈍く独創性に欠ける。すでに型にはまっているのが苦しい。
 隣室では「理科室の住人展」があってた。
 人体模型、動物の骨格標本、鳥や動物の剥製、ヘビやカエルらのアルコール漬け。佐賀県の高校から借りてきたものだが、小学校の理科室のあのおぞましき雰囲気がよみがえってきた。お化け屋敷よりは涼しくなるかもね。
 子供のワニの剥製も展示されていたが、ボクの小学校の講堂の階段の踊り場にはガラスケースに入った大ワニの剥製がしっぽを下に鼻を天に向けつん立っていた。コワイというよりはあれは一体何だったのかと今さらながらに首をかしげる。今も残っていれば大したものだが、消却処分されたのがイイとこだろう。
 久しぶりにイバGに寄った。もっとも社長はパソコン中のもようだったが、飛び出してきて顔が破れた。
「馬に乗ったわしを見て子供が言ったよ」「乗った人より馬は丸顔」(椿三十郎よ
り)。
「深草廣平回顧展」県立美術館
 セザンヌ、ゴッホ、モンドリアン、ビュッヘらの画法がのぞく。一貫して全体にセザンヌ的絵画空間が流れている。
 一人の画家が画家になろうとするあがきにも見えるのだが、道半ばで逝かれたようだ。
 現代に生きるリアリティ(新しさ)を獲得しようとする度に指の間から漏れていくジレンマに身近な(社会)自画像や家族を描かれたのではなかろうか。皮肉にもそれが作家の最も自然な時間に見え、一人の作家が一生のうちに描く行為の美しくも辛いストーリーをまた見てしまった。
 天国では描くは止めて、おねえちゃんと遊んでください。
 
 隣室では「夏にみる幟(のぼり)」も開催中であっった。
 武雄市の古裂収集家・宮原としえさんのコレクションと言うから驚き。江戸期、明治期の巨大な鯉のぼりから武者のぼりの数々。古いメンコを見ているような味わいのある絵柄と染めの技法。布に直接手描き?と思われる。様々な絵師がいたもので、それぞれにおもしろい。個人でこのようなものをコレクトする人がいることが、またすばらしい。
5月29日(日)
舟さんの吉野ヶ里プロジェクト

何だかそんな気がしたから吉野ヶ里へいく。
 暑いと思ってたけど湿気のない風が肌を冷やす。薫風というやつか。予感通りに心が解放されていくようだ。
 チケットを買い入場ゲートの橋を渡る。人工的に造られたわりには橋から見る南北の眺めは素敵だ。砂地の見える清流のせいかも知れない。
 橋を抜けると正面の木と木の間にウルトラマンが着けるであろう巨大なオレンジ色のパンツがぶら下がり風と戯れている。
 オレンジ色のエイかマンタのようだ。そう、舟さんの有明海に次ぐ「吉野ヶ里プロジェクト」・風に揺らぐはた(オブジェ)のインスタレーション。
 舟さんの作品を探して牛歩。暑いけど心地イイ風に、外国にでもきたような旅人になっていく。
 作品はあちこちに点在してるが、メインストリートを囲む外側の通りやクリーク、丘陵一帯に集中していた。
 事前に管理事務所が用意したカラフルな旗もひらめいてはいるが、作家の旗とは明らかに違う。しかし観客にしてみれば、どちらでもよく、アートとしては目に入っていない様子。それだけ調和しているのかと言えば、これだけの自然相手の広大なスケールの中でのむずかしさはあるようだ。
 北の日吉神社から広い公園に沿って南へ歩く。公園の広い芝のグランドでは数百人の男女がグランドゴルフ大会をたのしんでいる。
 南のはずれに舟さんの揺らぐ白やオレンジのハタが見えるが、それを楽しみに木陰に腰を下ろし一休み。コンビニで買った伊右衛門で喉を潤し、目の前の風にめくれる「駐車禁止」の看板をスケッチ。
 遊び道具を持った家族連れがパラパラと公園へ入っていく。入場料払ってまでも遊びにくるだ?
 吉野ヶ里人は360度見渡せる素晴らしい景色の高台に住んでいたのである。
 芦が茂るクリークに架かる木の橋に円形のオブジェが蝶のようにたくさん留まり、岸辺の木陰にはオレンジのハタが木の影を映し風に泳ぐ。作品と環境が融合し、新たな風景を形成している。ナイスポイントである。
丘の上にはためく3連のハタの写真を撮ろうとするが、電池切れ。そこでスケッチした。
 約4時間スケッチしながら舟さんの野に放たれた自由のオブジェを堪能した。  吉野ヶ里いっぱいを使っての今回の設営がいかにたいへんであったかも実感。
 アートの道は困難の連続、それでもクリストが言うように好きなことができるのならやり続けるしかない。舟さんは正にその一人である。
 100人いや200人いれば一人ぐらいが立ち止まる、それぐらいきびしいのが現実であり、アートである。外国でもボクは同じように外側を見て歩くのだが、同類にはめったにお目にかからない。しかし少数ではあるが、確実に見えたり、見ようとしている人たちがいるのは事実。またその少数の人たちと出会える瞬間が見られる方も見る方もたまらないのである。
  風に逆わらず風に乗り、木に結ばれたひもはねじれ切れることもなく作家の両手のように木と木に結ばれている。高く、低く、伸ばしたり、縮めたり意味はなくも作家の意志が風を形にする。古代人ののろしのように。薫風のやさしさだけじゃなくアーティストの意志があることがさらに旅人の心を確実なものにしてくれる。
 ニューヨークでは、小さな公園にも有名無名のアーティストの作品がある。日本では美術館にしかないジョージ・シーガルの石膏ガーゼの人物たちがいて、そのそばでホームレスがすやすやと寝てた。
 美術を特別なことと思わないことも持続と活力の源である。早く花開いても挫折するし、遅く花開いても挫折する。
2005年4月16日 (土)
ハヤと雨とホクニー

 「さようなら・・」と言う声にがばっと目覚めたら、高校生のMarikoさんが帰るところで、勢山さんの道具があるだけで、みなさんすでにお帰り。ああ今日も寝てしもうた。
 雷雨の夜だ。まるで梅雨に入ったかのような雨音が脳に心地よい。
 時々BS、CSが不信になる。
 自転車で田んぼの水路にハヤ釣りにいって、雨が降っても傘さして雨の川を見ていた。デビッド。ホクニーが日本で描いた「雨」の絵はこれだなと思い、雨つぶを絵にされたことに焦っていた釣り人の姿が浮かび上がってくるのであった。

2005年4月29日 (金)
川修作

 ようこそ先輩、課外授業で荒川修作氏が小学生相手に簡単だけどむずかしいことをマジにやってた。
 高松次郎とよく比較されるのだが、高松がもたもた日本で悩んでいるころ、荒川はさっさとNYへ飛ぶ。もちろん親分・ニューヨークの次郎長こと・牛ちゃん、篠原有司男を忘れてはならぬ。
 ボクが23歳のときNYにいったころ、荒川さんは荒川ビルをもってたし、牛ちゃんはあとりえ自宅を木賃宿にしてヒッピーや旅行者を泊めていた。
 荒川、高松、宇佐見が最もかっこよかった。彼らの考えや作品の剽窃はよくやった。今尚多大な影響を受けた3氏である。
 荒川さんは特別だった。県展の審査員にお呼ぼうとしたが、反対につぶされた。そこで次の年は強引に横尾忠則さんを推薦した。審査前日横尾さんと呑んだ飲んだ。迷える横尾さんがイラストレーターを捨て画家宣言をしたころだった。宇佐見圭司さんも来たが、飲むことはなかった。そして企画委員を降りた。だれか今年の県展に村上隆ぐらい呼べよ。
 荒川氏の肩書きが画家から「建築家・美術家」になってた。しかし糸の切れたタコののような68歳である。県展に呼んどくべきであった。
 まっ、今も昔も佐賀にはもっとスゴイ舟一朝さんがいる。
 ここまで来るのに短いかいようで長い時間がかかったが、さらに進化さしていきたい。
 大貫妙子が歌うような小泉今日子のメトロポリタンミュージアムである。
 もっと、おもしろく、おもしろく、毎日がアート、いいかげんバケツ。
 クリストも荒川も舟一朝も牛ちゃんの牧場馬の尻、尻ビバ、バンザイ。
2005年4月30日 (土)
和ちゃん店開き


 朝、中尾和紀個展の飾り着けにいく。和ちゃんが看板を作っていた。
「まだ、絵が来てないんです」そこへ、菊水堂の杉町さんが額装した作品を搬入。
 和ちゃんが言うように、そう言えば、20年ぐらい前、博多でした三人展のながれがある。自転車や汽車やバイクから見るグリーンを基調にした逃げ去るた風景の一連がそうだ。
 コンサート、家族、祇園さんらお得意のテーマ・カラフルアクション・26点が1時間ほどで展示された。
 成功を祈る。夜はオープニングパーティー。たのしみ。
2005 / 3 / 26 ( SAT )

 
 「佐賀支部・二紀展」。
 上滝さんと平方さんが会場にいらした。200号、150号と大作をみなさん描いているのには、感心する。
 一生懸命、しつこく描いてはあるが、見る方はそこまでつき合って立ち停まろうとはしない。すーっと、ピシッと心に入ってくる作品を待つ。
 上滝さんは「堕ちた天使」シリーズのその後、その延長線上でもある「黙示録」はある地平へたどり着いたように、核として見えてさすがである。従来の色彩とスタイルではあるのだが、骨太の黄土、白の背景がびしっとクールに空間を展開しているのである。楽しさ面白さが要素としてハッキリしてきたのかな?
 上滝さんは「そのへんが自分でも判らないからね・・?」などと上滝さん、平方さんと話しているのも、幸せな時間ではあった。上滝さんに作品の感想を述べるなども初めてのことである。
 平方さんには何も言わなかったが、「街角、ショーウインドウ風景」は以前にまして現実感が新鮮に見えてしまう。時代に変化があったのか?など思い巡ったが、判らぬ。作者の内部的精神の変化が関係したのかも知れない。
 若いひとたちの作品もそれぞれ意欲的ではあるのだが、ボクには、時代とかみ合わぬ空転せいばかりが見えるようだった。

005 / 3 / 23 ( WED )

  「山田直行個展」
 直行氏のシルクロード、ヴェトナム、カンボジアら旅のスケッチとアクリル画がにぎやかに展示され、早くも赤マルだらけである。忙しいわりにはよく描くよな。
 奥さんの電話で、前のうどん屋から直行さんが汗びっしょりになって戻ってきた。

2 2005 / 3 / 23 ( WED )
舟さん、有明海のメッセージ

 三田川のアートエルでは「船一朝、干潟プロジェクト以後展」
 ギャラリー内から見えたのか、舟さんが出迎えてくれた。
 干潟で使った布の部分、部分を針金のわっかに張り直したモノで、ランダムに数十個放置してあり、カラフルな団扇や蓮の葉のようでもある。窓からの光にも映え、その前でファッションショーや舞踏、芝居をやれたら楽しそう。ありゃ、お隣に立派な能舞台があったんだ。舟さんがたのしんで、こちらもたのしくなる。

2005 / 3 / 14 ( MON )
クリスト その2

  「アトリエでまっさらなキャンバスを前に座るアーティストを想像してみてください、キャンバスを絵の具で埋め尽くしたいという衝動に説明なんて要りません、そう感じたから、ただそれだけのことです。私たちのやってることも全くいっしょです、プロジェクトは説明する必要性も正当化する理由もありません、ただ眺めて楽しむためのものです、判りますか、存在する理由がないことこそがプロジェクトのもつ力なのです」とクリストはNHKのインタビューに少し興奮気味に答えた。
 「何」「どうして」と意味を求められることをホントいやなようだ。当初は民俗、人種、国境の意味合いが梱包にも込められていたと見えるのだが、フランス出身のパートナー・ジャンヌ・クロードとの出会いからボーダーがベルリンの壁のように解体していったのではと勝手な想像を抱く。隠すことで風景にズレを発生さすという思想はすでに見え透いた手口ではある。そんな表現もまだまだ後を絶たない。
 表で喋るのはほとんどジャン・クロードだが、一心同体にも見える言葉の共通せいがある。
 「美しい」「よろこび」「うれしさ」の連発には神懸かりさえ感じてしまう。
 以前、アメリカの子供たちとクリスト夫妻が美術の授業をする番組があったが、夫妻は子供たちの一見自由に見える作品(立体)にも、「もっと感じるモノを素直に出しなさい」とアドバイスしてた。子供らしさも美術教育の中で理屈っぽく大人びて見えてしまうのだろ。ようするに「ウソ」ということである。大人の世界ではよくあることの当たり前も、小さきものたちの世界には必要ない。
 田んぼの中にいて、過去がよみがえることがしばしば。発展はなきも反芻だろうが、”〜トンビがくるりと輪をかいたーホーイーノホイ〜”もなくば、リアリズムのパワーもない。強引にイメージを膨らまそうとする身勝手さばかりなりかな、とこらえる。
 立ってばかりいるからかも知れない。レンゲ畑はないけど、
今度はごろんと寝っころがって天を仰いでみよう。
 「ドイツ・ドクメンタ」で小山の斜面に寝ころんで見せるタワーがあった。空が変化し雲が流れる。気持ちイイ。弁当でも広げようか。クリスト的である。
 遠くに離れた美術が思想的には原初的に回帰しているものの、素材、場所も紙やキャンバス、絵の具、クレヨンでなく、場所をえらばなかったりするから、確かに感性だけではとまどい、わからなかったり、「意味」を求めたりするのも、わかり得る。
 がらくた骨とうや陳列物を見るよりも田んぼにいた方がイイという場合もある。
 麦踏み、田植え、稲こづみ、作業機械。田園の風景にズレを起こそうなんてとんでもない。アンリ・カルティエ=ブレッソンのように一瞬のアウラを見逃さずじっと待つ姿勢もある。
 それにしても優れた作家はデッサン、ドゥローイングすごい。大枚はたいても欲しくなる勢いと力がみなぎっている。
 クリストの「存在する理由がないことこそがプロジェクトのもつ力なのです」がうれしく心地よくもとまどう。

2005 / 3 / 13 ( SUN )

  クリスト「The gates」
 夜、NHKの日曜美術館「セントラルパークがアートになった日」クリストとジャンヌ・クロードのプロジェクト「ザ・ゲーツ(The Gates)」を見る。もちろんあのビル。ゲーツではない。
 「ヴァレーカーテン/コロラド1970ー72」
 「囲まれた島々/1983マイアミ」
 「包まれたポンヌフ/パリ1975ー85」
 「アンブレラ/日本(茨城)・アメリカ1984ー91」
 「包まれたライヒスターク(旧帝国国会議事堂)/ベルリン1971ー95」など壮大な規模の「梱包の美術家」として知られるクリスト夫妻の新たなプロジェクトである。開幕までのクルーらとの準備風景を追跡していた。
 セントラルパークの蛇行する遊歩道・総延長37kmに渡り、高さ4.87メートル、幅1.67から5.48メートルのゲート7500個を等間隔に設置。ゲート上部からはサフラン色(濃いオレンジ色)のカーテン状の布が木立の影を落とし風にはためいた。
 初日前から大きな話題となり、公開当日からセントラルパークは人の波で埋め尽くされたという。一大アートプロジェクト。
 しかし、それも容易な道ではなかった。いずれもそうであるように諸官庁の許可巡る折衝からはじまる。その交渉のプロセスもすでに美(プロジェクト)なのである。皮肉にも現代美術発祥の地であるニューヨークでの今回の計画が最も長く26年かかっている。
 新しいものを欲しがるアメリカが意外にも慎重なのだ。海外での結果、評価を見ながら長期に渡り考えが変化してきたようだ。一見後手にまわった感はあるが、人種のるつぼ、場所がNY市民がこよなく愛す憩いのセントラルパークなだけに賛否両論、困難を要したのであろう。理解者はあってもNYとて現実は一地方の状況とさしたるちがいはないようだ。現代都市であっても「がらくたを市民の公園に・・」という保守偏見も根強いのである。
 クリスト&ジャンヌ・クロード 「ザ・ゲーツ: プロジェクト・フォー・セントラル・パーク NYC」
 期間 2月12日(土)〜2月27日(日)
 二人がこのプロジェクトの構想を始めたのは1979年。ニューヨーク市から許可が下りず何度もダメになりかけたこのプロジェクトが息の根を吹き返したのは、2003年1月22日。現ブルームバーグ市長がプロジェクトの許可を発表したその日である。クリスト夫妻とブルームバーグ市長は長年の友人だそうだが、ブルームバーグ市長のアート活動に対する絶大なサポートがプロジェクトの許可につながった、といわれる。
 「ニューヨーク史上最大の芸術作品」と絶賛するブルームバーグ市長いわく、観光客が増えるなど税収入だけでも250万ドル、全体では8千万ドルの経済効果を見込んでいる、と抜け目がない。
 この展示の規模は、驚異的である。99,155平方メートルのサフラン色の織物、96.5キロメートルのビニル・チューブ、エッフェル塔で使われた2/3に等しい4,799トンの鉄鋼がザ・ゲーツを作り、およそ700人の人員が、開幕前の週に組立てるために時給6ドルで全米の希望者から雇われた。
 2月28日に閉幕した後で、プロジェクトで使われた材料の全てがリサイクルされるとのこと。
 環境を破壊しないことなどの厳しい制約があり、台座を据えるなど今回かかった費用は、総額で約21億円、それを今回も外部の寄付や援助に一切頼らず、クリストの完成予想ドゥローイング販売などで調達したというから仰天もの。この精神が汚れ無き美の創造者であろう。
 「アトリエでまっさらなキャンバスを前に座るアーティストを想像してみてください、キャンバスを絵の具で埋め尽くしたいという衝動に説明なんて要りません、そう感じたから、ただそれだけのことです。私たちのやってることも全くいっしょです、プロジェクトは説明する必要性も正当化する理由もありません、ただ眺めて楽しむためのものです、判りますか、存在する理由がないことこそがプロジェクトのもつ力なのです」。
 ゲートをくぐって歩く訪問者たちは
「こんなに公園が美しく見えるとはね・・これが消えた後でも今日のことはみんなの記憶にのこるよ」
「サフラン色の川をつくったんだね」
「これこそ私たちに必要なものです・・みんなが共通の精神をもってひとつになるために、これはだれもがいっしょに楽しめます」
「ばかばかしいとおもっていたが、これは素晴らしい ダイナミックだ」
 9.11後の人びとが共有の夢を見た時でもあったのだろうか。
  クリストはブルガリア出身の現在70歳になったばかり。初期の表現は瓶や缶を梱包したり、美術館の通路をドラム缶の壁で封鎖したりと「国境」を意識したものであったが、梱包することで美しさと同時に意味を問うたり、今はその意味すらも求めず美しさのみへと到達していく。
 クリスト、アンディ・ウォーホル、チャック・クロース、ウッディ・アレンは顔が似ている。一世一代のこのイベントに立ち会なくて残念。

2005 / 3 / 4 ( FRI )

  佐賀大学卒業制作展
木工、窯業、デザイン、洋画、日本画。女性が圧倒的に多い。実験作や暴走作はなく、一つ一つの作品よりも全体にまじめに取り組んでいる姿勢が見える。
自画像に一点イイのがあった。(左端の男性象)
佐賀に現存する洋館の前に老人を配した作品には、作者の居場所が見え好感である。服のデザイン画と服の展示はシンプル、センスのよさがある。黒い縦長の絵「海」。高畠輝子さんの大作、日本画、ポール・デイビス風な老夫婦の絵、平面的に色面分割した芸子、遊女のエロチシズム、木彫、絵本など、今後がたのしみ、おもしろかった。

 2005 / 3 / 1 ( TUE )

MoMAの改築

  MOMAの歴史と活動を見ていると、日本なんかとてもおよばないと思えてしまう。
 民間の美術館であり、しかもリリー・ブリスら3人の資産家の娘によって設立されている。彼女らのコレクション・セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチスら後期印象派の作品に依り、文化、芸術の必要性を訴え、寄付による運営資金を資産家に求めた。
 MOMA設立は1929年。設立者のアビー・ロックフェラーが自宅をあけわたし1939年にMoMAを建設(現在の場所)。
 ボクらが知ってる現代美術の系統図は初代館長のアルフレッド・バーが研究、図解したもののようだ。カンジンスキーはこれを評価しながらも「自分はいつも内面から湧いてくるもの描いているだけ」と系図化されるのを拒んだ。
 マチスが認められ花開いたのもMoMAであり、マチスは感謝感激の手紙を送った。
 ナチスはモダンアートを退廃芸術としバウハウスも閉鎖。アメリカはその逆で、多くの芸術家がヨーロッパから亡命、流れ込んだ。
 ハーバード大学にもバウハウスのヴァルター・グロピウスが招かれモダン建築を教える。そこで学んだ日本の建築家・谷口吉生さんが今回MOMAの改築に選ばれ、21世のモダンアートの殿堂に造り変えた。改めておとずれてみたいものだ。
 ジャスパー・ジョーンズを見いだしたコレクターでもあるMoMAの名誉理事・アグネス・ガンドさんは小学校の美術教育にも資金援助をされてる。
 「国語や算数も大切ですが私はアートこそが子供たちに豊かな人生を与えると信じています」とアグネスさん。
 ゆとり教室もままならず、こなせない日本はどれくらい米国に遅れをとっているのであろうか。
 猿と言われなくも文化、美術ごっこの域を本当に脱するのはいつの日か。

2005/3/2(wed)
麦踏み

天気がいいせいか知らないが、麦畑はどこもかしこも一斉に麦踏み。何回目だろう。
と言っても家族そろっての足踏みではもちろんない。緑の絨毯を耕耘機にローラーをつけてころころとたのしそうでおもしろいのである。
これが自然に見られるイベント的、現代アートじゃなくて、何が現代かっつーの?
大小様々な種類の麦踏み機とそれを操る人たちの出で立ちも色々あって、気になってしまう。様々な作業風景を写真にでもと思うのだが、身体が足りぬ。ダメでも後々立派なデーターになる。だれかやらん?中学生ぐらいからはじめると勉強もおもしろくなり、これでも飯食えると思うガネ。
麦踏みに限ったことではないが、よく思う、農作業風景を美術、文化、労働の観点から記録すべきだろう。
2005 / 2 / 25 ( FRI )
牛津赤レンガ館の「日韓交流展」

   佐賀の本屋には韓国語会話の本はあっても韓国語の辞典はおいてない。本屋に限ったことでもない、大きな石は残っても貴重な砂金がザルの目から漏れてる。おかしな町である。おおざっぱな個性のない町。住めば都も遠い昔のこと。
牛津赤レンガ館の「日韓交流展」を見に行く。
 赤レンガの内部空間がすでにNYのロフトやスタジオを連想さす歴史を内包さす希少な創造物に見える。
 その中に作品を置くとなると、事態は既成の美術館とは大きくちがいむずかしさがあろう。しかしそんなこと考えるよりこの場を制作現場としてやればイイこと、そんな作品が目を引く。
 森永昌樹さんはレンガ館内部の窓を作品にしていた。窓のガラスと鉄格子の間にひも状のプラスチックを詰め込んだ。ひもは氏がよく使う素材である。
 照明を落とした窓に白いひもの詰め物は梱包の箱を開いたときの状態でもあり、またひもの隙間から内部に漏れる無数の光がダイヤモンドのように美しく、窓を開けようとする前の段階ではたと立ち止められた状態であった。窓を開けなくても、このままでもイイや、と。
 コーナーに設置した太田朋江さんの和紙のオブゼというか、巨大な行灯。和紙は深い黒、群青、茶で着色され、かつ内部に電灯が仕込まれていた。コーナー以外の場所を使た方がよかったのではないか。
 仙人?さんもコーナーを使っていた。日常の情報の記号のビラがビニールの天井から床までのカーテンボックスにびっしり貼り付けられている。レンガと透明なビニール、紙切れがうまくマッチし、素材が面白いのだが、コーナーにあえてする必要があるのか。
 それから久留米へと向かった。ユメタウンの紀伊国屋で韓国語辞書3冊を買う。

2005 / 2 / 20 ( SUN )

  「大串亮平きらきら日本画展」
 
高校生のころの大串くんはよく仏像を描いてた。京都精華大にいって、佐賀では初めての個展。最初なだけに、力作でデビューしてほしかったのだが、スペース的にも小品の花ばかりで残念な気もあるが、気楽に楽しんで写生してる辺りは彼の人柄が見えイイんじゃないの。これからは引きつけたり、突き離したり、絵画の闘いどん欲さ冒険が強烈に求められるところだろう。遠慮、妥協はいらない。真っ直ぐに突き進めばイイ。

2005 / 2 / 4 ( FRI ) 「土師一也回顧展」

    2002年1月、69歳で亡くなられた。
 期間中には見にいこうと思ってはいたが、今日の佐賀新聞コラム富吉賢太郎氏の「有明抄」に惹かれて、はせ参じた。
 県美術館4号展示室はスゴイお客さんである。1000枚の自画像がずらっと並ぶ。観客は一点一点目をこらして見入っている。水彩、書、盲描写(目をつむって描く)と多彩。真摯に取り組んだものから遊び心まで氏の絵への想いが伝わる。
 その中で「5月22日の思い出」(?確かでない)と題した絵が気に入った。男女とおぼしき簡素に図案化された二人のパターンが鋭く線描された、線と茶の色面からなる水彩である。クレーを連想さす他と全く経路の違う作品が一点だけ?連作はなかったのだろうか。
 土師さんを知ったのは井手誠一さんを介してだった。もう2.30年前のこと。3年間で描き上げた自画像・千枚を1981年に「自画像千枚展」として白山画廊で開かれた。その個展を見逃していたボクは後に多布施川沿いの土師さんのアパートを訪ねた。
 作品でごちゃごちゃした寝間兼、居間兼、アトリエ兼用の四畳半にぽつねんと座っていらした。退院された後ではあったが、体調は思わしくないようだった。
 「呑まんね」
 缶ビールをだされたと思う。束ねられた千枚の自画像を間近に手に取って見たはずなのによく憶えていない。思い出すのは狭いアパートの仕事場の逆光の中にぽつんと浮かびあがる土師さんの姿。  「新郷土」1981年11月号・文化月評「美術」に土師さんの「千枚展」について触れた。それを本棚から探し出した。以下のように記している。

 ”多くの自画像を描き続けた一人にゴッホがいる。脇目もふらず一心に透視する世界の中で何かに出会おうするゴッホは、たえず自己を見つめている。耳切り事件前後の脅迫観念の錯乱状態にあったと思われる時期でさえ、外側から内側から客観的に自己をみつめている。そこには、危機の状態であった心の曇りはなく、逆に一心に自己を凝視する恐るべき画家の眼差しがある。生きるとは、ただ白けて惰性にいきることではない。生きるとは凝視し続けること、自分を包みこむ世界と熱っぽく出会うことである、とゴッホの自画像は語りかけているようだ。
 「土師一也自画像千枚展」(1981年・昭和56年、9月11日〜15日 白山画廊)にもそんな事を感じた。闘病19年を克服して、氏が三年間、毎日、描き続けた日記とも言える千枚の自画像が語っているものは、自己への到達、自己再発見と言うべき作者の姿ではなかったろうか。顔面をまさぐるような用心深い自画像から始まり、後半へかけて鉛筆の線は生き生きと走り出していく。中でも1980年3月ころの作品はは自己との対決がすさまじい。それは氏の恩師・井手誠一氏の死前後で、そこには、もはやそっくりに写生するという行為も千枚の苦行も見あたらない。井手誠一氏との出会いと別れが激しく交錯し、闘病にうち勝ち歩みだそうとする土師さんの開眼と決意がみなぎっている。”
 土師さんの後に中尾和紀個展 10/11〜15(中央画廊)本村克己個展10/10〜18(ギャラリー自画像)を書いているのも今となっては不思議な因縁である。
 25年を経て見る千枚の自画像は今尚新鮮だった。今だからもっと見えてくるものもある。佐賀であろうとニューヨークのダウンタウンのアパートで孤独と闘いくり返し描きまくる若い作家と重なる。1977年に佐賀美協を脱会とあるが、これも井手誠一氏に賛同しての選択であったろう。それからすれば千枚という行為は己への闘い以外にも佐賀画壇への挑戦状でもあったと今は思える。凡々とした佐賀の日本の美術状況への警鐘にも思える。その後福成良男さんと出会い結成された「エマ展」でも中心的存在であった。
 描くということのうれしさ、深さは千枚でも及ばぬ行為であろう。それをあえて課し実践した土師さん。描くと言うことがどれだけ底なしかとよく知っていらしたのではなかろうか。今回見にきている人々にそれが通じているようである。閉塞的な日常においてもいつの時代も人々は感動とウソのないモノを真実とする。看板掲げたどんな画家よりもスゴイのである。
 大入りの中ムーちゃん夫婦、ツンちゃん夫婦に会うだけでも普通じゃない。島良男さんの奥さんにも会う。「主人は昨年なくなりました。私にも誰にも告げず個展の準備をしていたようですが、間に合いませんでした」享年61。ご冥福を祈ります。
 取り憑かれたように人々や絵かきが引き寄せられてくる。土師さんの絵の力であろう。
 よくぞ展覧会を企画された。京子夫人と実行委員の方々にご苦労様と感謝したい。

005 / 1 / 26 ( WED )

写真の顔 風呂の顔

  白と黒。曇っていればほとんど水墨の世界。晴れならば光と影の白亜と漆黒。しかし時代は満目蕭条の雪景色とは違う。
一般市民の日常の姿、営みは時代、政治の顕れでもある。時として写真は絵よりも多くを語る。饒舌さをコントロールするのはブレッソンが言う、
「鷹の目で真綿のようにカメラを包みビロードの指でシャッターを切る」思想なのだろう。
 ロバート・キャパとアンリ・カルティエ・ブレッソン。ワーナー・ビショップと木村伊兵衛と土門拳。
ライカを通して切り取られた戦場や日常の人々の時間。
 生き生きと切なく、哀愁にみち、激しく力強く、湧いてでる笑みの虚空。 ゲーテ「ファウスト」の最後の言葉は「時間よ止まれ、おまえは美しい」。
 湯舟に浸かる。完全無防備である。西欧人は立ったままのシャワー。牛飼いやカウボーイは中腰で食事をとる。次の事態に備えるのである。
 島国の人たちもゆっくり湯に浸かり、鼻歌混じりとばかりはいかない。癒すつもりが、
ふと不安と向き合う。見えぬ未来を静かに見つめ呆然と決断する場でもあった。黒澤さんは死のうとした。首を吊った政治家もいた。
よって温泉旅館の男性一人旅は要注意人物と見なされる。肘を痛めたジャイアント馬場さんは水滴の落ちる天井を見つめプロレスへいこうと考える。
 ガンコおやじも明日はバカ息子を許そうと折れる。イチローくんも湯舟に肘をかけメジャーへいこうと。爺様は明日も遊ぶぞっ、と浪花節一つ。
 そして「ああ、気持ちがイイ」と何事もなかったように湯から上がってくる。
 湯舟に浸かるその顔をカメラも知らない。写真を撮る人の顔がそのまま風呂場にいる。集団的温泉の顔ではない。苦渋に満ちた孤高な顔であることを案外気づいていない。

2005 / 1 / 21 ( FRI )

漫画授業

  佐賀大の美術の生徒さん35人の授業をする。男子がわずか4人。最近はこのバランスらしい。
 「漫画の授業」をということだったが、「漫画とアート」の観点から、その関係を後期印象派、浮世絵、
 ジャポニズムからポップアート、村上隆までをおおざっぱにいろんな角度から話し、ディズニーにまで広げたかったが止めにして、
 CDの記憶の風景100点をスクリーンに映した。絵は口よりもものを言う。
 もしかして、みなさん、知らない作家や美術用語にとまどわれたのではないか、と説明不足の感あり。
 しかし、こちらからは、みなさん集中して真剣に耳を傾けていらっしゃるように見えた。それだけにこちらも気持ちよく、あっという間の80分だった。

2005 / 1 / 20 ( THU )

二母元型

  
 絵画におけ連続と反復、カンジンスキーの点、線、面。デジタル化はいよいよドットを限りなく無に近い点にする。
 ダビンチの「聖アンナと聖母子」。マリアの青いマントがハゲタカの形に見えるというところからフロイトは二母元型に見る母親へのコンプレックスへと分析を展開したが、今ではユングにより二母元型以外は間違いとされる。
 「レオナルドのハゲタカ幻想」も「ハゲタカには雌だけで雄はいない。子供を産むには、空中に舞い上がって膣の口を開いて風を受けいれる、その風によって孕むのである」しかし、それもハゲタカではなくトンビだった。どちらであろうと二母元型は不動ということである。
 ポール・デルヴォーの母は「自分以外の女はあなたを惑わすだけの女」と言い聞かせる。
 「あんたは橋の下で拾われてきたんだよ」冗談でも今は言っていけないが、そう子供のころ言われると泣き出しそうにどこかでもう一人の親を捜していたような気がする。世の芸術家たち、母親ありきである。父親はまずでてこない。

2005 / 1 / 18 ( TUE )

岡本太郎さん

  「種まく人」のミレーや美術の教科書にあったピカソぐらいは知ってた、かな。高校2年のとき県立図書館で初めて美術書なるものを借りて読んだ。岡本太郎さんの「今日の芸術}?だった?と思う。
 
 うまくあってはいけない。
 きれいであってはならない。
 ここちよくあってはならない。
 
 なんちゅうことをいう人だろうと妙に元気がでて、ちょうど東京オリンピックの後だったので「ゴールドメダリスト」という40号の抽象画を県展に向けて描いたら入選した。それからというもの「ヴェトナムの叫び」とか「芸術家の頭脳」とか太郎ばりのアンフォルメル表現をしていた。石膏デッサンはやりながらも抽象表現主義、ポップアートとやってはいた。そしてある日突然細密具象に戻り今の現状。何をやって来たのか。時間はないけど再度一から捉え直すしかない。
   「ヘッポコ絵描きセザンヌ」だとか、「素人画家ゴッホ、ゴーギャン、アンリ・ルソー」、「まずく描くピカソ」…と言い放つ太郎さんとは遥か別の地平に立ってしまっている。
 戦後も今も中学、高校の歴史教科書のトップに縄文土器の写真が当然のように載せられているが、それも岡本太郎の「縄文土器論」(「みづゑ」 1952年2月号)がきっかけであるとはあまり知られていない。それを契機に梅原猛や宗左近ら思想家は縄文文化へ目を向け、松本清張や司馬遼太郎も「縄文」の発見者は岡本太郎であると認めている。
「芸術は爆発だっ!」「これは何だっ!」太郎氏は一貫していた。
 西欧に揺れ新しさに振れ伝統を引きずり風土にズレ、閉塞するアート。何でもありでかたづけられれば事は簡単、だが。

2005 / 1 / 9 ( SUN )

  「黄美展」久光ギャラリーに駆けつける。最終日、作品撤去に和さん、龍ちゃん、田代さんらが勢揃い。真子さんがお茶飲んでお菓子を食べておられた。
 正月からみな力作を発表していた。龍ちゃんの水彩紙を裏から突き破って並ぶ小石の作品が好きだった。

2005 / 1 / 8 ( SAT )

阿蘇・九重

  坂本善三、案野見光雅、田中稔之の「阿蘇・九重の風景」(坂本善三美術館)
 表現スタイルの異なる3氏だが、スケッチ水彩には共通項がある。土地の風景を見るとき、気負わず自然である。
3氏に限ったことではなく誰もが自然の風景を前にすると同様にはなるが、抽象と具象の3氏は何かを確認するかのようでもあり、
3氏の見えざる側面を見たような気がした。やはりその場所を怠らずしっかり見ていくことのようだ。

005 / 1 / 6 ( THU )

田代利夫水彩展

   「田代利夫水彩展」(相知の交流文化センター)を見る。
 小品・ハガキサイズから色紙サイズの30点と言えど必見である。
 長く呼子の風土、イカ釣り船と向き合ってきた田代さんだから描ける世界であろう。下描きなしの洒脱な筆致と余白の間が独自のスタイルとして水彩画特有の爽快感を全面に押し出す。あらゆる絵画的要素を克服しているかに見える。白の意識が黒よりあざやか、同次元の紙の白と船の白を違えて見せる。
 水彩と言う素材と紙が作者にはやりやすいのか、しかし、油彩では「これでもか、これでもか・・」と格闘する。その両方が上手く融合しない法が今はイイと思われる。かように呼子(イカ釣り船)と水彩を裡に呼び込み得た作者には、不確実にもそのモノが見えてるはずだ。 
 佐賀の風景を生き生きと見せてくれる44歳。
 標本額に作品の紙を浮かした額装。一枚漉きを使えばもっと額にも合い、紙の素材がオブジェとしても見え意味性は増大すると思う。それと大きな紙になっても間延びするとは思えないし、大きいものも見せて欲しい。
 ただ多分、田代さんがアクチュアリティーを得られるのは油彩と格闘しているときだろうと思う。

2004年
2004 / 12 / 27 ( MON )

ジャポニズム

 日常のモノや商品、ロゴがそのまま作品となったり絵の中にかかれたりした。その現象自体ポップでありポップアートと呼ばれるようになる。
 ポップの起こりはロンドンが定説。直後NYで開花する。正にボクが旅してた60年代後半、ポップアートの全盛期。カーナビーツストリート、」NYのソーホーなどポップのきらびやかさはなく暗く音楽だけは激しかった。
 ロゴを絵の中にピカソもすでに描いてたし、風刺画のドー三エはすでに漫画的銅版画であった。一夜にしてポップアートが登場したのでもない。
 ジャポニズムの画家・ゴッホやゴーギャンやマチスやセザンヌにしても有田焼の梱包紙として使われていた浮世絵から新たの世界を見いだすのであった。役者絵は絵画でもなくブロマイドである。絵画の概念も日本にはまだない。権威の象徴的、装飾画、仏画が絵と言うものであった。
 大衆的なものはブロマイドで押し入れのふすまに貼るとか、その後はたき付け、尻拭き、茶碗の包み紙であった。(日本文化の紹介とあえて窯元の誰かがやったのか?)それを後期印象派の画家たちは絵画と並び称した。
 絵画に限らず建築もインテリアも工芸も日本に目が向く「ジャポニズム」として美術文化史に位置づけられた。
 今日でこそポップなジャポニズム期であろう。取り立てていうまでもなく世界は浮き世絵に見いだしたようなことを今もやってる。映画、ファッション、日本漫画、アニメ。漫画キャラをディズニーランドのごとく絵画化した村上隆はリキテン、シュタインとももはや異なる新たなテキストを提供しているかである。20年も経つとその辺の動向も形(ネオジャポニズム?}となって見えてきたり、あるいは、その外の形がジャポニズムになることもあるのだが、このところ日本人が外に対しても何となく自信を持ち初めているのもお金だけじゃなく、その辺りの構造が判ってきたからかも知れぬ。
 改めて「日本はスゴイ」と言うまでもなく、血肉となる自然さが新日本人でもあろう。
 海外の戦略と見なすよりも歴史的に見てもアート的感性が先行した動きである。
 何も知らず、日本文化に背を向け、西洋の芸術に傾倒しあこがれるというのも一面正しい、そしていずれ遠回りして足元とコラボレーションするのである。
 「急がば回れ」というには時間はかかるが、用は自分が育った風土以上に越えては行けないということになりそう。
 西洋を学び、西洋を捨て、再び足元の草の根を見るには早い方ガイイ。西欧人とて同じことやってるのであり、人間はしたたか。

 2004 / 12 / 24 ( FRI )

杉光定個展

   村岡屋の「杉光定個展」へいく。
 骨太の荒い大小の作品が並ぶ。スカッと明るい人柄だけに理屈っぽくないところが好感。

2004 / 12 / 11 ( SAT )

瀬戸口朗子個展


 前回の布をつなぎ合わせた白っぽい作品からするとカラフル。120号クラス3点と小品。都会的色彩の洪水。
ベースの白が全体に解放的で狭い画廊が狭く感じない。何をイメージしているかは判らないが、華やいだ街のビル群に見える。
自由奔放の中に迷いと思考の跡も伺え今後に期待できる。

2004 / 12 / 4 ( SAT )

塚本i猪一郎個展 久光G

 塚本くんの個展を二ヶ所。シルクと油彩。
 次々と愉快なおもしろい形を創り出し、個展もひんぱんだが、
 今回のホワイトとローアンバー系の油彩はさわやかな日常に重厚な時が刻まれているような、ちょと深刻な面を見せていた。

 2004 / 12 / 3 ( FRI )

東光会展とM展

  佐賀新聞主催の東光会展を見に美術館へ回る。入り口で昨夜の立て役者・田代くんがいて、デスクの西岡さんがいた。「昨日は何時頃になりましたか」。
 熱血御大がんNHKの女性ディレクターの取材を受けており、ばったり会ってしまい、いつもより念入りに作品を見てしまった。
 日展系とはいえ、全国規模ともなるとセンスのイイ斬新な作品が意外に多く、感慨を新たにした。
 出口で御大が「クジがあるから引いいてみてよ、どうせ当たらんやろうけど」。当たると出品者の色紙がプレゼントされる。すでに当選者4名の名前が貼りだしてあった。
 と箱に手を入れ取り出したるクジを開ければ、「当たり」。関係者一同、目を点にして、「うひゃー、スゴイ」しかし、絵かきの礼儀として、色紙は辞退したが、「宝くじ買ったらいいですよ」ときた。
 2階のギャラリーで直行教室の「M展」があってた。松原さんと高畠さんがいた。教室展にしてはレベルが高い。子供さんの作品もあったが、大人に負けてはいなかった。絵を愛するグループだ。
 ギャラリーを出ようとすると隣りのギャラリーの受付にまた田代くんが座っていたので、のぞいた。事前に行われた東光階主催の一般のスケッチ大会の水彩画だった。
 例年になく、今年の11月12月は展覧会がメジロ押しで、見切れないでいる。佐賀画壇が動きだしているのなら、おもしろいのだが。

2004 / 11 / 29 ( MON )

肥前刀展

「肥前刀展」を最終日に見た。平安から明治までの肥前刀の展開。日本刀ファンも以外に多い。観光バスもきていた。
 今回初めてじっくり見せてもらった。鋭い輝きの刃にコワクもなるが、複雑な行程を経て刀鍛冶ら職人によって作られる刀は美術品だ。
そうやって見ていくと刀鍛冶・忠吉一門の真摯な思いが刀の切っ先の辺りに感じられる。
 今回、日本中から集められた肥前刀を研ぎ、再び命をよみがえらせた研ぎ師・今川さんによれば、「あんな思いものを振り回せる訳ないよ」
とのこと、実際に持ったことないが時代劇みたいにはいくまい。
 北野武の「座頭市」では、チンピラが刀を抜くときそばにいた仲間の腕を切るとか、リアルだった。

 2004 / 11 / 26 ( FRI )

潮騒展 佐賀新聞G

杉光さん、竹下さん、北島さん、先崎さんが「潮騒展」をやってた。力あるところの展示ではあった。
その中で竹下さんの水彩「クリーク」の額が段ボールと角材の手製でユーモラスなのだ。
作品、「クリーク」も新たな展開で興味引かれた。絵に額を合わせたのだろうが・・、その辺りがたのしい。

2004 / 11 / 23 ( TUE )

日韓芸術人文化交流展

 9時35分に雅光さんが迎えにきてくださった。
 市立図書館前でスパスパやりながら5分待つとドアーが開いた。二階のホールで早速設営の準備にかかる。
 金子御大と森永くんがマイクロバスで博多埠頭まで釜山の先生方を迎えにいく。運転手さんはかつて個展をしたことがある園田さんの知り合いの大川のヤマウラ画廊の弟さんだった。
 12時に続々と絵画、書道、写真の作品40数点が集まり展示。
写真のコーナーが照明がなく、見づらく華やかさにかけ申し訳ない。絵画と交代しとけばよかった。しかし作品は見事。ボクの責任です。どう責任取ればよいか。
 3時に釜山のお客さんがマイクロバスで到着。チョーさん、キムさん、ウーさん、ペグさんらと握手、抱擁。40点の作品も両国の協力のかいあり1時間で予定していたホールのブースに治まる。
 6時大財の安くて美味い中国レストランで歓迎レセプション。
 韓国20名の総勢50名。来賓や両国の挨拶に続きグラス片手に「コンベイ」。
 次々に酒と料理が運ばれ、日韓の懇親がすさまじく進行する。ぎんぎらぎんの中国装飾の会場にギンギンドロロの料理がよく似合う。美味い、大量、客人も満足してる様子に安心。後半は手付かずの料理がどのテーブルにも残ってた。

2004 / 11 / 16 ( TUE )

 松原由佳個展 菊水堂

   このところクレパス、水彩をミックスした荒い絵肌のシュールな表現で西日本美術展、県展と入選、入賞と調子がイイ。
 元々、花の絵が好きなようで、今回は花の小品がぎっしりおよそ40点、展示されていた。
 実際に花を見て描いてあるのだが、岩の表面をひっかいて花を浮かび上がらしたような彼女独特の世界がある。
 来年のカレンダーもコピーして作り、その原画も展示してある。
 張り切り過ぎて体調を壊したり、悩み落ち込まぬよう、自分の世界を持っているんだから、これからですよ。
 

2004 / 11 / 13 ( SAT )

西村信行 詩誌「葉序」12号

   詩人西村信行さんが主催する詩誌「葉序」12号が届いた。
 掲載の「『詩誌「葉序』と』『作品航跡』ーおよび佐賀周辺の諸活動一端」が目を引く。
 珈琲やさんの「言葉の栞」にもあるように1977年(昭52年)から1999年までの佐賀市周辺での原発問題、市民運動、文芸、絵画展、個展、演劇、映画、音楽会、コンサート、イベントら文化活動が箇条に網羅されてる。この中には自ら命を絶った人たち、活動から離れた人、なつかしい人、故人の名もあり、正しく
 ボクラの青春群像と言うべき状況が垣間見れる。
 貴重な資料である。後々だれがこのようにデーター化するのだろうか?このようにまとめていただき感謝する次第である。
 当時西村さんは様々な運動、活動から小さな個展、美術館企画展、佐賀の人がする個展を県外にまで足を運んで丹念に記録、感想を書いておられ、
「いずれ、評論集、佐賀の文化活動記としてまとめられるとイイですよね」とぼくは信行さんと話したことがあった。その時点で、ボクは集めていた個展らDMを捨てた。(よく言えば西村さんに託した。)
 個々についての論評、感想までには今回、多分時間と紙面の都合上、触れられなかったと思う。そこはボクラの記憶を寄せ集めても埋めていくべきだろう。
 西村さんの詩誌の活動は水俣公害、反原発らを背景にあったと思う。一市民として書いたり、デモに参加したりと他を扇動することもなく極私的運動家である。
 体調を崩され1999年以降が途切れている。こうなるとその続きもやるべきである。新聞からこぼれたものもあるし、新聞から拾うも現実は大変な作業である。
 信行さんは確かボクより2歳下で、早々に県庁を辞められ、家業の古本やを継がれ、お酒には縁のない方だが、一緒の時代を見、聞き歩いてきた。
 今回12号は創刊号の吉岡誠二氏の「段丘に関するスケッチ」初め筆名村倉つゆきを止め西村信行の名で「桔梗ー終焉に咲く」「ほっぺたの棘に、うぐいす」の二遍の詩と上述の「『作品航跡』佐賀周辺の諸活動一端」」滝口修造へのオマージュ「形見のしずく」が収められている。これら1999年以前の作品。
 「体調もこういう具合で、ちょっと、続けられません」
 これにて終刊ということで、ボクも6号まで表紙で参加させてもらった、さびしい気もするが

2004 / 11 / 5 ( FRI )

野見山暁治展、ワイエス展」

  佐賀新聞社の「直行先生といく美術探訪,野見山暁治展、ワイエス展」に参加した。
 善三(故人)さんは明治44年小国町生まれ。ボクの父と同じだ。若いころ善三さんと10歳下の野見山暁治(現在83歳)さんはパリで親交かあり、「坂本善三美術館10周年記念」展に野見山さんが決まったようだ。
 お二人は10歳の年齢差があるが、共通項が多い。色調はグレーで、黒を大胆に用いる。生まれ育った風土を基本に西欧を消化さしてる。見えるものではなく、日常と美(芸術)との間で遊び探求する息づかいが破綻した骨太の線として痕跡をとどめる。そこに絵柄は抽象てきでも人間の会話ができる。日本的な雰囲気にポップがのぞく。勉強して克服したもの以上に自分をよくしっていらっしゃるよう。天性と言えば簡単だが、無くしたくない些細な自分の息づかいの周辺に絶えず問う行為である。その媒介に絵があって、何と素晴らしいことか。
 野見山さんのボックスオブジェ(工作)、ゴーフラージュ(お面)、スケッチらはばかばかしくたのしい。題名も「これはお荷物」、「つらよごし」、「バケの皮」、「ずっと待っている」などユーモア洒脱。
 一方善三さんは「風土」「構造」「空間へ」「形」「連体」など信念の人。
 
 熊本に入り県立美術館へ「アンドリュー・ワイエス展」。
予想を越えて良かった。水彩を幾つか見れればイイと思っていたのだが、水彩デッサンが、3室にぎっしり、これはもうけもの。ワイエスの20代の水彩から30代、40代のころの「クリスティーナ」から「ヘルガ」までの水彩、デッサンが網羅されてる。その数、百数十点。
埼玉の丸沼芸術の森という個人所蔵の300点弱の半数が展示してあるという。初期の作品を散らすことなくまとめて日本の個人が所蔵しているというのもうれしくスゴイことである。
 どうしても氏のテクニックに目を奪われてしまう。ぞっくとする業だ。87歳の今も毎日制作に没頭してるという。
 閉館前だったのか、観客は少なくじっくり胆嚢できた。もう一度は行ってみたい。
 1974年るーゑ一派(山口氏、西村氏、緒方氏)と日本初の回顧展「アンドリュー・ワイエス展」(京都近代美術館)と京都市美術館の「スーパーリアリズム展」
へ車を飛ばし馳せた。
 抽象表現にも限界を感じていたころだけに、目から鱗。
 一からやり直していたころ、井手誠一さんが善三さんを伴いやってこられた。
「ものを見る」ということについていろんな話しをしてくださって、「機会があったら美術展に出してごらん」と言われた。
 思いは果てしなく、野見山さんが「四百字のデッサン」でおっしゃるように「目の前の空間はぐるっと地球を一回りしてつながっている

2004 / 11 / 12 ( FRI )

海岸プロジェクトU

 東与賀の堰から川を見る。海苔舟が航跡を残し引き潮の河口を上っていく。佐賀で一番美しい漁舟の風景。
 舟さんの潟に回った。風が強い。舟さんはいなかった。作品が若干増えたみたい。
 さらに西のジブ棚を使った展示は美しい。満々と風を受け膨らんだとうばたはセクシーなカーブを描き
ポセイドンの風が止んだかのように震えさえなく不動なのであった。舟さんの姿にも見え動物的なのである。
 

 2004 / 11 / 12 ( FRI )

牛津のレンガ館

 牛津のレンガ館にグループ展を見に行く。櫻木淳子さんが受付にいらした。
仲むつまじくみなさんたのしんでいらっしゃるようだ。
 辛抱だろう。一人二人と減っていく、無理に穴埋めすることも救済も要らぬ。自分一人でもやってやるしかない。
2004 / 10 / 28 ( THU )舟さんの干潟海岸プロジェクト
川副のラーメンやで腹ごしらえして、広江の漁港から堤防沿いに東与賀のシチメンソウ公園へいく。
 天気良く、シチメンソウも紅く色づき、かなりの見物人が訪れている。
 さて、舟さんは今日も見あたらない。待てよっ、はるか堤防の西の方にかすかにオレンジのTバックらしきものが・・ちらちら、展望台の望遠鏡でのぞくと見えた。舟さんの作品である。
 メイン公園から三百メートルも西のはずれで、ほとんど設営を終えた舟さんが堤防の上から作品の全体を眺めていた。
 一般的にはインスタレーションだろうが、舟さんは今回このプロジェクトを何と呼ぶのだろう。
 堤防外の敷石の一角、幅20メートル、長さ100メートルの範囲に大中小の三角形(Tバック型)のオレンジ、白、カラフルな布、数十枚が単独や風車形に配置されている。
 天候の変化、強風、潮の干満ら自然現象が作品・今回のプロジェクトを制限する。空間はとてつもなく広く、巨大なコンクリートの堤防、長さ1,600m、幅10mのシチメンソウヤード、海岸に敷き詰められた岩石などそれぞれがすでに人工物の存在。
 作品に高さをもたせたり、大きくすることは、それだけ風の問題が生じ、破壊、危険度の防風対策が作品以上にかかってくるだろうし、今回は風を避ける方法として敷石面に三角形の布をはわせてある。本来はカイト、Tバック、翼、プロペラのように風に揺らぐのであるが。
 美術館では一杯になる作品もここではおしとやかである。それでも執拗に野外展示を行使するアーティストがここにいる。
 作者は「こんなバカなことして・・」とか「シチメンソウを引き立てようとしたのに負けたみたいね・・」とこぼすが、そんなことはない。
 かすかだが、風景にズレが起きてた。ぽかぽか天気のお陰によらず心弾み、たのしい、気持ちイイ。
 堤防上にアルシュ6Fを広げスケッチ。写真には収まりきれない。西に岸岳、太良岳、雲仙を臨み、そのすそのから輝く干潟が野外ギャラリーまで続く。口笛を吹き坦々とさも日常の茶の間の時間のごとく舟さんは残りの作品を配置していく。口笛が第九・喜びの歌に聞こえる。
 自然の造けいに人工物なり表現物があるとき、いかにそこに生物が必要であるかが伺える。人であり、キツネ、ネコ、野鳥など不可欠である。その時個々の作品が生きる、命を持つ。
 それには多くの観客がここまできてくれなくてはならぬ。しかし町の行政はこのような端っこを許可したのである。
 海岸アートとシチメンソウ祭りを対にしたイベントにしたなら、粋な町だと外からの評価も高かったはず。ただでさえ気の利いた役所ならお金を出してでも頼む昨今、舟さんほどのアーティストをほっとく手はないのに。
 見物人のお百姓とムツかけの漁師さんは、不思議そうに「とうばた(凧)ばそがんとこに置いて、何しよるとね」と舟さんに問う。「シチメンソウが引き立つようにしよるとですよ」それでも首をかしげ、「ははーん、嘉瀬川のバルーンのごとしよるとね・・?」「芸術なんですよ」ぽかーん・・?そして「こがんと初めて見た・・」。
 「ありゃっ!あそこでも絵ば描きよらす」と今度は堤防の狭い最上部を歩いてきてボクを見下ろす。そして小声で「一体、あん人は何ばしよらすとね」とマジで聞いてきた。かくかくしかじか「・・こんなことを世界中でたくさんしてこられた有名なアーティストですよ」と言ったが反応なし。ますます判らんといった様子で、「むつごろうが獲れんのも、こがなムダな堤防のせい、海苔の消毒薬もいかん、だいがシチメンソウてん言いだしたか、タダの草やろが、よそから来る者はよかかも知らんが、税金のムダ・・」とあらぬ方向に憤まんやるかたなし。そしてスケッチを見て「ありゃぁぁ、上手いやんね」その後ずっと沈黙、振り返れば堤防上にオヤジさん姿はなかった。
 舟さんの表現に理屈はない。自然然への調和同化であり見えないものを形にしようとする、あるのは子供のような好奇心であろう。
 この表現スタイルを何と呼ぼうなど舟さんには無いのかも知れない。
 それにしても最初の見物人のお百姓らは手強かった。芸術もアートも言葉に持たず、上の空のようで、やはり何かが気になるようで30分は見物していた。すぐに忘れるか、それともこんがらがった頭を引きずって家族に話し、そしてその家族が見物に来たとしたなら、してやったりじゃなく、自然な同化が成立する。クリスト同様、行政との交渉から見知らぬ人々が関わるまで全てが氏のアートであろう。
 海外でもかくのごとく、淡々と人と自然に溶け込みやりたいことをやってこられたのであろう。押しつけでも啓蒙でもない姿を半日のこの空間で垣間見せてもらい、夕陽は太良岳に沈んだ。

2004 / 10 / 17 ( SUN )

水田和夫個展

  
午後には片づけるという「水田和夫個展(菊水堂)」に駆けつける。
全然イイ。水彩、油彩の十数点。
 氏とは旧知の仲ではあるが、長い間ご無沙汰であった。小城出身、53歳。20代のころより画家を目指しデザイナーをはじめにいろんな職を歩く。
 氏の絵画魂は衰えることなく継続していた。密かに描き続けていたようだ。展示された全作品には絵を愛する「描きたい」という意志が静かに見てとれる。
雑草、港、田んぼ、化学工場、花、ブドウらが少しづつスタイルを変えて表され、テクニックの上手さも見える。
褐色の丘に立つ「化学工場」は氏が好きな松本俊介、靉光(あいみつ)を意識したと見えるが、さつばつとした現代の風景である。
 「水草」は抽象画に見える。重層する草の筆致は心の動きのように抽象的で、水彩画の斬新さがある。
ボールペンで書き殴った風景も重層性と紙のフラットさが小気味イイ。今後も注目の画家である。 
ちょうど会場へ酒を臭わせて水田さんがやってきた。23歳当時のスケッチブックが見付かったからと持ってきたのであった。
すさまじい勢いのスケッチ、デッサン、水彩がつまっていた。それに蓋をしてはやはり生きてはいけないのである。その見る目は今も新鮮に息づいている。ありがとう。  

2004 / 10 / 16 ( SAT )

ポール・デルヴォー展(福岡県立美)

 朝、2枚キップ¥2.000で電車に飛び乗った。
 「ポール・デルヴォー展(福岡県立美)」が明日までなのであった。
 シュルレアリストには入らないのかも知れない。主義、主張、半芸術性からは遠い。デッサンを第一義におく画家で、ペン、鉛筆のデッサン淡彩は上手さがが見て取れる。しかしそのデッサン力が大作に完全に生かされているとは見えない。デッサンよりは表面的に描かれているように見えるが、そこが絵になるおもしろいところではある。完璧なデッサンとおなじなら、あの薄気味ワルサはでないだろう。身内、知人、友人らを無表情の裸にし、子供の頃から好きだった駅舎やギリシャやローマ、トルコの宮殿にシンメトリー的遠近法で配置する。キリコの影響を受けたと言えども、色彩はデルヴォー自身が言うように北方のベルギー人として暗い色彩になってしまうらしい。バルールやメチエとしての絵画ではない配置構成することで、意味を喚起させる絵画である。かといって国家や人心に声を大にしていう意味合いのものでもなく、至極個人的領域のものである。その辺が他のシュルレアリストと異なる。
 裕福な家庭環境であったという画家にしては、うっ積するブルジョアの虚構をのぞき見的に暴く、反抗のエロスでもなく、開かれたエロスなのであって、見る側にエロチックさは伝わってこない、という不思議な絵。
 

2004 / 10 / 14 ( THU )

    江口彰展

 唐人町の久光ギャラリーにいく。「江口彰個展」の立て看板が店頭に目立つ。
ギャラリーに入ると女性2人とおしゃべりしていた江口さんは「よう!・・ひさしぶりやね」と破顔。
  照明を絞ったほぼ画廊一面に糊付けされた新聞紙が広げてあり、その上に氏のこだわり、ひらめき、因縁の品々が雑然と並べてある。
コンセプトアート、インスタレーションと言うのか。
 床上の作品をぐるっと見下ろし、たまに天井を見て、床と天井を同時に視界に入れ「たのしいじゃないですか」と首を立てた。
 気に入った表現は先に結論を言う。作品にも何にも触れず帰る個展が多い今昔。
 シニファーとメタファーの現代を言語化し記号化するのが氏のこれまでのコンセプトであったと思う。比喩と意味性は美術に限らず、
だからこそ見せ場(表現)であるのだが、現代芸術はそこを見よう、具体化しようと意味を問うドグマへと入っていくのであるが、
それも評論家、思想家、哲学者が目指すものであって、表現者はそれをちらっと横目で見ていくぐらいでイイのである。
 しかし、確かにそこでの言葉遊び、言葉確認、は感性だけでなくビジュアルな世界をよりミニマルな言語で見ようとしておもしろいのだが、
詩人でもなく色、形抜きに言語はない。文脈のシニファー、メタファーとしての確認作業にすぎない。
 今回、氏の饒舌さ理屈っぽさが消え、記号化された因縁のオブジェだけが日常的に意味合いを変え、見やすく、わかりやすくなっている。
置き換えるなら「たのしさ」と言う言葉である。
 床一杯に広げられた新聞紙の情報と時間の集積には最早意味はなく、意味があるとするなら新聞紙は氏自身のここ数年の自画像であろう。
 茶の間のちゃぶ台に置かれた新聞。おやじがいて新聞を開き、茶を飲み、テレビからも、お隣からも情報の原語は耐えない。
 そこまで臭ってくるような日常性は美術にはいらない。美術は日常であっても生活ではない、でっち上げなのである。
「芸術と生活の間で行為する」とはPOP前期のラウシェバーグの言葉だが、ポップは下衆でもなく、「たのしいもの」。

2004 / 10 / 4 ( MON )


   県展。」洋画は審査員の選び方がでていた。励みになることだろう。
 由佳さんの唇の作品はモニカヴィティーの「唇からナイフ」を連想するんだが、知らないだろうな。まぁっ、堂々としていてよかったよ。
 見る分には写真がおもしろかったけど、祭り、海外、植物、昆虫、子供など申し合わせたようにジャンルがはっきりしているのは疑問。こんなものかな?珍しくバルーンの写真は1点だけ。
 一席も一点だけで、出品者は大変だよね。
 工芸は柿右衛門さん、井上万萬二さん、庄村健さん、今右衛門さんらが一般でいつも出品されてる。賞を取ることはなかろうが、エライ。でも他の部門と同列に比較検証するのは辛い。
  

2004 / 9 / 9 ( THU )

[兵頭健吾遺作展]

その足で小城中央公民館の兵頭健吾遺作展へいく。3階ホール一杯に大作が並んでいた。
郷土を愛し石本秀雄さんの流れを汲んであるのが判る。
金子さんや和さんたちから、一日で何とかうまく展示できたと聞いてはいた。
受付に元、菊水堂にいらした古川さんがいらして、金子さんのメンバーのお陰よと言っておられた。
 

2004 / 7 / 28 ( WED )

 「美術館はタイムマシーン」

  9時半の開館の合わせて美術館へいく。
 「美術館はタイムマシーン」。タイガー立石の作品があると聞いて見逃さないうちに押し掛けた。客はお姉ちゃんと二人だけ。それに見張りの受付のおばちゃん、ガードマン。夏休みの子供向けの企画だが、作品の数も少なく見易く面白かった。中穴。
 周幽斎夏龍(しゅうゆうさいかりゅう)の「耕織図屏風」(江戸時代)は農民の暮らしの四季が農作業を軸に描かれている。そこで気付くのだけど、男も女も子供も全員、下っ腹が膨らんでいる。ビール腹なのである。病気にも見えないしビールもないから米腹なのだろう。やせ衰えて死にそうな人物がいない。米には事欠かなかった時期なのであろう。江戸のころよりビール腹なるものがあったわけで、現代人も何も飲み過ぎ、贅沢腹と己を攻めることもない。その点でありがたい風俗画である。
 タイガー立石、の作品は初めて見る。巨大な「明治青雲高雲」「大正伍萬浪漫」(田川市立美術館蔵)の2点。遅れてきたポップアーティストというべきか、日本美術のどこに位置づければいいのか。漫画的、看板的、風呂やの富士山的、見世物小屋的、ラベル的、シール的であるだけにポップ。明治、大正のポップな事象のコラージュ。作者にとってはオマージュであろう。歴史絵巻のようで、そうではなく、コレクションしていた土産の栞をばらまいた時間の断片記のように見えてくるのだが、・・。細密描写じゃないけれど、ここまでしこしこと晩年に描いてるところが見物。この苦しさも楽しさもにじまぬ不思議な魅力は何だろうと思わせる見世物である。
 

2004 / 5 / 13 ( THU )

 AIS展(佐賀県立美術館)

  平井潔 この会の発起人でもあり、退会者、入会者をずっと引っ張ってきたリーダーである。彼なくして、この会はなかったろう。それだけに毎回、代表としての力作を発表している。
 今回は大作ではなく、例のクラインブルーと銀を駆使した流動的な小品群として気楽に流したようだが、一点一点はさすがに充実していた。
 陣内敦 自然界の色のオマージュであろう。素材、手法を常に意識しているようだ。表現も見せ方も技巧派ではあるが、一点の作品として見た場合、耐えうるかと思った。
 甲斐真二 一貫して色彩を光の点として捉えている。ややもすると図案的に終わりがちだが、今回の三原色、三光色を円運動にからました手法は成功している。光学的である以前に基底材である布にからまる絵の具の筆致がリアルで素材としても美しいく、平面を空間になしえた。
 大江良二の床から天井まである大作。初期のころより白い空間に緑、青、褐色、黒らのパートで構成する心象風景ではあるのだろうが、どこへいこうとしているのだろうか。平面の広がりは俯瞰的に増殖する現代の地図のように見えたのだが。
 太田朋江 染めた和紙のコラージュ。レリーフ的タブローのなごりは残るが、立体から最も遠い2次元の紙を平面として捉え直そうとするのか。和紙は染められ、最早、紙でもなく、壁面よりわずかに浮いておかれている。作者は色のコンポジションが好きなのであろうが、「実はあれは鉄板だった」と言う発想も持ってイイのではないか。
 森永昌樹 虚と実、裏と表、物体と平面など論理的に展開している。上手いし判るんだけど、全てあったもの。本来の己の思想が、美術や理論の影に隠れ過ぎるのではなかろうか。
 中島節子 いつもすごくエネルギッシュな人だと思うが、空転しているようだ。理論に日常の触覚を組み込めば楽になると思うんだけど。
 瀬戸口朗子の淡い白の作品5点は展示空間にぴたっと合い、しかも、壁面と拮抗し、壁面より突出たキャンバスの数pの厚みを意識させられた。日本画的な時間の集積に見えながら宮崎大治郎の線のスクロールに通じる手が目になったような世界をのぞかした。発展途上である。
 全体に洗練され違和感無く見られるのであるが、自由さ奔放さに乏しいのではないか。いづこも抱える問題ではあるのだが。現代と言う枠にしばられている感がある。
 「現代」は直視しても「現代美術」と言うメタファーな概念を棄てきることだろう、とボク自身にも言い聞かせるのであった。

2004 / 4 / 7 ( WED )

「香月泰男展」山口県立美術館
田中一村展」博多三越9階ギャラリー

 香月の「シベリアシリーズ」全57点。一村の一連の「奄美の杜シリーズ」は確かに圧巻である。 
 両者とも亡くなるまでの50代後半に充実した仕事をしているようだ。
 客観的かつ冷静に見ればお二人共、雑念を排除した無垢なる自我への祈りとも見てとれるのだが、
現在同じ年齢のボクが期待していた、見たかったスゴサは弱かった。
 この年齢になってやっと回りを気にせず巻き込み一心に自我へと邁進する作家の姿は判るのだが、自分も含め悲しさが先にくるのであった。
 初期には迷いながらも手当たり次第に、身の回りにある小道具、草花、昆虫、動物、取り巻く自然の風景を執拗に描きとめ、生きるべき足を着ける場を探しているかのようで、作品的には途上にも見えるが、漕ぎだした自転車がたおれぬよう、描き続けるしかないのである。かえって、その時期の姿に好感は湧く。
 二人とも中央には背を向け生活するその土地を悔しいほどに愛している。それが見えて来たとき、背負っていたり、からめたり、引きずっていた諸々から
解放され信じる自分が見えてくるのであろうか。古今東西の作家にもそれ伺える。
 表現者、創造者とは言うけれど、所詮一人の人間。きれい事と真実の差異はあるのか。人はきれい事を求める怪なる人間と言ってしまってイイのであろうか。
 名前ぐらいしか知らなかったダダイスト「中原中也」記念館は日を改めて行ってみたい。まずは本を買おう。

2004 / 3 / 21 ( SUN )

 
 「手でふれて見る作品展」
 子供から成人、プロまでの彫刻、立体作品。
 手で触れて、おもしろく、たのしい、創造のたのしさがあふれていた。

 「ハチロク展」
 県内外のアマからプロまでの作品のオンパレード。富永將暉さんの自由奔放な書と小野天山さんの立体が目を引く。
 コンパネに自身の横顔を段階的に切り抜き黄褐色に着色、躍動する人体のように組んである。デュシャンの「階段を下りる花嫁」にヒッチコックが現れたと言ったところか。小野さん元気。
 「うらら展」佐賀大の美術の在学生と卒業生のグループ展。
 布をつなぎ合わせた平面作品の瀬戸口朗子さんと陶オブジェの瀬戸口陽子さん姉妹は形態以上に会話しているような彩が独特。
 下川小百合さんの忘れがちな日常も魅力な不思議さ。これからもっとはじけそう。
 ただ女性の場合、多くが知らぬ間に姿を消すと言う佐賀段階がある。
 

 2004 / 3 / 14 ( SUN )

 宮尾正隆 退官記念展

 宮尾正隆 退官記念展(県立美術館)。
 過去、単品で見ることはあったが、80点もの大壺,大皿の展覧は壮観で一人の作家の姿を浮き彫りにする。ろくろの円運動に手のひらの上下運動が加わり、形が生み出される。宮尾先生のいつも笑ったような面構えと結びつかない凛とした造形ではある。女体の乳房や腰を連想する暖かみもある。すけべな、いや、色っぽい人である。
 ’91年作の「朝霧」は女体の腰がせり上がるような大器で、上部のグラデーションがかったブルーラインが限りなく美しい。
 ’78年作の「峰雲」は淡いブルーグレーで、器の表面から霧が発生しているように器の表面位置が定かでない。不確実な物体Xと言った感じで、15pぐらいの深さの内部が底なしの井戸にも見えてくるのであった。作者の意図ではなかろうが、焼き物と言う次元を越えていた。
 退官後もふる里・宮崎にお帰えりにならず、ずっと佐賀でろくろひいてください。
 
 佐賀北高校芸術コース(美術)卒業制作展(県立美術館)
 担当の先生が交代され、全体のカラーも変わってきた。
 美大受験が目標だから石膏、鉛筆デッサンに終始し、個々の特色を出すのはむずかしいのだろうが、グラフィックデザインが増えたりと愉しんではいるようだ。
 男子生徒の一部に感性の強さが見えた。
 

 2004 / 2 / 5 ( THU )

薬師寺太一個展

  薬王寺太一と言う聞き慣れない名前の人から、個展の案内状がきてたので、唐人町の久光ギャラリーへいってみた。名前の響きからして年輩者かと思っていたが、28才のお兄さんだった。若いのに60年代の臭いのする絵画、オブゼの展示で、荒削りな魅力があふれていた。土に興味があるらしく、テクスチャーにイイセンスが見える。ものを創り出したくてたまらないという時期のようで。媚びたりけれんみがないところに、将来性を感じた。内に秘めた佐賀では見ないタイプだ。この後イタリアへいくそうだが、どん欲に放浪してきて欲しい。

2004 / 1 / 21 ( WED )

瀬戸口朗子個展

 風車が屋根に乗った建物が見えてきて、寄る。前から気にはなっていた建物。そこで瀬戸口朗子さんが個展をしているのであった。恐る恐るガラス戸を開ける。彼女が退屈そうにカフェのカウンターに座っていた。そこへ大治郎先生まで現れたからびっくり。絵画教室へいく途中だとか。
 一見清純そうできゃしゃな瀬戸口さんが、男性的な元気な大作を描いているところが、素敵だ。ここまでやる女性はとんと佐賀では見てない。このパワーでどこまでやるか楽しみに応援したい。男女均等であったか、失礼。  
 

2004 / 1 / 7 ( WED )

デビッド・ホクニー

 興味ある展覧会はないか、県外を探すが、福岡県美のブルーナをのぞいて見あたらない。ふらっと入っておもしろい展覧会だったと言うこともあるから、まずは出かけることかも。しかし、向こうから匂ってくるような展覧会がない。
 ロンドンの安フラットにジムと住んでいたとき、これまたジムが週刊誌をもってきて、「この展覧会はすばらしい、ハットリさん見にいったら」と言うので地下鉄に乗って、どこで降りたか忘れたが、ホワイトチャペル画廊に入った。
 デビッド・ホクニーの「プール」から「公園」までの初期の大小の作品群の展覧であった。
 まだ日本では知られていない売り出し中のホクニーなのであった。プールと公園の作品に心洗われ痛く感動した。従来のガサガサ、どろどろした具象とは大いに異なる、スカットしたカリフォルニアの青い空であり、スナップ写真のような人々の日常なのであった。
 アンディー・ウォーホルはアーティストかペテン師かと物議をかもすほどに有名だったが、ボクにはホクニーの方がすんなり受け入れられた。それからと言うもの日常がホクニーの目になっていくようで生き生きと見え出すのであった。
 冴えない、くたびれた何もない日常や風景の中に落としもの、なくしたもの、見落としているものを気長に今年も探すとしよう。
 ところで、ジャスパーもホクニーもすでに京都芸術賞に選ばれているが、ボクはどこかあまりよろこべないでいる

2004 / 1 / 6 ( TUE )

ジャスパー・ジョーンズ

二十歳のとき、週刊誌でジャスパー・ジョーンズの「ターゲット」を見て、研究所でデッサンばかりしていることが、揺らいだ。 絵にかいた標的だが、ぐさっと何かに腹をえぐられる感じがした。ポップアートへの変わり目に位置する抽象表現主義。ポロックのドロッピングは石橋美術館で見たことあったが、ジャスパーは初めて。日本ではまだあまり紹介されていなかったのである。
 外国へいってみたいと言うあこがれは、そのとき実現へと開示されていったようだ。
 ポロック的抽象表現のテクスチャーに加え、ジャスパーは平面であるアメリカ地図、数字、標的をデッサンするのであった。ポップな感覚から選ばれたターゲット(モデル)は子供のころから慣れ親しんだ品々でもある。
 マチスが絵画的空間を平面化したのとは逆にジャスパーは、平面にエンコスティック(蜜蝋)でデッサンしていき、重層な平面のテクスチャーを見せた。重層な平面は言い換えれば、立体、新たな絵画空間の見え方なのであった。
 ジャスパーのマネはできても、自分の絵に取り込むことはできないできた。それが無理だとやるべきでないとずっと以前に解った。
 しかし、ものを見るとき自分のなかにジャスパー的絵画感がかなりの割合で占めているのはホント。
 ひょっとして絵画として扱われない「記憶の風景」にジャスパーの影が落ちているとしたらおもしろいのだが、ひょっともひょっとこもないだろう。
 

2003年

 2003 / 12 / 3 ( WED )

長友心平個展

 長友心平くんの個展(久光G)に行く。
 長友くんはしっかりアートを楽しんでいる。似顔絵とは言え地域住民のポートレートをカメラでなく描くことでとらえる。
 「描かしてください」と訪問もして200人のポートレートを展示している。
 準備段階からコミュニケーションと言うアートを起こし、会期中もお客を描きつづけることで、作品を増殖さし、会場が日々、変化する時間をも記録しようとする。
 最後には作品をすべてモデルに戻(プレゼント)して終わらす。プロジェクトもアートにするクリストのプチ版にも見える。
 そこから地域が見えてくるかも知れない。何よりも似顔絵と言う親しみのあるスタイルで街往く人を参加さしてし(巻き込もうという目論見)まうところが、おもしろい。(おやじたちは発想しても実行すまい)
 街頭の似顔絵屋や遊び感覚に見せてはいるが、彼の軽快な作品群は現実の風のように魅力的で技術的にも途上の進化を歩んでいるようで、根本には現代美術・彼の思想が抜け目なく仕掛けられている。珍しく思想をもったクリエーターである。
 

2003 / 11 / 28 ( FRI )

チェズの手紙

 オーストラリアのチェズ・ベーカーからレターと個展の写真が届いた。ブリスベンでのインスタレーションである。2000本以上の布のベルトを縦横に編み、画廊の柱、床を細いベルトを面に変え覆っていた。女性とは思えぬ体力が要ったろう力作である。
 チェズとは初対面から片言の英語で「何を考え、何をテーマとしているか」を話し合った。言葉だけでない似通った現代の捉え方の共通性が言葉を補ってくれた。
 それはこうだ。「時代に押し流され、見えなくなっていくもの。その中での自分のシチュエーション」。狭いアトリエにあった作品からそれがまず見受けられた。焼いた板に針金や金属の部品が貼り付けてあった。斬新さは感じなかったが、通るべくして抜けていくだろう課程のコンセプトがあった。
 何度か車でボクを目的地へ送ってくれただけなのである。夫のポールはゴルフ場の管理人。ヨットをもっていて乗せてくれるはずだったが時間が切れた。子供は9才のアレックス。その間でアーティストとして表現を捨てない。片手間にも見えるのだが、どんなとこであろうと、表現を停止しないと言う強い意志が他の誰よりも勝っていたように見えた。それは作品にとどまらず彼女の瞳の奥に感じられるものでもあった。ドイツ系かスペイン系の無表情に近い顔つきだが、冷たさはなく、言葉を感じ取る感性もすぐれていたように思われる。
 今回のインスタレーシィンは見ちがえるように逞しく進化している。広く知らしめたい気持ちも解る。表現の後先に日本のボクを感じてくれたのはうれしい。
 ボクらとの交流を通して得たものを表現に生かし、前夫との娘は結婚してロンドンにいるが、また今度はニューヨークへいき、新たなインスピレーションを得たいとある。いつでも来てください。歓迎します。とアレッックスが自転車で遊ぶ写真も添えてあった。
 オーストラリア人の大半は離婚して、2度目はパートナーとしての関係を保つことでうまくやっているようである。

2003 / 11 / 29 ( SAT )

林田龍信/中尾和紀展

 昨日、小城公園へいった。公民館だろうと思って入ったらちがう。近くの新しくできた多目的な桜城会館というところだった。2階にあがり、おそるおそる「林田龍信、中尾和紀・二人展のギャラりー」に侵入。薄暗い空間に映画「暴走列車」のジョン・ヴォイド風に帽子をかぶったお客が一人絵を見ていた。
 入り口から奥の方へ龍ちゃんの作品がならんでいた。紙にデッサンの手法は相変わらずだが、その空間を石膏や和紙により変化させようとコンバインされている。しかしもたつきとなって挿入部が見えてしまう。
 20代のころの彼は規制をはみ出すポップ調のカマを振るような色と線がスピードとリズムをもって躍動していた。ポップの第一人者になるのではと密かに思っていた。
 彼が信じる道は、第三者の目とは違っていたのかも知れない。しかし、スタイルはちがってもやはりははみだし、打ち消しのトポスに立っているのは今回の作品を見ても変わるものではない。もののディテールを見ることで、自画像のように過ぎていく時間、焦燥する現実を埋めようと凝視する手は止めずに来たのではあろうが、どうしようもなく存在する血肉でもある思想(テーマ)から逃れも目をそむけることはできないだろう。掘った穴を埋めようとしても埋めきれない、それが林田龍信のアイデンティティー・自画像であると思う。教師に没頭する時間が長かったのかとも思われるけど、いや、まだ時間はある。そこは言わずとも本人が並べたときに見えたことであるはずだから。
 そのアイデンティティーを挑発するように向き合って壁に並んでいるのが和ちゃんの作品群である。その意味でも今回2人展を思い立ったのではなかろうか。
 ほとんどが過去に拝観した作品ではあるが、和ちゃんの色と線はかつてが自然?ならばその後意識的?にさえ荒ら荒らしくなっていったか、さえに思われる。小城の地でこうして見ていると、中高大と同じ道を歩んできた同胞に向けられていたのか、と一瞬脳裏をかすめるが、彼の怒りを沈潜内蔵させた表現(思想)は我らへ向けてでもあり、やはり現実の世界へ向けての声なのであることが再認識させられる。
 また、彼は最近小城と言う青春期を育んでくれた場所を描いているし、今回はスケッチブックをもって汽車の中に立つ龍ちゃんも描いていた。それから見ると外へ吠えるだけでなく、内省的に自分を見ようとしているようにも思われる。
 しかしその節目、ボーダーは本人でも第三者でもなかなか解らないものである。読みがちがっていても読んでいけるからおもしろいと言うこともできる。過去と現在でどちらが自然だったか、作為的であったのか?最初から自分が見えていたのか、後半に逆に自分を捨て去ろうとするのか?それらさえも定かでない。たえず防波堤に打ち寄せる波のごとく反復するのではなかろうか。
 二の作品を見ていて「揺れながら、ぶっつかりながら行こうじゃないか」と思ったよ。先客のジョン・ヴォイドとおぼしき帽子の男は、なーんだ、龍ちゃんだった。

 2003 / 9 / 27 ( SAT )

江口彰 個展

江口彰さんの個展を久光ギャラりーでみる。矩形の画廊の床と壁面の一つを使って、三点が展示してあるのみ。壁が余っている。すっきりしすぎって、ついつい「あれ、これだけですか」と言ってしまった。けなしたつもりはもちろんない。床に敷かれた白い2メートル四方のフェルトペーパーのうえに江口さんが家の周辺で拾ったと言う部分的に着色された大小の木片(枕木、朽ちた木、折れた木の幹等)が無造作においてある。こうして置くことにより、見捨てられていた木片に視線がそそがれ、何だろうと観客か注視することで、木片は改めて表情をもち、意味をみいだす。一種のデュシャンのレディメイドやディペインズマンなコンセプトであろう。江口さん的に言えば記号論と言うところか。浜辺で拾った流木のような時間的な付加の美と対極にあるタダの木片。それをどう見せるか、どのように見えるのか、に作者の狙いはあろう。現実に少なからずズレを起こすことで現状を再認識しようとする行為、作業なのであろう。まず白い紙の上に置かれた木片たちが意外にもきれいなのである。3点に込められたメッセージはわかり得る。江口さんも懲りずにしつこく現代美術を思考し、実践する人である。

 2003 / 9 / 26 ( FRI )

ニューヨークの次郎長


 福山雅治が「ボクシングペイント」をやる飲料水のCMを見た。福山の隣りでえらく堂に入ったボクシングペイントをしているおっさんがいる。
 それもそのはず元祖ボクシングペイントの牛ちゃんこと篠原有司男ではないか。牛ちゃんは20代のころ白黒のテレビに登場してボクシングペイントを見世物にしていた。それを高校生のボクは見ていた。日本で暴れ、ニューヨークに渡り、そこでもニューヨークの次郎長として暴れていた愛すべき世界のアーティストである。
 やはりテレビが好きな、売り込み好きな牛ちゃんなのであった

2003 / 8 / 10 ( SUN )

セミの作品 花火が見たい

     磁場展に出す作品作りをしていた。張りぼてにセミの抜け殻をボンドで一匹一匹くっつけていくのだが、荷札の内職のように1円にもならない。ただひたすら張りぼてが見えなく    なるまでくっつけていく。それも抜け殻だけに簡単ではない。嫁さんにも手伝ってもらい2本のセミ塚を作る。大川の花火を見にいくのでそれまでにはと急いだ甲斐があった。
     早津江までいくと突然車が渋滞した。みんな花火を見に行くくるまであろう。開始までまだ2時間もあるのにこれである。われわれもも願わくば、会場近くの駐車場へと向かう     のだが、当然無理な話。結局遠回りさせられて河川敷駐車場に到着したのは、開始30分前。広々とした河川敷の北の方に花火のクレーンが5,6本そびえ立つ。敷物を広げ     気ままに食事をしている家族連れが多い。常連さんたちであろう。意外といい場所かも知れない。
     8時ジャストに花火があがる。大きさとイイ、音とイイ申し分ない場所だ。草原に新聞紙広げ、寝転がったり、仰向けになったりして夜空の花火をため息と感嘆をもらし見上げて    いた。花火も大型化して、尺玉のオンパレード。形、色彩もさまざまで、かって見た花火とは大きく変わってアートである。中国の火薬アーティスト・祭国強を思う。上海都市を使っ    た花火パフォーマンスの後半「竜が暴れ出した。やっとアートになってきた」とよろこんで喋っていた祭国強。
   心地よく、スカッと腹に響く大音響、刻々変化する大輪のアートを今宵満喫した。

2003 / 8 / 8 ( FRI )

広島巌 個展

 広島巌氏の自選油絵展・人間模様を見に県美術館へいく。4号室入り口通路に置かれたお祝いの花の多さに驚いたが、展示室に入って、また驚いた。過去30年のグリーンを基調にした200号、300号の作品がぎしり40点はある。100号だけでももう一回個展ができるくらいあるとのこと。回顧展と言う形で新作はないのだが、これだけ一堂に展開されると、広島氏に薬を一服もられたように広島グリーンの空間に包囲されてしまい、軽いめまいさえ憶え、「もっとぶってぇ」状態で、完全に氏に罠にはまってしまう。恐ろしくも偉大なるSM男である。氏のグリーンは自然の草木の緑ではなく、陰部の茂みであり、猥雑に不安定なのだ。
 モネの睡蓮の美術館に鎮座し、あたかも睡蓮の空間にいるように心癒されるトリックもあれば、広島氏の罠も氏の真骨頂である。
 場末のバー、ストリップ、武雄温泉入浴などの女性たちが戯画風に淫靡にグロテスクにうごめく。単に客観的な経験、体験の表出とは思えない現実を語っているのではないか。

2003 / 7 / 27 ( SUN )

坂本善三美術館

 大分道は何度も通ったことあるが、そこから熊本方面に入ったことはなかった。山ちゃんの言葉の栞を見て、小国へいってみようと思った。日田インターを降り天瀬へ行く桃山から右に折れ小国へ向かった。小国へのロードは久住連山のしわ寄せ地帯、山あり谷ありの深い山懐を抜けていき、その風景のダイナミズムとスケールの大きさに目を奪われながらのドライビングである。 
坂本善三美術館は樹齢6百年の夫婦杉がある神社の隣りにあり、直ぐにわかる。民家を解体移転しここに建てたものらしい。館内に入ると、すべて畳敷きで、い草が匂う。むき出しの梁や柱を生かした民家風な美術館といってイイのか、料亭みたいでもある。畳に寝転がって善三さんの作品を見ていた。
 善三先生はここ小国の出身なのである。ボクが抽象を止め振りだしへ戻って写実画をやりはじめていた27才のるころだった。道路から誰かが明かりの点いてる二階へ向かって大声で呼んでいるのだ。「大次郎くんおるね」窓を開けて見ると井手誠一さんではないか。
 二階の仕事場へ上がってもらうと、なんと井手さんといっしょに坂本善三さんの姿があった。感激だったが、作品を見て何を言われるかと、神妙になてた。しかし、作品の現実的な話ではなく、少しお酒も入っておられるようだったが、鋭い眼差しで、ヨーロッパの話しを交え、生き方についての内容だったと思う。今思えば、小国の山の深さであり、どこに足を着けてやるかと言うことが見えてくる。外堀を埋めていくような語り口に何て、本物はスゴイとただただ泣きそうにうれしかった。「ぼくも職人になろうと思ってる」とぽつりと言われ、「何かあれば、出してみるとイイよ」と帰られた。
 第三回ユース佐賀美術展に細密具象の「机におけるランドスケープ」F100をだしたら、特選。三週間のヨーロッパ旅行、副賞10万円。
 あったいう間に時間は過ぎていく、お二人とも故人であり、井手誠一さんよりも長く生きてしまった。
 美術館をでて街へは戻らず中津江村へ向かった。山また山を越えていくと中津江村役場があった。通りに人気はない。もうあれから1年以上がたったからね。このまま帰るわけにはいかず、うろうろしてたらカメルーン・ライオン軍団が練習したグラウンドとりっぱな施設があった。各地の高校生が合宿しているようで、明日のJリーガーが練習試合をやってた。鯛生金山に寄り熊本に向かうがどこまでいっても山、ホントに平地へ降りていけるのか、不安になる。すれ違う車さえなく、断崖の狭い道。
 やっと人に会う。山頂崖のわき水を汲んでいるのであった。ボクもペットボトルに汲んで飲む。うまい。うまい。
 座敷のギャラリーの寡黙なグレーの作品、それに6百年を見てきた胴回り6メートルの夫婦杉。虚栄もおごりもそこにはいらず、森羅万象、おろかにたたずむ自分が見えた。
 

 2003 / 7 / 25 ( FRI )

「美術館はふしぎの王国」

昨日クリニックの帰り佐賀県立美術館に寄った。緑光展を見に行ったのだが、「美術館はふしぎの王国」という子供を意識した展覧会があってた。昨年に続いての企画展である。
 美術館所蔵の作品の中から奇妙なる絵画、彫刻、焼き物、発掘出土品をセレクトして展示してある。天福寺所蔵の地獄絵図、5点がボクには興味であった。人間の串焼き、裁定を下すえんま大王、綱から落ちれば熱湯釜、人間の尾骨にキリで孔をあける鬼など、怖くもあり、おかしい。見世物小屋の看板に欲しいところだ。
 「・・ふしぎの国」?と感じるにはもの足りない。ふしぎだと思う間もない。作品が少ない。子供たちにはどう写るのだろう?照明を暗くするなど、仕掛け、誘導もあってイイのではないかと思ったが、隣りの部屋では20人ぐらいの子供たちが展示物を描いたり、していてほほえましい光景である。美術館も変われるものである。 これからももっと子供も大人も親しく触れあえる空間になっていって欲しいと願うところ。
 うちの近所には元々子供がいない。若い夫婦が住んでないから。そいでもって、虫捕りしたり、遊んだりする子たちもなく、ラジオ体操もなく一年中何だか解らない日。うちの子たちも大きくなって、出ていってしまい、子供から見える、風景、時代、季節感と言うものが全く喪失してる。ここは大事なところだ。
 ボケるの老けるのとボケても老けてもいない大人たちがが勝手なこと言ってるけれど、子供の見える風景や、子供から見える季節感と言うのを忘れている。健康維持だの趣味を持つとか血糖値がどうのこうのとか、うるせっ。小学校のそばに引っ越して、子供見てれば元気になる。学校のそばに住んでる年輩者は長生きするとか。調査したわけじゃないから、限りなくウソ。
 だが、老人施設も介護施設も、病院も葬祭場も小中高の学校のそばに建ててもイイんじゃないか。若きは老いを見て、老いし人は若きを見る。西洋的合理、個人主義的社会のシステムをまねることはない。

2003 / 7 / 9 ( WED )

岡鹿之助

 今朝の佐賀新聞・「有明抄」(晃)に目が留まった。
 要約して書くと、”明治から昭和にかけて活躍した劇評論家・岡鬼太郎の長男は洋画家の岡鹿之助で、岡田三郎助に師事し、鬼太郎の父・善智は佐賀藩士で、岡鹿之助と名乗っていた時代があると推測されるが、図書館などで調べても追跡はここまで。ご存じの方があればご教授をー。”とあった。
 そこでやおら立ち上がり本棚を探した。あった。「油絵のマティエール」岡鹿之助。ひょっとして何か関連したことがあるかも知れぬと年表をめくった。
しかし、やはり年表すらなく、参考文献やフランス語の本の名ばかりが連ねてあり、この書は絵画の技術材料の専門書である。
一からやり直そうと、抽象絵画志向を押さえ、20代のころにむさぼり読んだ本のひとつである。
 有明抄のおかげで、なつかしくもページをめくることになる。
 アンリ・ルッソーの「牧場」の絵の技術的説明も今は読むまでもないが、カラーの口絵を見ると、手前の人物の腕が後方に立つ牛の後ろに重なっている。この間違いにルッソーは気づかなかったのか。同じような間違いを他の作品でも繰り返している。
 「人力うどん」街の通りでよく見かけるの看板もそんなところがある。ねらってやったのか、気づかなかったのか、下手なのか?しかし、それはどうでもイイこと。微笑するおかしさがあり看板にもなっているのである。
 メチエの項で「この絵にはメチエがないと言う」とあった。石本秀雄先生と初対面のころ、20代の作家が集まり「32人展」と言うのを「ギャラリー佐賀」でやったとき、誰かの作品の前で同じ台詞を言われた。「メチエがないねぇ、素材そのものになってる」と。最近では使わない表現である。当時の画家は情報もなく、多くを美術書に依存していたことがうかがえる。西欧の美術、文化、考え方に極端に飢えていたのである。
 「メチエがない」とは作者の志向、意欲が汲みとれる造形としての骨格、技術が作品に裏打ちされてないということを差す。しかし、昨今ではここまで強く言う人はいない。その考え方、思想なりを逆手にとるような表現スタイルが多様化しているからであろう。 ただしかし、素材、材料を科学的に知り、技術を習得することで西洋画の地平を越えようとする根本思想としては色あせることはない。
 今日も朝から思わぬ方向へすべりだした。
 けれども、終わってみると、極ありふれた一日であった

2003 / 6 / 25 ( WED )

おなご先生に拍手

 午前中、家人をお寺に送り、その足でクリーク公園へいく。
ヘラブナ釣りをする人が、4,5人いて、また、それを傍らで見物している人がいるから、昔のように平和な空。
 定年退職した人たちか、リストラか、仕事がオフの人か、それは定かでない。ヒマな人たちには違いない。そう言うあんたは何んなのさ。
 それにしても、それぞれの釣り師にくっついて見物している人間の気が知れない。
 借景、空気は最高だが、鮒釣りにはどうか?フナはバスにやられてめったに釣れないのである。ヘラブナ釣りは入れ食いじゃなくちゃ。もしかしたらコイをねらっているのかも。コイの大きいのを以前からよく目撃していてから。でも太陽を浴び、浮きを見つめ座っている時間が釣り人にはイイのかも。
 三脚とカメラ持った見るからに写真同好会スタイルおじさんもやってきた。景色を撮るのか、昆虫を撮るかは解らないが、目と目が合って互いに路を変えた。
 からっこん(チョウトンボ)が先日に比べ、かなり増え、群がってる。カラッコンを子供用のカラフルな捕虫網で捕まえ、カメラで撮る。そしてリリース。どこから見ても「変な兄ぃ」、ナタデココ、吉田屋の牛丼、弥生時代。
 3年前まではギンヤンマばかりだったのに、昨年も今年も数えるほど。産卵するカップルを見ることもない。メスを捕まえ「やーもほっ」をやろうと糸も用意してるが、無用の介。
 そこへ、女先生を先頭にチーチーパッパッと小学二年生ぐらいの一団が捕虫網に虫カゴ持って、ピーチク、ペチャパラやってきたから大変。兄ぃとしてはここは退散。
 田舎の子でもクリークに近づいたり虫を捕ったりしないこのごろ。女先生、危険覚悟でよくも連れてきたものだ。保護者の引率もなければ、反対はなかったのか、向こう見ずなのか、あんたはエライ。
 校長は許可はしたものの、男性教師を同行させてない。何かあれば、釣り人や、ヒマな見物人を頼りにするしかない。痴漢男がいたりして?
 昔はこれが普通だったが、今の世はキケンがいっぱい、変態もいっぱい、手抜き授業もいっぱい。ホント、2クラスの女先生さん。あなた方はえらい。無事学校へ帰ったろうね。

 2003 / 6 / 1 ( SUN )

「オープンスカイ、八谷和彦」展

 静かな朝だ。涼しくさえあれば、夏の朝はしずかだ。騒音が聞こえようともひんやりした空気の中はしずか。他に何も望まない。
 一般道は信号機が絶え間なくあり、つき合っていられない。そこで南関から高速に乗った。あっという間に熊本。途中うどん屋で腹ごしらえをして、うどん屋のお兄さんに現代美術館(KAMK)の場所を訊く。
教えてもらった通りに走ったら、すぐに発見。鶴屋デパートの前の日航ホテルの三階に垂れ幕が下がっていた。
「オープンスカイ、八谷和彦」
 「ポストペット」から風の谷のナウシカかに登場する「メーヴェ(飛行機)」まで様々に展示してあり、彼の仕事の全貌が見られるようになっている。前日の台風の影響で日程が狂い、作者と学芸員は会場にいなかった。阿蘇の高原へメーヴェの実験飛行に出払っていた。しかるに今回のメインである「視聴覚交換マシン」も体験できなくて非常に残念である。
 スケートボードをする「ライト/デプス」はアクリル板でできており、下からブルーのライトを当てることで、さも波乗り風な仕掛けになっている。映画[Back to the future]からはジェットエンジンを搭載した「エアーボード」を制作し、自動車の後尾に付けたしっぽで、「ありがとう」と合図をおくる「サンクステイル」、それに自分が見ている視界を相手が見、相手の視界を自分が見ると言う「視聴覚交換マシン」。
 彼の考え方、発想は、今までほとんど世界の美術界でも限りなく皆無である。美術教育では教わらない、言い換えれば、もしあったとしても過去にはアートとして認めなかったかも知れない。
 ポストペットがそうであるように、自分だけで楽しむんじゃなく、相手をも巻き込み参加共有しようとしているようだ。これらの発想は”やさしさ”と置き換えてみてもイイ。環境、人工の問題にも彼の思想は必要となるだろう。
 1966年生まれ、佐賀北高,九州芸工大画像設計学科卒、37歳。
 同じ北高卒のボクとしても北高にもこんなに楽しい人がいたのかと、うれしくたのしい展覧会だった。
 この熊本市現代美術館はごく最近オープンしたと思うが、各部屋のコーナーに座っている番人(見張り?)の女性の方々が、すごく積極的なのである。近づいてこられるので、何か悪いことでもしたのかなと、びくっとしていると、そうではなく、説明をしてくださるのである。ただ椅子に座って注意するためだけに目を光らしているという旧態依然のコンセプトと違って驚かされた。アメリカ的なのである。威張らず親しみがあるのである。こうでなくては。写真もOK.
30前年のことであるけど、ストックホルム現代美術館ではすでに小学校の子供たちが作品に触れ、遊んでいた。そのとき「ここはなんじゃ」と古い日本の美術館との狭間であたふたしたことがあった。
 ここ熊本のCAMKも八谷氏の展覧会を見にくるだけでなく、視聴覚室、卓球スペース、ミニ図書館、ギャラリーショップなどがあり、様々に子供も大人も参加して、美術館が息をしているのが、そのまま伝わってくる。
 佐賀よりちょっとは都会かと、思ってはいたのであるが、熊本市は大都会である。日曜日でもあろうが、アーケードは近代的に広く高く明るく、押し寄せる人の波が終わらない。圧倒的に若者たちである。佐賀から撤退したスーパー、本屋もここにはある。あふれた人の流れは美術館にもおよび、家族の買い物を待つ父親、家族、学生のグループと館内は活気があり、地方の在り方のお手本であり、成功例として、佐賀を憂い考える。
 諸条件の違いはあったにせよ、先を読める人材が佐賀にはいなかったのである。
 ゴーストタウン化した街から輝ける若者は育つのか、しかし若者はいつの時代においても底なしだ。悪条件をバネとする奴らもいるはず、彼らは見えない。佐賀をサガしてもどうにもならなかった。見えない彼らを見る。
 

2003 / 5 / 15 ( THU )

亀の平面

 路上でぺしゃんこになった空き缶を見つけるのも難しくなった。イイことではあるが、ちょっと寂しい気もする。路上でつぶれた空き缶を拾ってまわてたことがある。決してボランティアの清掃ではないけどいくらでも拾えた。空き缶採集である。立体であったものが路面化するのである。なのに枯れ葉はどうつぶそうが、枯れ葉である。正にかキャンバスという平面上のできごとでもある。平面に平面を見たり、立体をみたりして心揺さぶられる。無論色彩もあるが、解説するには複雑すぎ、「あなたの感じるままに」と逃げ腰になる。
 グリーンベルト、植え込みでは空き缶がぞくぞくでてるようだ。マナーも教育だろうが、次の世代に見えてくる一種の遺伝子みたいなもの。
 犬、猫、イタチ、カメ、カエルはいまでも目に付く。路面にへばりつき、やがて路面と同化する。タマちゃんどころではない。
 路上に子供の靴も結構おちてるが、何故の原因かは不明。
 一番目にするのは、ゴム製品。と言ってもコンドウさんではない。かって畑に落ちてたのはイチジク浣腸。
 ゴムひも、ゴム手袋が最も多い。作業車や運搬車が考えられる。絶え間なく動く日本の現状がこぼれ落ちるのである。
 平面か化した缶の形状、表情はすべて異なる。偶然に車と出くわし瞬時にものの見事に薄い鉄板に変わってしまう。現代のアンモナイトなのである。平面カエルや平面ガメを見る季節になった。

2003 / 4 / 27 ( SUN )

舟さんの個展

 宣言通り、三田川へ舟さんの個展を見に行く。吉野ヶ里駅裏の広場に数年前より設置してある舟さんのカラフルな動くオブジェの写真を撮ってたら、感じの悪い管理人が「芝生にはいらないで・・立て札があったでしょう」というので、「なかった」と言うと「ある」と言う。確かに「芝生造成中、立入禁止」とあるが目につかなかた。そこで、負けじと「そんなことばかり言ってると、だれもここにこなくなるよ」と言い返してやった。遠いところから観光客などがきて、イイ作品だなと芝生に入るかも知れない。そしておやじに注意されたとしたらどうする。タダでさえ人がこなく、何とかいづこもお客に来てもらうよう、いろいろ知恵をしぼってやってる鼻から、杓子定規の時代遅れのわからんコチコチのおやじがぶっつぶしているのである。武雄のホテルのひまな画廊の庭で砂利に入って写真撮ってたときも、わざわざチケット売り場から中年の女がでてきて「入らないでください」と言う。確かに立て札が掲示してはある。家の前に自転車止めてたときは、くどくどと交通の邪魔になるといわれ、こちらが切れそうになる前に警官が切れた。警官はある意味それが仕事だから仕方ない面もわかるのだが。
 すべてが法律、条例、個人のルールでは救いようがない。こんな性格の人間どうやったらできるのか?とわからん。
 たとえば、ニューヨークのMOMAは接近して見てイイし、写真も自由に撮ってイイ。監視員ものんびりリラックスしている。時代は大きく変化している。情報や特許もインターネットで公開するという、方向にある。そうすることの方が頭脳を結集でき、発明、創造の世界が広がると言うのである。だから人はアメリカにあこがれるのだ。著作権もで儲けようなんて、古いのかも知れんが、すんなりとは、認めにくい。ハリーポッターの作家のようにもうかって、どうすんだ。あなたも、わたしも、不可能な夢で、人間の心が貧困になるのは必至。がんばれがんばれ、負けるなは、すべてその論理であり、そういう教育、情報のなかでそだってきたのも避けられない事実。そこが、言語や精神の袋小路、病める閉塞じょうたいなのであろう。
 しかし、吉野ヶ里駅ホールが舟さんの個展会場ではなかった。”アートえる”なのだ、しかし場所がわからない。タクシーの運手
さんに訪ねても 知らない という。そこでるーゑに電話して、山ちゃんに詳しく教えてもらう。すぐにわかった。それにしてもタクシーでこの画廊に来る人はいないのか。
 会場で写真とってたら、舟さんが出勤したきた。10メートルの布に一気に描いたと見える色形に、良寛さんみたいな気ままな、自由奔放さが見えた。60代に入らなければ良寛的世界観はみえてこないのか。すぐれた現代美術作品は、自分であって、自分から抜け出た、セミのからみたいなものを装っているようにボクは思っている。ボクの好きなクリストにしても彼の数十キロのカーテンも、アイランドの梱包もベルリンの市庁舎の梱包ににしても、良寛的であり、蝉の抜け殻なのだ。内包するものと、中身がなくなった造花。言い換えればダビンチがいう、肉体と表皮と外界との関係である。輪郭は内部でも外部でもないミディアム(中間物)と言うように創造する感性は、日本的にいえば精神であり、現代美術を支え構成する不可欠な要素なのであることが解る。

2003 / 3 / 28 ( FRI )

子供博審査評

     三井グリーンランド子供博の審査。佐賀新聞社五回のホールでする。「ぼくの、わたいの夢。」例年の1、5倍とあって、時間も倍かかった。作品全部を床に並べ、一点一点み     ていくのであるが、何回もかたづけては、並べるをくりかえし、田植えをしているようで、みなさん息がハーハー言ってた。
     特別抜け出た作品もなく、入賞を選ぶのは迷い困った。明らかに絵画教室で先生が手を入れてると分かるものも多い。子供が下手でも何を見ていたのか、描こうとしたのか、    その点だけを最重要視した。コンクール慣れした学校や絵画教室の作品は、すべて落としたくなる。美術教育の誤った方向がこんなとこにもある。文部省が優秀美術教育校な     ど表彰してるが、あれが間違い。教師や指導者が必死になってるだけのもの、スポーツだって本来自由な発想で表現するものなのに、つらい練習にしごかれ耐えるものと思って     やってる、高校野球や高校バレーはちんぷな姿だ。
     子供たちの夢のアドバイスはしても、生き方にまで親も他人も指導者も踏み込んでいいものかどうか

2003 / 3 / 14 ( FRI )

マニュアルの疑問

 昨日、鑑賞会の4年生・40名の感想を担任の先生が届けてくださった。来たかっ、とよろこんで感想文を一枚一枚めくるが、どうも変だ画一化した短い文が、最後の一枚まで続いた。疑問をもちながらもあの時はひとまずうまくいったかな、と思ってたが、やはり、この結果である。大学の先生のプログラムに乗っとり、担任の先生も汗だくで鑑賞を進められたが、子供たちにはそれだけでしかなかったようだ。
 教育、特に美術教育の難しさがある。ぶっつけ本番でやればイイのである。感性に触れる部分を押さえつけたりなだめたり、ただそれだけ。過去の例からするとバラエティーに富んだ自分の感想を三年生でもしっかりと書いてた。この二つの落差は問題である。

2003 / 3 / 10 ( MON )

吉田西緡画集

 ハワイから戻って、すぐ美術館へ西緡さんの回顧展を見に行ったが、あってなかった。日にちを間違えたのか。家に帰って確かめたら、先週すでに終わってた。勘違いであり見ることはできなかったのである。
 今日、午後、郵便物が届いた。吉田西緡画集とシールが貼ってあり、裏には達筆の吉田醇子名前が記してあった。奥さんである。宏太郎さんもこちらにはいらしゃらないし、お一人と言うことになる。何歳になられるのであろうか。
梱包を解くとグリーンの布表紙に黄金の舟形があり、小さいけれどどっしりと重い手応えに存在感が伝わってきた。母、子で立派な画集を作られたものだ。
 ページをめくると、年代順に作品が掲載されており、最初のページにはボクが高校生の時、西緡さんの個展を商工会館で見た作品があった。西緡さんが独立賞を取り売り出しはじめたころで、ボクも佐賀では珍しい現代的な香りのする作品に刺激を受け、少しはその気になりかけていた青ずっぱい十代の思いで。
 以後いろいろと教えてもらい、おせわになった。後半ボクと会うと、「服部さんと石本先生とよく飲んでたよね」と口癖のように言われてた。パーティーの後に石本先生も同じ会派のひとたちといることはなく、確かに川本さん等4人でごいっしょしてた。
 ご老体後半になるほど一人になっていかれるようで、豪語される中にもさびしさが宿る石本先生でもあった。
 井手誠一さん石本秀雄さん吉田西緡さん。昨日のことのようではあるがこの世にはいらしゃらない。しかし作品は残る。
 作品を見てその人たちを懐かしみ忍ぶことはある。作品がなくてもそれは変わらないだろう。ボクとしては作品をのこそとか思うことはない。迷惑だけど、残った人が焼くなり保存するなりすればイイことである。
 ダビンチにしてもゴッホにしても作品がなかったら、ボク等も知ることも、学び考えることもなかったろう。間違いなく悪いことではないにしろ、何も残らずとてイイではないか。
 創る人は残さんがために作り出してるのでもないはず。それなのに生存中より顕彰の碑などがたつことも、しばしば、人間はいやしくも浅はかで見栄坊なのだ。
 埋もれようが焼かれようが、それはそれ。大事にする人の手元にあったものは残る、しかしやがては消える。ルーブルやエルミタージュにでも置かない限りやがては消える。四千年の歴史にしても敦煌の砂と消える。
 森羅万象、形なくとも心に残り、遺伝子に残り、宇宙の素粒子としての生命は、どこかで再び再生する。我らが現実も現実と背中合わせの膨大な時間と歴史を背負いこんでいる。人間の心身に降りかかる訳の解らんことも、そこにあるのだ。宗教があり、哲学があるけど、最早それでは、間に合わない、目に見える現実と背中の現実を置き換えた方が、早いのかも知れない。
 それを阻止しようとする勢力とそうでない集団が衝突してるのが、今の世界であり現実だ。

 2002 / 12 / 10 ( TUE )

絵をかく腰つき

 水彩画を描いてて思った。
 洋画では画架に紙なりキャンバスを立てて描くと言うのが普通であり、そんな練習を石膏デッサンなどでは特にたたき込まれるようだ。体を一定の姿勢に保ちモデルに向かうと言うふうに、そう習ってきた。その姿勢を見れば、キャリアはおのずと見えてくる。ボーリングじゃないんだから。どうでもイイはず。
 水彩がにしても西欧では立てて描く傾向がある。しかし書道や日本画は床に基底材を設置して、前かがみのしんどい姿勢を取る。画材料の重ねる行程に水を用いるなどの約束事、制約もあるのだが、それだけではない、農耕民族の生活文化から生じる前のめり姿勢はしんどいけれど、リズミカルに体調を刺激し、背筋を伸ばす西洋スタイルが地平を臨むものなら、前のめりは動物が餌でもあさる視界である。
 次々に現れる終わりなき地平の哲学と見えない大地にはいつくばる哲学。外面と内面、マクロとミクロ、見えるものと見えないものと言い換えられるものかも知れない。
 この空間に対する意識の違いは大きい。西欧人がわびさびが解らないのももそこであり、また魅力的な空間概念にもなっている。生活、習慣、文化をなしているものは、その人間が持つ(持って生まれた)空間概念である。

2002 / 11 / 22 ( FRI )

五木寛之氏の講演 恨(はん)

 五木寛之さんの講演を龍谷短大で聞く。昨年のドナルド・キーン氏とは打って代わって、講堂は超満員。ボクトとしてはキーン氏を望むところだが、五木さんの人気は衰えない。八百人の聴講だったとか。
 後一つ答えが見つからず、と言うか答えに切り込んで行くのさえ億劫になり、放棄していた嫌いがあったのだけれど、五木さんの話で曖昧な現実が形となって見えてくるのだった。五木さんは朝鮮語で恨み(はん)と言う概念を設定することで、彷徨い病める現代を手品のように形にして、見せてくれるのであった。
 生まれながらに誰しもが積もり積もった「はん」を遺伝子のごとく内在さしている。このキイワードが講演の「悲泣の時代に」の核になっていてと思う。ため息、恨(はん)、慈 悲、親鸞、歎異抄、悲泣をコンテキストに戦前、戦後、を振り返り、今日の姿を鮮明に浮かび上がらされた。
 恨(はん)を置くことで五木さんは解答を可能なものにしたと思う。新たに見た一つの解答である。
 慈はあかるく、楽しく、ガンバレと言ったヒューマン的なもので,悲は励まし、慰めと言った暗く元気のないもののごとく思われている。戦前よりずっとガンバレできてしまった。悲を人間失格や駄目なものと見てしまっている。
 人間には心なえる瞬間がある。なえる、しなえる、しなやか。悲に目を向け、悲こそが今日大切にしなければならない。 
 人々の心は軽く乾ききって、いるのにアフガンに井戸を掘ろうとする人たちもおれば、6年間で原爆で死んだ人と同じくらいの人が自殺しているのに、難民救済にガンバル人たちもいる。
 五木さんの考えは内容が暗いとマスコミ取り合ってもらえないそうだ。
 朝鮮で言う 「はん」の思想は、日本のある日突然ブルーになる思春期ともちがい、日本にはない思想である。
 席に着ことしたとき、背中で声がしたので、振り向くと、山田直行さんだった。それにしても最前列のお坊さんの一団のかなりの人が首うなだれて眠っている様子には、あきれた。
 全般を通して浮上してきた人がいた。それは雅光さんである。すでに慈と悲を生きてる人に見えてくるのだった。

2002 / 9 / 22 ( SUN )

草間弥生

日曜美術館。草間弥生のあばちゃんが、人気がある。といっても、かっては、奇人変人扱いで、週刊誌のネタだったのが、時代もあろうが、今更猫も杓子も解った振りして、歓迎してる。彼女は文句も言わないが、ホントこれでイイのか?特に今の時代に迷える女の子たちが通らなければならない迷宮、ラビリンズ、いや子宮そのものなのか、「草間弥生の本読んでます」「草間弥生ってどんな人ですか?」と20代のお姉ちゃんたちウチにもくるが、爪のあか飲んでみたたところで始まるまい。草間さんは程々に、それより父ちゃん母ちゃん、となりのおっさん、ほじくった方が早いかも。敵は本陣にあり。それ抜きにして外も見れまい。つづく

 2002 / 9 / 12 ( THU )

テロから一年

We will never forget 09/11 一周年である。
今再び激突崩壊の映像を見て、美しいという気持ちは消滅していた。
祭国強やクリストはアートでも戦争やテロはアートとはほど遠いものである。。

31年前(1971)の雨の日。
頂上が雲に隠れた建設中のツインタワーを見上げていた。
リュックを背負い、悩み、夢を描いていた青年もすでに50代。
感傷的になるのも秋のせいなのかも知れない。
旅に出たいとか。

ps: 美しいとかアートとして見てしまうのも当然かも知れない、
しかし、実際にアレは○○と言うアーティストの演出だった。と告げられたとしたら、・・。
ノーベルはダイナマイトを作った。